雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

交流戦終る

2019-06-24 19:18:41 | 日々これ好日
        『 交流戦終る 』

     プロ野球のセ・パ交流戦 
     順延となった試合2試合が今日行われ 終了する
     予想通りと言うか やはり パの圧勝に終わった
     昨日までの成績でいえば
     パの勝率は首位チームに近く セの勝率は最下位チームに近い
     来年からは 何かハンディを考えなくてはいけないような気がする
     誰かに 叱られるかな?? 

                          ☆☆☆
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あやめ草

2019-06-24 08:16:00 | 新古今和歌集を楽しむ
     あやめ草 ひきたがへたる 袂には
                 昔を恋ふる ねぞかかりける


                       作者  九条院

( No.771  巻第八 哀傷歌 )
               あやめくさ ひきたがへたる たもとには
                          むかしをこふる ねぞかかりける



* 作者は、藤原呈子(フジワラノテイシ/シメコ)。生家は、藤原北家中御堂流(道長の御堂流からの分かれ)で、上流貴族である。( 1131 - 1176 )享年四十六歳。

* 歌意は、「 今日は あやめ草の節句(端午の節句)ですが これまでとはうって変わっている わたしの墨染の袂には 昔を恋い慕って泣く音が 涙と共にふりかかっています 」と、亡き夫である近衛天皇を忍ぶ哀傷歌である。

* この和歌の前書きには、「近衛院のかくれ給ひにければ、世を背きて(出家して)後、五月五日、皇嘉門院に奉られける 」とある。
皇嘉門院(コウカモンイン)とは、崇徳天皇の皇后であり、近衛天皇の養母でもあった。
この和歌の次には、「 返し 」として、皇嘉門院の和歌が載せられている。
  『 さもこそは おなじ袂の 色ならめ 変わらぬねをも かけてけるかな 」 

* 九条院 藤原呈子は、藤原氏全盛のしかも最上流の家に生まれた。しかし、それは、藤原氏一族内の激しい権力闘争と、天皇家の即位をめぐる抗争、天皇の外戚の地位を廻る権謀術数が最も激しい時代であった。そして、呈子はその奔流のさなかに身を置かざるを得ない生涯であったと考えられる。

* 呈子の父は太政大臣藤原伊通(コレミチ)である。九条に邸宅を構えていたことから、九条大相国とも呼ばれた。
十八歳の頃、父のいとこにあたる美福門院の養女となる。美福門院は、この時代の歴史上著名な女性である。鳥羽天皇の譲位後の寵妃であり、近衛天皇の生母である。当時の複雑な権力闘争の折々にちらちらと姿を見せる女性であった。
呈子の入内をもくろんでいた伊通にとって、当時の政権を握っていた鳥羽院の支援を受けるために、血筋を頼って、呈子を美福門院の養女にすることに成功し、さらに関白藤原忠通の養女としたことにより、呈子の入内は実現するのである。

* 1150年のことで、呈子二十歳、夫となる第七十六代近衛天皇は十二歳であった。
近衛天皇は、鳥羽天皇の第九皇子であるが、母が美福門院であることから、生まれながらの後継者となる。三歳で即位したが、病弱気味であったらしく、十七歳で崩御している。在位期間は十余年間に及ぶが、政治の実権は鳥羽院が握り続けていた。

* 1155年、近衛天皇は、皇子を儲けることなく崩御、後継天皇は難航の末、後白河天皇の誕生となる。
呈子は、近衛天皇の崩御の翌月に出家する。天皇の若過ぎる崩御に加え、皇子を儲けることが出来なかったことは、呈子ばかりでなく、一族にとっても残念極まりなかったことであろう。
1168年、後白河上皇より、呈子は九条院の女院号を賜った。女院号は、単なる称号ではなく、経済的な裏付けもあったので、この後も生活面は恵まれたものであったと推定できる。
1176年、九条院呈子は崩御する。享年四十六歳であった。

* 九条院呈子の生きた時代は、天皇権力、公家勢力が複雑に絡み合った政権闘争が歴史上最も激しい時代であったと考えられる。
この短い文章に登場する人物の足跡を追うだけでも、この時代が如何に激しいものであったか分かるはずである。その激動の中を、九条院呈子がどのように生きたか詳しく知りたいと強く思うが、そのためには、相当の覚悟が必要なようである。

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