雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

松の木立高きところの

2014-04-03 17:00:17 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          松の木立高きところの ( 流布本のうちの一本二十三 ) 

( 一本二十三 )        

松の木立高きところの、東・南の格子上げわたしたれば、涼しげに透きて見ゆる母屋(モヤ)に、四尺の几帳立てて、その前に円座(ワラウダ)置きて、四十ばかりの僧の、いと清げなる墨染の衣・羅(ウスモノ)の袈裟、あざやかに装束(サウゾ)きて、香染めの扇をつかひ、せめて(声を張り上げて)陀羅尼を読みゐたり。

もののけにいたう悩めば、移すべき人とて(祈祷で物の怪を移す元気な人・よりまし)、大きやかなる童女の、生絹(スズシ)の単衣・あざやかなる袴、長う着なして、ゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつらにゐたれば、外ざまにひねり向きて、いとあざやかなる独鈷(ドコ・魔を退散させる法力をもつ武器)を執らせて(持たせて)、うち拝みて読む陀羅尼も、尊し。見証(ケソ・立ち会い)の女房あまた添ひゐて、つと目守(マモ)らへたり。
久しうもあらで震ひ出でぬれば、本の心失せて(正気を失って)、行なふままに従ひたまへる仏の御心も、「いと尊し」と見ゆ。

兄(セウト)・従兄弟なども、みな内外(ナイゲ・出入り)したる、尊がりて集まりたるも、例の心ならば、いかに「恥づかし」と、まどはむ。(童女も、正気なら、恥ずかしいとあわてることだろう)
「みづからは、苦しからぬこと」と知りながら、いみじう侘び(ワビ・苦しがって)、泣いたるさまの、心苦しげなるを、憑き人の知り人どもなどは、らうたく(いじらしく)思ひ、け近くゐて、衣ひきつくろひなどす。

かかるほどに、よろしくて(病人が落ち着いてきて)、
「御湯」
など、いふ。北面(キタオモテ・北廂に台所などがある)に取り次ぐ若き人(女房)どもは、心もとなく(気がかりで)、引き提げながら、急ぎ来てぞみるや。単衣どもいと清げに、淡色の裳など、萎えかかりてはあらず、清げなり。
いみじう、ことわりなどいはせて(物の怪に、わびごとなどを言わせて)、赦しつ(放免してやる)。
「『几帳のうちにあり』とこそ思ひしか。あさましくもあらはに出でにけるかな。いかなることありつらむ」(童女が、物の怪が移りついていた間の様子を恥ずかしがっている)
と恥づかしくて、髪を振りかけて、滑り入れば(御簾の中へ入ろうとする)、
「しばし」
とて、加持すこしうちして(簡単なまじないをして)、
「いかにぞや。さわやかになりたまひたりや」
とて、うち笑みたるも、心恥づかしげなり(立派な態度である)。
「しばしもさぶらふべきを、時のほどになりはべりぬれば」
など、罷り申しして、出づれば、
「しばし」
など、とむれど、いみじう急ぎ帰る。

所に(その邸で)上臈とおぼしき人、簾のもとにゐざり出でて、
「いと嬉しく立ち寄らせたまへる験(シルシ・お陰)に、堪へがたう思ひたまへつるを、ただ今、おこたりたるやうにはべれば、かへすがへすなむよろこびきこえさする。明日も、御暇(オンイトマ)のひまには、ものせさせたまへ(お越しください)」
となむ、いひ告ぐ(主人の挨拶を取り次ぐ)。
「いと執念(シフネ)き御もののけにはべるめり。たゆませたまはざらむ(気を許さないのが)、ようはべるべき。よろしうものせさせたまふなるを、よろこび申しはべる」
と、言少なにて出づるほど、いと験ありて、仏のあらはれたまへるとこそ、おぼゆれ。

清げなる童部の、髪うるはしき、また大きなるが、髭は生ひたれど、思はずに(意外に)髪うるはしき、うちしたたかにむくつけげに多かる(何ともうるさいほど髪の多い)など、多くて、暇なう(忙しく)、ここかしこにやむごとなうおぼえあるこそ、法師も、あらまほしげなるわざなれ(望ましいあり方だ)。


少納言さまの時代、病気治療の主役は、加持祈祷でした。
登場している病人は大家の女主人で、祈祷にあたる僧侶も名僧で、理想的な祈祷の様子といえます。その様子がかなり詳しく記されていて、とても面白く、貴重な内容といえます。
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運命紀行 平安王朝の全盛期

2014-04-03 08:00:53 | 運命紀行
          運命紀行
               平安王朝の全盛期

平安時代とは、当然のことではあるが、京都平安京に都にあった期間を指す。
その始まりの時は、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都した西暦794年であり、鎌倉時代の始まりを以ってその終わりとなるが、その時期については二つの考え方がある。かつては、源頼朝が征夷大将軍に就任した西暦1192年というのが一般的であったが、最近では、平家が壇ノ浦で滅び去った1185年とする意見も有力である。
いずれを取るとしても、平安時代の期間は三百九十年を超え、江戸時代より百二十年以上も長いのである。

この期間の天皇は、平安京を開いた第五十代桓武天皇から、壇ノ浦で平家一族と悲劇を共にした第八十一代安徳幼帝、あるいは波乱の生涯を送った第八十二代後鳥羽天皇までということになる。
この間に在位された天皇は、三十二人、あるいは三十三人となり、今上天皇が第百二十五代であることを考えれば、歴史上に占める平安時代の重さが感じられる。

さて、平安時代に在位された天皇のうち、もっとも繁栄の時を治められたのはどの天皇であったのか。
在位期間の長さからいえば、第六十代醍醐天皇の三十三年間というのが最長であり、第六十六代一条天皇の二十五年間が続く。在位期間の長さがその御代が繁栄したということとは必ずしもつながらないし、特に平安中期以降は上皇による天皇家支配が濃厚になっていくので、その関連性は薄いと考えられる。しかし、そうとはいえ、在位期間が長いということは、その時代が比較的平安であったということは言えよう。

また、繁栄ということをどのような視点から捉えるかということによってその判断が大きく変わってくることも確かである。
天皇親政による繁栄期という視点に立ては、最長の在位期間を誇る醍醐天皇と考えられる。在位期間が二十一年に及ぶ第六十二代村上天皇の御代も優れた親政が行われたとされるので、この頃が、天皇政治の頂点であったのかもしれない。
後に、何かと騒乱の中心となることの多かった後醍醐天皇は、醍醐天皇の御代にあこがれた面が多々あったらしい。
それでは、いわれるところの絢爛豪華な王朝文化の全盛期はいつであったのかということになると、一条天皇の御代ということになるのではないだろうか。

一条天皇の在位期間は二十五年にも及ぶが、即位したのが七歳の時であり、時代は藤原氏の全盛期にあたることからも、天皇政治としては親政と呼ばれるほどの活動は見せていないように思われる。
しかし、平安時代の中で、絢爛と咲き誇る王朝文化の頂点がいつであったのかと考えてみれば、どうやら一条天皇の御代であったように思われるのである。その時代は、道長を中心とした藤原氏の全盛期でもあるので、ややもすると藤原氏の時代であったと考えられがちであるが、それも少し違う気がする。
そもそも、天皇親政ということが、社会秩序や国家の繁栄にとってそれほど重要なことであるのかは意見が分かれるところであろうが、天下を治めるにあたっては、国家の範囲が大きくなればなるほど一人や二人の偉人だけで統率することなど困難なことである。やはり補佐すべき人物、あるいはその集団が有能であることが重要なように思われる。

少なくとも歴史の流れをみる限り、天皇であれ、取って代わるほどの存在感を示した人物であれ、一人の権力が拡大しすぎた後には崩壊していくのが自然の流れとしてあるように思われる。
例えば、江戸時代、すなわち徳川氏による幕府政治があれほどの長期政権を保つことが出来たのは、組織の頂点にある徳川将軍に政治の全権を与えなかったことにあるように思われるのである。
一条天皇の御代は、藤原道長という傑物が政治の頂点に立った時代であり、天皇の存在など摂関政治の為の道具立ての一つのように言われることもあるが、宮廷を中心とした王朝文化の繁栄は、そのような単純な図式ではなかったはずである。


     ☆   ☆   ☆

一条天皇は、天元三年(980)六月、第六十四代円融天皇の第一皇子として誕生した。
円融天皇の父は村上天皇であり、醍醐天皇は祖父にあたる。醍醐天皇、村上天皇といえば、先に述べたように、平安時代のうちでは天皇政権が最も強固な御代であったと考えられる。従って、一条天皇が誕生した時代は、皇位をめぐる争いはし烈であったが、天皇政権全体としては安定した時期であったと考えられる。
さらに言えば、円融天皇の皇子・皇女は、一条天皇ただ一人であったことも、一条天皇の御代が長く続いた一因なのかもしれない。

生母は、藤原兼家の次女詮子(センシ/アキコ)である。兼家の長女超子(チョウシ/トオコ)も冷泉天皇の女御として入内していて、後の三条天皇を儲けている。
兼家は、藤原北家の嫡流であり、次兄の兼通との壮絶な出世争いを演じており、兼通生存中は不遇の時代もあったが、ついに氏の長者となり摂政・関白・太政大臣を務めて、藤原氏全盛時代を開いた人物なのである。
兼家の子供には、上記の通り二人の娘は内裏に入り、長男道隆は兼家の跡を継いで絢爛たる王朝文化を花咲かせ、五男の道長はその絶頂期を作り上げていったのである。

一条天皇は、七歳の時に即位した。
突然の即位であったが、花山天皇がまだ十九歳の身でありながら突然出家し退位したことから、幼い一条天皇が誕生したのであるが、それには激しい政権争いが絡んでいたとされる。自分の娘出自の天皇誕生を待ちきれなかった兼家の陰謀により、花山天皇は出家することになってしまったとされるが、詳細は割愛する。
ただ、花山天皇はわずか二年足らずで退位しているが、その人物については何かの問題もあったとする記録もある。
いずれにしても、激しい政争の結果として誕生した一条天皇であるが、何分まだ幼く、天皇にとっては遠い所での出来事であったといえる。
兼家の跡は長男の道隆が継ぎ、絶大な権力基盤を確固たるものとしていった。

正暦元年(990)一月、一条天皇は十一歳で元服し、道隆の長女定子を女御として迎えた。
定子はこの時十五歳。この年のうちに中宮となる。なお、中宮というのは皇后と同一の地位である。
絶大な権力を有していた兼家はこの年に没するが、道隆はその権力を引き継ぎ、天皇外戚として藤原氏の全盛を築いていった。
そして、まだ少年といえる天皇のもとに嫁いだ定子こそが、平安王朝文学の興隆に大きなインパクトを与えた女性ということができるのである。
定子は、才色兼備の実に魅力的な女性であったことは、「枕草子」の随所にみられるとおりであるが、一条天皇も文芸や管弦に秀でていたとされるのには、定子の影響も少なくなかったと考えられるのである。
平安王朝文学を代表する一人である清少納言が定子のもとに出仕したのは、定子が中宮となった三年ほど後のことであるが、定子を取り巻く女房たちには教養豊かで文芸に優れた人たちが集められたらしい。その結果として、文芸に秀でた公卿や殿上人たちの出入りも多くなっていったはずである。

やがて、長徳元年(995)に道隆が死去すると、定子を取り巻く繁栄は陰りを見せ始める。
そして、道隆の嫡男伊周らとの政争を制した道隆の弟道長は、栄華の絶頂へと向かう。
一条天皇の後宮においても、その繁栄の中心は道長の長女彰子へと移っていった。やがて定子は皇后宮を号し、彰子は中宮となり二人の皇后が誕生するのである。
道長は、一条天皇の寵愛を定子から彰子に向かわせる手段の一つとして、彰子の周りにも教養豊かな女房を集めていったのである。
和泉式部・赤染衛門・紫式部・伊勢大輔など今日までその名が伝えられるほどの人たちを彰子のもとに出仕させ、この二人の皇后を取り巻く女房たちの競い合いと、藤原氏全盛という経済的な基盤も加わって、絢爛豪華な王朝文学が花開いたのである。

なお、彰子にその栄華の地位を奪われた形の定子は、長保二年(1000)十二月、三人目の御子を出産ののち亡くなっている。享年二十五歳であった。
彰子は、後一条天皇・後朱雀天皇の母となり、八十七歳で没している。
一条天皇は、寛弘八年(1011)六月、冷泉天皇の皇子である皇太子(三条天皇)に譲位した数日後に崩御した。二十五年にわたる在位であったが、享年はまだ三十二歳であった。
一条天皇は、もっと早い時期での譲位を望んでいたが、外戚の地位を失いかねない道長の反対にあって、死の直前まで実現しなかったといわれている。
また、晩年には、天皇親政を目指す意向もあったらしく、彰子・道長らとは、必ずしも盤石な関係ではなかったという説もある。

現在私たちがこの時代のことを紐解くとき、一つは女流文学の全盛期としてであり、いま一つは道長を中心とした藤原氏による摂関政治であることが多い。
しかし、この時代に花開いた絢爛豪華な文化を考えるとき、女房たちの教養や、道長らの政治力だけにその源泉を求めても、満足できる答えは得られないはずである。
一条天皇という人物の、それも単なる第六十六代天皇としての存在感だけではない人間味を、今少し詳しく学ぶ必要があるように思うのである。

                                                        ( 完 )


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