『 ひとときの空間 』
お墓参りに行った
大切な人の命日なので
白百合を中心に 庭にある花だけで準備した
せいぜい二十分ほどの間だが
非日常の まったく空間のような ひとときを持つことが出来た
想えば 彼岸に移った人の 何と多いことか・・・
☆☆☆
『 ひとときの空間 』
お墓参りに行った
大切な人の命日なので
白百合を中心に 庭にある花だけで準備した
せいぜい二十分ほどの間だが
非日常の まったく空間のような ひとときを持つことが出来た
想えば 彼岸に移った人の 何と多いことか・・・
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道すがら 富士の煙も 分かざりき
晴るる間もなき 空のけしきに
作 者 前右大将頼朝
( No.975 巻第十 羇旅歌 )
みちすがら ふじのけぶりも わかざりき
はるるまもなき そらのけしきに
* 作者は、鎌倉幕府を開いた武将である。( 1147 - 1199 )行年五十三歳。
* 歌意は、「 旅の途中 仰ぎ見た富士山の煙は 雲と混ざり合って分からなくなってしまう 晴れる間がほとんどない 慌ただしい空模様のために 」と受け取りました。
しかし、詠んだのが源頼朝となれば、平家を滅亡させ、朝廷と一線を画すべく鎌倉に向かう途上に見た富士山に、前途多難を覚悟していたのかもしれない、と感じられる。伊豆で長い流人生活を強いられた頼朝にとって、富士山は特別の山であったと思われるのである。
* 作者 前右大将頼朝とは源頼朝であるが、歴史上の人物としては超一流に位置付けされる人物である。史実としての人物研究はもちろん、小説やドラマの世界などにおいても、虚実織り交ぜて、様々な情報が伝えられている。
和歌の紹介を主題にしているはずの本稿において、片手間のような人物紹介は慎まなければならないが、ごく簡単な流れだけを記しておきたい。
* 源頼朝は、清和源氏の一流である河内源氏の家柄である。
父の源義朝は、武士の政界進出の端緒となった保元・平治の乱の重要な役割を担った武将である。保元の乱においては、平清盛らと共に後白河天皇側に属して勝利したが、三年後の平治の乱においては、藤原信頼陣営に加わり、後白河・清盛らの陣営に敗れている。義朝は東国に落ちのびる途中で殺害された。
これにより、平家は全盛期を迎えるのである。
* 源頼朝は、この時十四歳。父とは別行動で東国を目指したが、近江国で捕らえられて京都に連行された。当然処刑が予想されたが、清盛の継母である池禅尼らの嘆願により減刑され、伊豆国への流罪となった。
頼朝の流人生活は二十年に及ぶが、平家政権の監視が厳しいとはいえ限られた地域では比較的自由に行動出来たようである。その間に、北条政子と結ばれているが、政子は頼朝にとっても鎌倉政権にとっても大きな影響を与えることになる。
1180年、三十四歳になっていた頼朝は以仁王の令旨を受けた。これにより平家打倒を決意し、紆余曲折を経ながらも源家一門や関東を中心とした豪族を束ねて京都政権を圧倒、1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた。
1189年には、平家追討戦に功績のあった弟の源義経と敵対関係になっていたが、奥州衣川において、義経を庇護していた藤原泰衡に討たせた。頼朝が、小説などで悪役的に描かれることがあるが、「判官びいき」という言葉が今も健在であるように、義経を殺害した影響が大きいようである。
1192年、征夷大将軍に就き、名実ともに武家の棟梁となった。
1199年、享年五十三歳で亡くなったが、死因については落馬説が有力のようであるが、諸説があるようだ。
* 頼朝により開かれた鎌倉時代という武家政権は、およそ150年間に及ぶが、源家の治世下にあったのは僅かな期間である。1219年に三代将軍源実朝が公暁に殺害された後は、摂関家から四代将軍を迎え入れ、その後も摂関家、宮家から将軍を迎えていくが、実態としては北条政子そして北条家を中心とした政権へと移って行っている。また、頼朝の直系は、女子も含めて後世には伝えられていない。
なお、鎌倉時代の始まりの年であるが、かつては、「イイクニつくろう鎌倉時代」と覚えた人もあるように、頼朝が征夷大将軍に就任した1192年を鎌倉時代の始まりとするのが主流であったが、今日では「守護・地頭の任命を許可する『文治の勅許』が下された」1185年とするのが本流のようである。始まりの年については、他にも諸説ある。
* 源頼朝を歌人として評価・論評することに、それほどの意味があるとは思えないが、頼朝という人物の波乱万丈の生涯は極めて興味深い。ただ、創作物の対象としては、少々のフィクションを加えた程度では描き切るのは大変なような気がする。
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