『 夏越の祓 』
今日は 夏越の祓(ナゴシノハラエ)
早いもので 今年も半分が過ぎようとしている
夏越の祓は 本来は 旧暦の六月晦日に行われていたもので
その由来は イザナミノミコトまで 遡るらしい
現在でも 一部の地域や 多くの神社で 行事が行われていて
半年間の穢れを祓うため 珍しい行事や食べ物が伝えられているようだ
今年は 特に 手厚く懇切なお祓いを お願いすることが必要だ
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さ牡鹿の 入野の薄 初尾花
いつしか妹が 手枕にせん
作 者 柿本人丸
( No.346 巻第四 秋歌上 )
さをしかの いるののすすき はつをばな
いつしかいもが たまくらにせん
* 作者は、飛鳥時代の歌人。万葉集の歌人の第一人者であり、歴史全体を通しても歌人として最高峰とされる一人である。( 660? - 724 )行年六十五歳位か。
* 歌意は、「 牡鹿が 入って行く入野の薄の 初尾花を いつの日に恋人が 手枕にするのだろう 」と意訳したが、秋歌に入っていることを考えれば、もっと秋の風物詩として受け取るべきかもしれない。
但し、万葉集においては、作者不詳で、恋歌とされている。
なお、「さ牡鹿」の「さ」は、美称の接頭語。 「妹」は、男性から見て、親しい女性のことで、年齢に関係なく、妻・恋人・姉妹のいずれにも使われる。
* 作者の柿本人丸(人麻呂)は、万葉集の歌人の中で抜群の存在感を示している人物であるが、その生涯には謎が多く、後世の人によって、様々な推定や著作がされている。
氏名は、柿本人麻呂というのが本来のものと思われるが、平安時代以降は「人丸」という表記されることが多い。
* 万葉集には、一説によれば、長歌19・短歌75が入集しているとされるが、「読み人しらず」とされているものも多い。歌風は極めて格調高く、天皇賛歌的なものや、挽歌・哀愁歌など優れた歌が多い。
長歌の完成者と評価されることもあり、短歌には140種余りの枕詞が使われていて、そのうちの半数は人丸以前には記録されていないもののようである。
* その生涯は、万葉集に残されてる歌や、それに付随する題字や説明書きなどに多くのものが残されているが、不思議なことに公文書には記録が残されていないようである。柿本人麻呂が謎多い人物とされるのはそのためである。
かつては、天皇の側近くで詠まれた歌が多いことから、相当高位の人物と考えられていて、三位の公卿クラスであったという意見が有力であったようだ。
最近は、公文書に記録が残されていないことから、六位以下の下級官吏であったというのが有力とされている。また、人麻呂の死去を伝える記録には「死」という言葉が使われていて、律令では、三位以上の人物では「薨」、四。五位の人物には「卒」、六位以下の人物の場合は「死」とされていることからも、作者が下級官吏であったらしいことが有力視されている。
そして、その死去は、残された歌から、「刑死」であったとされる説が有力視されている。
* そうした身分の詮索に関わらず、柿本人麻呂の歌人としての地位は全くゆるがない。
山部赤人と共に歌聖と称せられたり、古今和歌集以下の勅撰和歌集には248首入集しているとされる。本稿の「新古今和歌集」においても、古い時代の歌人の中では、第一位の紀貫之33首、第二位の和泉式部25首に続いて、第三位に柿本人麻呂23首が続いている。上位二人は平安時代の人物であることを考えると、その存在感の大きさが分かる。
柿本人麻呂は、現在においても、神社としても伝えられており、教科書に載せられることも多い。現代人にとって親しみのある人物であるが、その研究余地はまだ多そうな人物でもある。
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