雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

お休み処

2022-08-07 18:37:24 | 日々これ好日

        『 お休み処 』

    庭のヒマワリが 盛りを過ぎて
    真ん中の花は 種を採るものを残して切り取った
    脇から 小さな花を結構付けているが それも弱ってきた
    今日は 思い切って全部抜くつもりだったが
    10本のうち3本に セミが留まっていた
    どうやら 夜や暑い盛りの時の お休み処になっているらしい
    今しばらくは このままにしておくことにした
    セミとヒマワリ 真夏の象徴ではある

                    ☆☆☆
    

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歎きなつめそ

2022-08-07 08:09:54 | 古今和歌集の歌人たち

      『 歎きなつめそ 』

      なし なつめ くるみ

   あぢきなし 歎きなつめそ 憂きことに
            あひくる身をば 捨てぬものから

              作者  兵 衛

( 巻第十 物名  NO.455 )
        あぢきなし なげきなつめそ うきことに
                あひくるみをば すてぬものから


* 歌意は、「 無駄なことですよ そんなに思い詰めて嘆きなさらないで とは言え さんざん辛いことに 遭ってきたこの身を 簡単には捨てられませんが 」といったもので、内容は深刻ですが、表題にある「なし なつめ くるみ」を読み込んだ技巧的な歌です。深刻さよりも、大喜利の教科書にでも載せたいような内容です。

* 作者名の兵衛は女房名です。本名や生没年は未詳です。「兵衛」と呼ばれた人物は、何人かの足跡が伝えられていますが、この作者の場合は、父が藤原高経(フジワラノタカツネ)であることが分かっています。

* 藤原高経の生年は不詳ですが、867 年に右衛門の大尉(七位相当官)に任官しています。「兵衛(ヒョウエ)」とは、左・右衛門府などの武官を指しますので、作者の女房名も父の職務に由来しているものと考えられます。
高経は、この後、蔵人を経て、871 年に従五位下を叙爵しています。その後地方官に転じ、877 年に従五位上に昇り、次に兵衛職に就いているのは、884 年のことで、左衛門の佐(スケ・次官)、同年末に左兵衛権佐に転じています。
高経の最終官位は、正四位下右兵衞の督(カミ・長官)です。そして893 年に亡くなっています。

* 作者の女房名は、「兵衛命婦」とも伝えられています。この「命婦」という呼称は、時代によって使われ方がかなり違うようですが、「五位相当」ともいわれ、中臈クラスともされています。
作者が単に「兵衛」と呼ばれていて、後に「兵衛命婦」と呼ばれるようになったとすれば、867 年以降に出仕したと考えられますが、当初から「兵衛命婦」と呼ばれていたとすれば、出仕は早くても 871 年以降、おそらくは 884 年以降と考えられますが、確定は出来ないようです。

* 作者・兵衛は、これも時期は不明ですが、藤原忠房( ? - 929 )と結婚して、一男を儲けています。忠房の最終官位は、従四位上・右京大夫ですから、ほぼ同格の家柄です。
この忠房の一門は、雅楽に秀でた人が多く、忠房自身も歌舞や管弦などの分野で活躍し、特に笛の名手と知られ、作曲も手がけています。また、歌人としても、中古三十六歌仙に選ばれており、勅撰和歌集には17首採録されています。一流の文化人であったようです。

* 作者の兵衛命婦は、宇多天皇、醍醐天皇の御代の頃、中級貴族の家に生れ、宮廷女房としての生活を経験し、当時一流の文化人である忠房と結ばれ、心豊かな生活を送った女性のように推定されます。彼女が残した和歌などはごく限られていますが、おそらく、兵衛命婦自身も、文化的な活動に関わりながらの生涯だったのではないでしょうか。

     ☆   ☆   ☆

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