枕草子 第二百九十四段 僧都の御乳母の
僧都の御乳母のままなど、御匣殿の御局にゐたれば、男のある、板敷のもと近う寄り来て、
「からい目を見さぶらひて。誰にかは、憂へ申しはべらむ」
とて、泣きぬばかりの気色にて、
「何事ぞ」
と問へば、
「あからさまに、ものにまかりたりしほどに、はべる所の焼けはべりにければ、寄居子のやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ。馬寮の御秣積みてはべりける家より出でまうで来てはべるなり。ただ垣を隔ててはべれば、夜殿に寝てはべりける童女も、ほとほと焼けぬべくてなむ。いささか物も、取う出はべらず」
などいひをるを、御匣殿もききたまひて、いみじう笑ひたまふ。
(以下割愛)
僧都(中宮の弟、隆円)の御乳母のまま(「まま」は、乳母のことを言う)などが、御匣殿(ミクシゲドノ・中宮の妹。)の御局に坐っていると、そこにいる下男の一人が、縁側のもと近くに寄ってきて、
「ひどい目に遭いましてございます。どなたに訴えればいいのでしょうか」
と言って、今にも泣き出しそうな様子なので、
「一体どうしたの」
と、ままが問うと、
「ほんのちょっと、よそに出掛けました留守に、住んでおります所が焼けてしまいましたので、寄居子(ガウナ・やどかり)のように、よその人の家に尻を差し入れて暮らしています。馬寮(ムマヅカサ・宮中の馬を管理する役所)の御まぐさを積んでおりました家から出火いたしまして、延焼したのでございます。ほんの垣根を隔てただけの所ですので、寝間に寝ておりました童女(ワラハベ・少女のことだが、自分の妻のことを謙遜していった。)も、危うく焼け死にそうになりましてねぇ。何一つも、運び出しは出来ません」
などと言って畏まっているのを、御匣殿もお聞きになって、たいそうお笑いになる。
『 御秣(ミマクサ)をもやすばかりの春のひに よどのさへなど残らざるらむ 』
(「秣を燃やす程度の火で、どうして夜殿まで丸焼けになったのですか」と「若草を萌えださせる程度の春の陽光で、どうして淀野までも丸焼けになったのですか」の意を掛けている。)
と書いて、
「これを渡してやってください」
と私が投げてやりますと、女房たちは大笑いして、ままが、
「こちらにいらっしゃるお方が、『お前の家が焼けたそうだ』からと言って、気の毒がって、下さりましたよ」
と、男に与えたところ、ひろげて眺め、
「これは、何の御短冊なのでございましょうか。どのくらいの物がいただけるものなのでしょうか」
というので、ままは、
「ともかく読んでみなさいよ」
と言う。
「どうして読めましょう。片目だって開いていませんのですから」
と言うので、
「誰かに見てもらいなさい。たった今、中宮さまからお召しがあったので、私たちは急いで御前に参上します。それほどすばらしいものを手に入れたのだから、何をくよくよすることがあるのか」
と言い捨てて、みな笑いころげながら、参上してしまったので、
「誰かに見せたでしょうか」
「家へ帰ってから、どんなに怒ることでしょう」
などと、中宮さまの御前に参上して、ままが申し上げますと、お付きの女房たちが、これまた大笑いする。中宮さまも、
「どうして、そなたたちはそんなにも大騒ぎするのか」
と、お笑いになられる。
下男の災難に対して、御匣殿が「いみじう笑ひたまふ」と言うところがあります。おそらく、下男の話しぶりが深窓育ちの姫君には可笑しかったのでしょうが、同時に、下男の災難など全く関心がないように見えます。それは、少納言さまや他の女房たちも同じ感覚なのでしょう。
ただ、少納言さまのために弁解するわけではないのですが、その場にいる人たちが冷酷ということではなく、住む世界が違うといった社会だったのでしょう。
最後の部分で中宮が、「など、かくもの狂ほしからむ」と、大騒ぎを戒めるような言葉がありますが、「少しほっとする」感じがします。
僧都の御乳母のままなど、御匣殿の御局にゐたれば、男のある、板敷のもと近う寄り来て、
「からい目を見さぶらひて。誰にかは、憂へ申しはべらむ」
とて、泣きぬばかりの気色にて、
「何事ぞ」
と問へば、
「あからさまに、ものにまかりたりしほどに、はべる所の焼けはべりにければ、寄居子のやうに、人の家に尻をさし入れてのみさぶらふ。馬寮の御秣積みてはべりける家より出でまうで来てはべるなり。ただ垣を隔ててはべれば、夜殿に寝てはべりける童女も、ほとほと焼けぬべくてなむ。いささか物も、取う出はべらず」
などいひをるを、御匣殿もききたまひて、いみじう笑ひたまふ。
(以下割愛)
僧都(中宮の弟、隆円)の御乳母のまま(「まま」は、乳母のことを言う)などが、御匣殿(ミクシゲドノ・中宮の妹。)の御局に坐っていると、そこにいる下男の一人が、縁側のもと近くに寄ってきて、
「ひどい目に遭いましてございます。どなたに訴えればいいのでしょうか」
と言って、今にも泣き出しそうな様子なので、
「一体どうしたの」
と、ままが問うと、
「ほんのちょっと、よそに出掛けました留守に、住んでおります所が焼けてしまいましたので、寄居子(ガウナ・やどかり)のように、よその人の家に尻を差し入れて暮らしています。馬寮(ムマヅカサ・宮中の馬を管理する役所)の御まぐさを積んでおりました家から出火いたしまして、延焼したのでございます。ほんの垣根を隔てただけの所ですので、寝間に寝ておりました童女(ワラハベ・少女のことだが、自分の妻のことを謙遜していった。)も、危うく焼け死にそうになりましてねぇ。何一つも、運び出しは出来ません」
などと言って畏まっているのを、御匣殿もお聞きになって、たいそうお笑いになる。
『 御秣(ミマクサ)をもやすばかりの春のひに よどのさへなど残らざるらむ 』
(「秣を燃やす程度の火で、どうして夜殿まで丸焼けになったのですか」と「若草を萌えださせる程度の春の陽光で、どうして淀野までも丸焼けになったのですか」の意を掛けている。)
と書いて、
「これを渡してやってください」
と私が投げてやりますと、女房たちは大笑いして、ままが、
「こちらにいらっしゃるお方が、『お前の家が焼けたそうだ』からと言って、気の毒がって、下さりましたよ」
と、男に与えたところ、ひろげて眺め、
「これは、何の御短冊なのでございましょうか。どのくらいの物がいただけるものなのでしょうか」
というので、ままは、
「ともかく読んでみなさいよ」
と言う。
「どうして読めましょう。片目だって開いていませんのですから」
と言うので、
「誰かに見てもらいなさい。たった今、中宮さまからお召しがあったので、私たちは急いで御前に参上します。それほどすばらしいものを手に入れたのだから、何をくよくよすることがあるのか」
と言い捨てて、みな笑いころげながら、参上してしまったので、
「誰かに見せたでしょうか」
「家へ帰ってから、どんなに怒ることでしょう」
などと、中宮さまの御前に参上して、ままが申し上げますと、お付きの女房たちが、これまた大笑いする。中宮さまも、
「どうして、そなたたちはそんなにも大騒ぎするのか」
と、お笑いになられる。
下男の災難に対して、御匣殿が「いみじう笑ひたまふ」と言うところがあります。おそらく、下男の話しぶりが深窓育ちの姫君には可笑しかったのでしょうが、同時に、下男の災難など全く関心がないように見えます。それは、少納言さまや他の女房たちも同じ感覚なのでしょう。
ただ、少納言さまのために弁解するわけではないのですが、その場にいる人たちが冷酷ということではなく、住む世界が違うといった社会だったのでしょう。
最後の部分で中宮が、「など、かくもの狂ほしからむ」と、大騒ぎを戒めるような言葉がありますが、「少しほっとする」感じがします。