雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

をかしと思ふ歌を

2014-04-15 11:00:43 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百九十段 をかしと思ふ歌を

「をかし」と思ふ歌を、造紙などに書きて置きたるに、いふかひなき下種の、うち唄ひたるこそ、いと心憂けれ。

「これは良い」と思う歌を、帳面などに書きとめておいたのに、お話にならないような下種女が、その歌を気軽に唄っているのを聞いたときは、全くがっかりしてしまいます。



和歌や文芸などにおいて、少納言さまが特に鋭敏な神経を持っていることは当然のことでしょう。
しかし、それは、少納言さまに限らないと思われますが、上流社会の産物であって、下々とは縁のないものだという特権意識も、相当に強いものであったようです。

現代人が、その考え方の是非を云々することは全く意味のないことだと思うのですが、当時の下層の人たちは、優れた歌や、宮中などで話題になっている物語などを意外なほどに熟知していたようです。
「少納言さま、あまりがっかりしないでください」と言いたいところです。
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運命紀行  才女の娘 

2014-04-15 08:00:03 | 運命紀行

          運命紀行
               才女の娘

小馬命婦(コマノミョウブ)について詳しく知りたいと思った。

平安時代には、現在に伝えられている小馬命婦は二人いる。
円融院の皇后に仕えた小馬命婦については、すでに『森の下草』という見出しを付けて本稿で紹介済みである。この女房は、当時一流の歌人として、勅撰和歌集に七首収録されていて、歌集も伝えられている。当時の宮廷女房の生涯を知ることは難しいが、ある程度推察するだけの資料はあった。
しかし、もう一人の小馬命婦については、私などが手にすることができる資料は極めて少ない。
そのような女性を本稿の主人公になぜ選んだのかとなれば、その理由はただ一つで、平安王朝文学における随一の才媛といっても過言でない清少納言の娘だからである。

小馬命婦の生没年は全く分からない。
父は、摂津守を務めた藤原棟世(ムネヨ)である。棟世は、藤原南家の出身であるが、当時絶大な権力を握っていた藤原道長との関係は悪くなかったらしい。最終官位は、正四位下左中弁というから、大国の国守より上位に至っている。やはり生没年は不詳であるが、清少納言より二十歳ほど年上であったらしい。
母は、清少納言である。清少納言の実家も受領層にあたる中級の貴族であるが、父の清原元輔・曽祖父の清原深養父は、名高い歌人であり知識人として功名な人物である。清少納言が当時男性の学問とされていた漢詩などの知識を身につけていたのには、恵まれた家庭環境があった。
紫式部などもそうであるが、当時の女流文学の担い手には受領層の娘が多い。その理由は、受領層は貴族としては中下級であるが、地方官の実入りは多く、特に国守ともなれば、経済的には相当うま味があったようで、「枕草子」などにも任官希望者が多かったことが描かれている。
その恵まれた経済力を背景として、幼い頃から教育され、摂関政治の興隆もあって、女房として教養を発揮させる場面が増えたことにあるようだ。

小馬命婦の誕生の年を探る唯一の方法は、清少納言の動向から推察することであった。
清少納言は、康保三年(966)に誕生したとするのがほぼ定説である。藤原道長、藤原公任などとほぼ同年である。
十六歳の頃、一歳年上の橘則光と結婚、翌年則長を生んでいる。則光も受領層の貴族で、後年には陸奥守になっている。則長もやはり越中守に昇っている。則光という人物は、誠実な人柄ではあるが無骨な人物らしく、漢学や和歌などに秀でていた清少納言とは合わない面があったらしく、十年ほど後に離婚したらしい。しかし、その後も兄と妹といわれるような親しい関係であったらしく、「枕草子」にも度々登場している。
正暦四年(993)の冬の頃に、一条天皇の中宮定子のもとに出仕した。清少納言二十八歳、中宮定子十八歳、一条天皇十四歳の頃のことである。
定子の実家・中関白家の絶頂期である。しかし、その僅か一年半ほど後に定子の父関白藤原道隆が没すると、その弟である道長が台頭してくるとともに、中関白家は没落の一途をたどり、定子も、道長の娘彰子にその地位を奪われていくのである。
失意の定子は、長保二年(1000)十二月、第三子出産の後没した。

清少納言は、定子崩御の翌年に宮中を離れたようだ。清少納言三十六歳の頃で、その前後の頃に藤原棟世と再婚しているが、その時期ははっきりしない。
結婚後には、棟世の任地先である摂津に下ったようであるが、夫は何年も経たないうちに亡くなっている。やはり正確な時期は分からない。
これらの断片的な情報から推定すれば、小馬命婦の誕生は、西暦1000年の前後数年の間と考えられる。個人的には、清少納言が宮仕えを辞すにあたっては、出産を控えていたことも理由だったのではないかと考えている。
全くの想像にすぎないが、当時道長の権力が日増しに強まっている時期であり、才能豊かな女房を集めていた道長が清少納言を簡単に退出させたとは思われないからである。亡き定子への貞節を通すということもあったとしても、道長とは宮仕えを通して面識があり、無下にはねつけることは難しかったように思われるからである。それに、その頃はまだ彰子には子供はなく、定子と彰子の対立はそれほど激しいものではなく、定子の遺児養育のためにも清少納言が道長あるいは彰子に仕えるという選択肢もあったように思われるのである。

この推定に立てば、小馬命婦の誕生は、長保三年(1001)かその翌年ということになる。
清少納言にすれば、敬愛してやまない定子の生まれ変わりのように感じられる、珠玉の姫であったことだろう。
幸い、先に述べたように、国守を歴任する家は、経済的には恵まれていた。おそらく小馬命婦は、平安期最高の才女である母の選んだ人物の指導を受け、あるいはその母自らの教育を受けて、教養豊かな女性に育ったものと思いたい。

しかし、その後の小馬命婦の消息については、上東門院(中宮彰子)に女房として仕えたということ以外は分からないのである。


     ☆  ☆  ☆

平安時代の才女を二人挙げるとすれば、清少納言と紫式部を挙げる人が多いのではないだろうか。
もちろん、王朝文学全盛の時代なので、好みや選考の視点によって候補となる人物は少なくないとも考えられる。しかし、やはり、現代まで伝えられている「枕草子」と「源氏物語」の著名度は圧倒的といえる。
さらに、清少納言と紫式部が対立関係にあったらしいといった話もあって、その興味からも二人の存在が際立ってくる。

確かに、一条天皇の御代、ともに中宮となる定子と彰子をめぐる権力闘争は激しいものであった。( 正しくは、彰子が中宮になった時には、定子は皇后となっている。)
清少納言が仕えた定子の実家は、関白道隆の中関白家。紫式部が仕えた彰子の父は道長で、後に御堂関白家と呼ばれることになる。道隆と道長は兄弟であるが、道隆が没した後、その子らと道長は激しい権力闘争のあと中関白家は没していく。
定子は、一条天皇の第一皇子を儲けているが、九歳年下の彰子の生んだ皇子に後継者の地位を奪われている。中宮(皇后と同位)が生んだ第一皇子が後継から外されるのは極めて異例なことで、道長の権力のすさまじさが窺える。
そして何よりも、定子は第三子の出産のため、二十五歳の若さで世を去っているが、彰子は八十七歳までの長寿に恵まれ、二人の天皇の母となっている。
当然、定子・彰子に仕えた二人にも、激しい対抗意識があったと考えてしまいがちであるが、実際は少し違う。

まず第一に、清少納言と紫式部は一度でも顔を合わせたことがあったのだろうか。少なくとも、交流というほどの出会いはなかったと考えられる。
紫式部の生没年も確定しがたいので、年齢等も推定になるが、清少納言の方が七歳ほど年上である。(四歳あるいは十二歳という説もある)
紫式部も受領の家柄であるが、若い頃の消息は定かでないが、母親とは早くに死別している。学問は父親の薫陶を受けて和歌ばかりでなく漢学もよく学んだというから、清少納言とよく似ている。二十代の半ば頃には父の任国である越前に同行していたようで、長徳四年(998)に帰京してやはり受領層の藤原宣孝と結婚、二十六歳の頃である。二十九歳であったという説もあるが、いずれにしても当時としてはかなり晩婚であった。
翌年には一女(後の大弐三位)を儲けたが、三年後には夫を亡くしている。
長保三年(1001)のことで、この頃から「源氏物語」を書き始めたとされ、二年ほどで完成したらしい。

紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは寛弘二年(1005)末のことで、(次の年という説もある)すでに「源氏物語」が話題になっていて、それにより道長に勧誘されたものであろう。
「源氏物語」を書き上げるからには、宮廷との直接あるいは間接の接点があったと考えられるが、正式な宮廷デビューはこの時なのである。清少納言は、すでに四年ほども前に出仕を辞しているのである。
「枕草子」の完成は、一応長保三年(1001)頃には完成し、さらにその後も若干書き加えられているが、最初に宮廷に知られるようになったのは、長徳二年(996)に源経房が持ち出したことが切っ掛けとされており、「源氏物語」が書き始められる頃には、すでに作品として認知を受けていたと思われる。

二人の仲が悪い云々の一番の根拠は、「紫式部日記」の中で、清少納言について「深くもない漢詩文の知見をひけらかす」と酷評していることにある。
しかし、清少納言は紫式部について書いている部分は全くない。「枕草子」の中で、紫式部の夫となった宣孝について、その奇抜さを皮肉っている一文があるが、大分前のことで紫式部を意識してのものではない。ただ、紫式部はその一文を見ている可能性は高い。
したがって仲が悪い云々は、紫式部が一方的に感じていたことで、清少納言がその一文を書く段階では、紫式部も「源氏物語」も全く意識していなかったはずである。

紫式部は長和三年(1014)始め頃までは宮仕えをしていたと思われるが、その後消息が絶えている。この頃に死去したとも、寛仁三年(1014)頃に死去したとも言われている。
清少納言は、宮仕えを辞した後、再婚した夫とともに国守夫人として摂津に赴いたらしい。ただ、夫の棟世はほどなく他界したようである。晩年は、亡父清原元輔の山荘のあった京都東山辺りに住んだらしい。そして、かねてから交流のあった藤原公任や、彰子付きの女房である和泉式部や赤染衛門らとも交流があったとされるが、紫式部の名前は出てこない。
また、清少納言が晩年零落したという説もあるようだが、清原家は健在であり、息子の橘則光も国守となっていることなどから、宮廷時の華やかさを失った生活ということであって、著しい零落などは考えにくい。
いずれにしても、悲劇的な最期を迎えた中宮定子に仕えた清少納言の作風は「陽」といえるのに対して、栄華をほしいままにした中宮彰子に仕えた紫式部の作風はそれに比べれば遥かに「陰」であることも、二人を対比させたい要因になっているようである。

そして、この二人の才女の娘たちであるが、紫式部の娘は、母の跡を継ぎ彰子の女房として出仕している。母と違って社交的な女性であったらしく、多くの浮名を残したようであり、歌人としても優れ、その和歌は小倉百人一首にも採用され今に伝えられている。さらに、万寿二年(1025)には、のちの後冷泉天皇の誕生とともにその乳母に任ぜられ、即位後従三位が与えられている。大弐三位という女房名は、夫の官職とともに付けられたものと思われるが、従三位といえば男性なら公卿と呼ばれる身分なのである。
大弐三位は、八十三歳の頃まで長寿を保ち、母を超える栄華を手にしたようである。

一方の清少納言の娘である小馬命婦も、彰子のもとに仕えている。
清少納言をよく知っている道長がその代わりのように出仕を求めたのか、あるいは清少納言が宮中に出向いて娘の出仕を願い出たものかもしれない。
ただ、その後の小馬命婦の消息は、残念ながら全く探ることができない。歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに、穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。
勅撰和歌集に伝えられている小馬命婦の和歌は、「後拾遺和歌集」に載る一首のみである。

『 その色の草とも見えず枯れにしを いかに言ひてか今日はかくべき 』

                                                ( 完 )


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