松の木立高きところの ( 流布本のうちの一本二十三 )
( 一本二十三 )
松の木立高きところの、東・南の格子上げわたしたれば、涼しげに透きて見ゆる母屋(モヤ)に、四尺の几帳立てて、その前に円座(ワラウダ)置きて、四十ばかりの僧の、いと清げなる墨染の衣・羅(ウスモノ)の袈裟、あざやかに装束(サウゾ)きて、香染めの扇をつかひ、せめて(声を張り上げて)陀羅尼を読みゐたり。
もののけにいたう悩めば、移すべき人とて(祈祷で物の怪を移す元気な人・よりまし)、大きやかなる童女の、生絹(スズシ)の単衣・あざやかなる袴、長う着なして、ゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつらにゐたれば、外ざまにひねり向きて、いとあざやかなる独鈷(ドコ・魔を退散させる法力をもつ武器)を執らせて(持たせて)、うち拝みて読む陀羅尼も、尊し。見証(ケソ・立ち会い)の女房あまた添ひゐて、つと目守(マモ)らへたり。
久しうもあらで震ひ出でぬれば、本の心失せて(正気を失って)、行なふままに従ひたまへる仏の御心も、「いと尊し」と見ゆ。
兄(セウト)・従兄弟なども、みな内外(ナイゲ・出入り)したる、尊がりて集まりたるも、例の心ならば、いかに「恥づかし」と、まどはむ。(童女も、正気なら、恥ずかしいとあわてることだろう)
「みづからは、苦しからぬこと」と知りながら、いみじう侘び(ワビ・苦しがって)、泣いたるさまの、心苦しげなるを、憑き人の知り人どもなどは、らうたく(いじらしく)思ひ、け近くゐて、衣ひきつくろひなどす。
かかるほどに、よろしくて(病人が落ち着いてきて)、
「御湯」
など、いふ。北面(キタオモテ・北廂に台所などがある)に取り次ぐ若き人(女房)どもは、心もとなく(気がかりで)、引き提げながら、急ぎ来てぞみるや。単衣どもいと清げに、淡色の裳など、萎えかかりてはあらず、清げなり。
いみじう、ことわりなどいはせて(物の怪に、わびごとなどを言わせて)、赦しつ(放免してやる)。
「『几帳のうちにあり』とこそ思ひしか。あさましくもあらはに出でにけるかな。いかなることありつらむ」(童女が、物の怪が移りついていた間の様子を恥ずかしがっている)
と恥づかしくて、髪を振りかけて、滑り入れば(御簾の中へ入ろうとする)、
「しばし」
とて、加持すこしうちして(簡単なまじないをして)、
「いかにぞや。さわやかになりたまひたりや」
とて、うち笑みたるも、心恥づかしげなり(立派な態度である)。
「しばしもさぶらふべきを、時のほどになりはべりぬれば」
など、罷り申しして、出づれば、
「しばし」
など、とむれど、いみじう急ぎ帰る。
所に(その邸で)上臈とおぼしき人、簾のもとにゐざり出でて、
「いと嬉しく立ち寄らせたまへる験(シルシ・お陰)に、堪へがたう思ひたまへつるを、ただ今、おこたりたるやうにはべれば、かへすがへすなむよろこびきこえさする。明日も、御暇(オンイトマ)のひまには、ものせさせたまへ(お越しください)」
となむ、いひ告ぐ(主人の挨拶を取り次ぐ)。
「いと執念(シフネ)き御もののけにはべるめり。たゆませたまはざらむ(気を許さないのが)、ようはべるべき。よろしうものせさせたまふなるを、よろこび申しはべる」
と、言少なにて出づるほど、いと験ありて、仏のあらはれたまへるとこそ、おぼゆれ。
清げなる童部の、髪うるはしき、また大きなるが、髭は生ひたれど、思はずに(意外に)髪うるはしき、うちしたたかにむくつけげに多かる(何ともうるさいほど髪の多い)など、多くて、暇なう(忙しく)、ここかしこにやむごとなうおぼえあるこそ、法師も、あらまほしげなるわざなれ(望ましいあり方だ)。
少納言さまの時代、病気治療の主役は、加持祈祷でした。
登場している病人は大家の女主人で、祈祷にあたる僧侶も名僧で、理想的な祈祷の様子といえます。その様子がかなり詳しく記されていて、とても面白く、貴重な内容といえます。
( 一本二十三 )
松の木立高きところの、東・南の格子上げわたしたれば、涼しげに透きて見ゆる母屋(モヤ)に、四尺の几帳立てて、その前に円座(ワラウダ)置きて、四十ばかりの僧の、いと清げなる墨染の衣・羅(ウスモノ)の袈裟、あざやかに装束(サウゾ)きて、香染めの扇をつかひ、せめて(声を張り上げて)陀羅尼を読みゐたり。
もののけにいたう悩めば、移すべき人とて(祈祷で物の怪を移す元気な人・よりまし)、大きやかなる童女の、生絹(スズシ)の単衣・あざやかなる袴、長う着なして、ゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつらにゐたれば、外ざまにひねり向きて、いとあざやかなる独鈷(ドコ・魔を退散させる法力をもつ武器)を執らせて(持たせて)、うち拝みて読む陀羅尼も、尊し。見証(ケソ・立ち会い)の女房あまた添ひゐて、つと目守(マモ)らへたり。
久しうもあらで震ひ出でぬれば、本の心失せて(正気を失って)、行なふままに従ひたまへる仏の御心も、「いと尊し」と見ゆ。
兄(セウト)・従兄弟なども、みな内外(ナイゲ・出入り)したる、尊がりて集まりたるも、例の心ならば、いかに「恥づかし」と、まどはむ。(童女も、正気なら、恥ずかしいとあわてることだろう)
「みづからは、苦しからぬこと」と知りながら、いみじう侘び(ワビ・苦しがって)、泣いたるさまの、心苦しげなるを、憑き人の知り人どもなどは、らうたく(いじらしく)思ひ、け近くゐて、衣ひきつくろひなどす。
かかるほどに、よろしくて(病人が落ち着いてきて)、
「御湯」
など、いふ。北面(キタオモテ・北廂に台所などがある)に取り次ぐ若き人(女房)どもは、心もとなく(気がかりで)、引き提げながら、急ぎ来てぞみるや。単衣どもいと清げに、淡色の裳など、萎えかかりてはあらず、清げなり。
いみじう、ことわりなどいはせて(物の怪に、わびごとなどを言わせて)、赦しつ(放免してやる)。
「『几帳のうちにあり』とこそ思ひしか。あさましくもあらはに出でにけるかな。いかなることありつらむ」(童女が、物の怪が移りついていた間の様子を恥ずかしがっている)
と恥づかしくて、髪を振りかけて、滑り入れば(御簾の中へ入ろうとする)、
「しばし」
とて、加持すこしうちして(簡単なまじないをして)、
「いかにぞや。さわやかになりたまひたりや」
とて、うち笑みたるも、心恥づかしげなり(立派な態度である)。
「しばしもさぶらふべきを、時のほどになりはべりぬれば」
など、罷り申しして、出づれば、
「しばし」
など、とむれど、いみじう急ぎ帰る。
所に(その邸で)上臈とおぼしき人、簾のもとにゐざり出でて、
「いと嬉しく立ち寄らせたまへる験(シルシ・お陰)に、堪へがたう思ひたまへつるを、ただ今、おこたりたるやうにはべれば、かへすがへすなむよろこびきこえさする。明日も、御暇(オンイトマ)のひまには、ものせさせたまへ(お越しください)」
となむ、いひ告ぐ(主人の挨拶を取り次ぐ)。
「いと執念(シフネ)き御もののけにはべるめり。たゆませたまはざらむ(気を許さないのが)、ようはべるべき。よろしうものせさせたまふなるを、よろこび申しはべる」
と、言少なにて出づるほど、いと験ありて、仏のあらはれたまへるとこそ、おぼゆれ。
清げなる童部の、髪うるはしき、また大きなるが、髭は生ひたれど、思はずに(意外に)髪うるはしき、うちしたたかにむくつけげに多かる(何ともうるさいほど髪の多い)など、多くて、暇なう(忙しく)、ここかしこにやむごとなうおぼえあるこそ、法師も、あらまほしげなるわざなれ(望ましいあり方だ)。
少納言さまの時代、病気治療の主役は、加持祈祷でした。
登場している病人は大家の女主人で、祈祷にあたる僧侶も名僧で、理想的な祈祷の様子といえます。その様子がかなり詳しく記されていて、とても面白く、貴重な内容といえます。