『 「平年並み」に ご注意を 』
このほど気象庁が
気温や降水量の「平年値」を 10年ぶりに更新した
これまでは 1981 ~ 2010 までの観測値を基に平均値を出していたが
今後は 1991 ~ 2020 までのものに 更新される
観測地点により差はあるが
気温は高く 雨量は多く 『平年並み』が変化するので ご注意を
ただ 直近の10年間の数値は もっと激しい差だと 推定される
いずれにしても コロナに加えて
豪雨 大雨 そして 熱中症の季節がやって来つつある
医療機関の負担を増やさないためにも 注意しましょう お互いに
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手すさびの はかなき跡と 見しかども
長き形見に なりにけるかな
作者 土御門右大臣女
( NO.805 巻第八 哀傷歌 )
てすさびの はかなきあとと みしかども
ながきかたみに なりにけるかな
☆ 作者は、平安時代中期の貴族の娘・妻。( 1027 - 1108 ) 行年八十二歳。生没年を未詳とする資料もある。
☆ 歌意は、「 手慰みの ちょっとした筆跡と 見たのだが 長く残る形見に なってしまいました 」と、何とも切ない和歌である。
☆ 作者の伝えられている消息は、余りにも少ない。ただ、その血筋は、皇族・摂関家に包まれたとも表現でき、周辺から推定できることはある。
作者名の土御門右大臣女とは、源師房(ミナモトノモロフサ・ 1008 - 1077 )の娘・妧子(ゲンシ)のことである。師房は、第六十二代村上天皇の第七皇子具平親王の長男である。従一位右大臣に上り、村上源氏中院流の祖となった人物である。
そして、妧子の母は、藤原道長の娘・尊子なのである。つまり、父は村上天皇の孫であり、母は藤原道長の孫という、その当時の超一流の血統といえる女性なのである。
☆ さらに、妧子が嫁いだ相手の藤原通房(ミチフサ・1025 - 1044 )は、道長の後を継ぎ、五十年にわたって関白を務めた藤原頼通の庶嫡子である。頼通の正妻に男子がいなかったため、嫡子扱いとして異例の出世の階段を昇った。なお、頼通の正妻・陸姫は、師房の姉にあたる。
通房は、十一歳で元服と共に正五位下に叙されている。十三歳で従三位、十四歳で従二位、十八歳で正二位権大納言に就いている。藤原摂関家の権力の凄まじさが窺えるが、同時に通房への一族の期待の大きさも伝わってくる。
しかし、通房は、1044 年 4 月、急病で死去してしまったのである。行年二十歳、余りにも早すぎる逝去であった。
☆ 妧子と通房との結婚の時期はよく分からない。ただ、当時の風習からすれば、通房の元服後間もない頃と考えられ、おそらく、妧子が十歳を幾つも過ぎていない頃だと考えられる。
通房に先立たれたとき、妧子は十八歳の頃と考えられ、八十二歳まで長命を保ったとすれば、夫と死別した後には、六十年を超える人生があったことになる。ただ、残念ながら、その間の様子を伝える消息は、筆者の力では想像すら出来ない。とはいえ、頼通の死去後は、摂関家の力が急速に落ちていくが、少なくとも経済的な面で、妧子の生活が脅かされるようなことはなかったと推定できる。
☆ 冒頭の和歌は、作者の数少ない消息である。
和歌の前書き(詞書)には、『 右大臣通房身まかりて後、手習ひすさびて侍りける扇を見出して、よみ侍りける 』とあるので、現代の私たちにその切ない気持ちを書き残してくれたのかもしれない。
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