『 しばらくお休みください 』
チューリップを掘り起こして 球根を取り出した
菜園にしていた所の一畝に 昨年掘り出した球根を植えていたが
八割り方は きれいな花を咲かせてくれた
球根は 余り小さなものは取り除くが それでも三倍ほどの数になる
今秋植え付けるときまでには 少し減るが
植え付け場所を増やす必要がありそうだ
新しく買った球根は鉢植えにしたが その方が花がそろい美しいが
掘り起こした球根が育つのは やはり嬉しい
よく洗って 秋まで しばらくお休みください
☆☆☆
思ひ出づる 折り焚く柴の 夕煙
むせぶもうれし 忘れがたみに
作者 太上天皇
( NO.801 巻第八 哀傷歌 )
おもひいづる をりたくしばの ゆふけぶり
むせぶもうれし わすれがたみに
☆ 作者は、第八十二代後鳥羽天皇のことである。( 1180 - 1239 ) 享年六十歳。
☆ 歌意は、「 亡き人を思い出す折に 折って焚く柴の 夕煙に 火葬の煙にむせび泣いたことが思い出されることが嬉しい 今となっては 夕煙が 忘れ形見となった 」といったものか。
☆ 作者の太上天皇(ダイジョウテンノウ)とは、譲位によって後継者に皇位を譲った天皇の尊号で、「上皇」はその略称である。「院」を用いることも多い。ここでは、後鳥羽院(後鳥羽天皇)のことである。
☆ 後鳥羽院は、本稿の舞台である「新古今和歌集」の編纂者であり、本稿の主役ともいえる存在であろう。その生涯は、波乱に満ち満ちている。
まず、践祚を受けたのは、1183 年 8 月 20 日で、まだ四歳(満三歳一か月)のことである。しかも、その践祚は先帝から受けたものではなく、後白河法皇の院宣を受けての践祚という異例のものであり、翌年 7 月の即位は、神器が揃わない中でのものであった。
☆ 先帝の安徳天皇は、平家と運命を共にした悲劇の幼帝である。安徳天皇は後鳥羽天皇の異母兄にあたるが、践祚を受けたのが三歳(満一歳二か月)であり、壇ノ浦に没したのが八歳(満六歳四か月)という幼さであった。
しかも、安徳天皇は崩御するまで退位しておらず、後鳥羽天皇が践祚を受けてから安徳天皇が没する 1185 年 3 月 24 日の間は、二人の天皇が存在していたことになる。後の南北朝がそれぞれに天皇を擁した時代を別にすれば、他に例を見ない。
☆ ただ、この歴史的な珍事には、幼少の後鳥羽天皇に責任があるわけではない。その一方で、1192 年に長年朝廷を牛耳ってきた後白河法皇が没したときには、後鳥羽天皇はまだ十三歳であったが、1198 年に我が子(土御門天皇)に譲位すると、いよいよ時機到来とばかりに院政を敷いた。
その政治的評価はともかく、やがて鎌倉政権との戦乱(承久の乱。1221 年。)に敗れ、隠岐に流され、その地において、1239 年に生涯を閉じている。
☆ 後鳥羽天皇の生涯に迫ることは本稿ではとても無理である。
その政治的能力については意見は分かれると思われるし、歌人としても同様かもしれない。ただ、いわゆる歴史上の人物としては超一級と思われ、歴史ファンに多くの夢を抱かせてくれる。
その生涯は、私たちに大きな感動を与えてくれることだけは確かであろう。
☆ ☆ ☆