『 軽く見過ぎるのも問題 』
コロナ新規感染者が 減少の兆しを見せない
世界で最大の発症国となれば これまでの対策を繰り返すより
経済優先で ウイズコロナのあり方を考えるべきだろう
ただ 五輪汚職だ 旧統一教会だなどと こちらも捨ててはおけないが
コロナ問題を 少々軽視しているのではないですかねぇ
政界も マスコミも
☆☆☆
今昔物語 巻第七 ご案内
本巻は 全体の位置付けとしては 震旦付仏法 になります。
般若経や法華経などを中心とした いわゆる 経典霊験譚が中心になっています。
なお、全部で四十八話と番号付けされていますが、第三十三話から第四十話までは
欠話になっています。当初から無かったらしいという説が有力なようです。
『 大般若経の誕生 ・ 今昔物語 ( 7 - 1 ) 』
今は昔、
震旦(シンダン・中国の古名)の唐の玄宗(ゲンソウ・第六代皇帝。762年没。)の御代に、玄奘三蔵(ゲンジョウサンゾウ・よく知られている三蔵法師のこと。664年没。)は大般若経を翻訳なさった。
玉花寺(ギョクカジ・もとは太宗の避暑用の別邸。)の都維那(ツユイナ・寺の事務を司る役名の一つ。)の沙門(僧)である、寂照・慶賀らが筆記役を務めた。遂に訳し終わったと皇帝はお聞きになり、歓喜して供養の法会を設けられることになった。
竜朔三年(高宗の御代。663年。)冬十月三十日に、嘉寿殿(カシュウデン・未詳)を荘厳して、宝幢・幡蓋(ホウドウ・バンガイ・・仏法の印をつけた旗をつけた棒/旗と天蓋。)など様々な供具を整えた。どれも極めて美麗にして立派なことこの上なかった。
この日、大般若経を招きお迎えして、粛成殿(シュクセイデン・玉花寺内の宮殿で、玄奘の居所。)から嘉寿殿に移して、盛大な斎会(サイエ・供養法会)を設けて、経を講じ読誦して供養した。その儀式の荘厳なることは実にすばらしかった。
その時、大般若経は、光を放って遠くから近くまで照らし、天上より妙なる花が降ってきて、ただならぬ香りがただよって、皇帝を始め大臣・百官皆々がこれを見て歓喜して、それそれが「不思議なことだ」と思った。
すると、玄奘三蔵は自分の門徒の人に仰せになった。「経に説くがごとし。『四方に大乗を願う者があり、国王・大臣・四部の徒衆(四衆とも。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を指す。)は、この経を書写し受持し読誦し流布させるだろう。それにより、皆、天上に生まれることを得て、究極の悟りを得るだろう』そのためにこの経文があるのだ。滅失させてはならない」と。
その後、寂照は自らの夢に、千仏が空に在(マシ)まして、異口同音に偈(ゲ・仏教の真理を詩の形で述べたもの。)をお説きになって仰せられるには、
般若仏母深妙典 於諸経中最第一 若有一経其耳者 定得無上正等覚
書写受持読誦者 一花一香供養者 是人希有過霊瑞 是人必尽生死際
( ハンニャブツモジンミョウデン オショキョウジュウサイダイイチ ニャクウイチキョウゴニシャ ジョウトクムジョウショウトウガ ショシャジュジドクジュシャ イチカイチコウクヨウシャ ゼニンケウカレイズイ ゼニンヒツジンショウジサイ ・・・般若は仏母にあたるすばらしい経典で 経の中で最も優れている もしそれを耳にする者は この上ない悟りを得るであろう 書写し体現し読誦する者や 一花一香を供養する者は 不思議な霊瑞に会い 必ず生死の苦しみを断つことが出来よう )
とお説きになられるのを見たところで、夢から覚めた。
その後、三蔵にこの夢のことを申し上げた。三蔵は、「このように、経典は単なる文字の記録ではなく、一字一字に仏が宿られていて、それを現じられたのです」と仰せられた。
この法会は、大般若経を供養し奉った最初である。その後、国中が挙って、この経を恭敬供養し、受持・読誦し奉ると必ず霊験が現れることが多いので、今も絶えることがない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* 史実としては、玄宗皇帝と玄奘三蔵との組み合わせは時代が合わない。高宗皇帝の御代が正しいようだ。
☆ ☆ ☆
『 写経の功徳 ・ 今昔物語 ( 7 - 2 ) 』
今は昔、
震旦の唐の高宗(第三代皇帝。683年没。)の御代、乾封元年( 666 ) に一人の書生(ショショウ・科挙の試験を受けるために学んでいる者。)がいた。
その書生は、重い病にかかり急死したが、一日二夜を経て生き返って語った。
「私が死んだ時、赤い衣を着た冥官(ミョウカン)がやって来て、文牒(モンチョウ・生前の行いを記した書類。)を持っていて私を束縛しました。そこで、その冥官に連行されていくと、大きな城の門に着きました。冥官は、『城内の大王の中の王は、つまり閻魔大王である。かの文牒によってお前を召したのだ』と言うのを聞いて、私は驚き恐れましたが、ふと自分の身体を見ますと、右の手から大きな光を放っていたのです。その光は、まっすぐに王の前に届いていました。その光は、日月の光に勝っていました。
王は、この光を見て驚き怪しんで、座から降りて掌を合わせて、光のもとを尋ねて、その方向を推察しながら門を出て、私をご覧になってお訊ねになりました。『汝は、いかなる功徳を修めて、右の手から光を放っているのか』と。
私は、『私は、これといった善根など修めておりません。また、どうして光を放っているのかも分かりません』と答えました。王は、私の答えを聞くと、城内に還って行き、私の生前の行いを記録した一巻の書を考証なさって、また、門から出てこられて、歓喜して私に話されました。『汝は、高宗の勅命によって、大般若経十巻を書写したとある。右の手をもって写したので、その手から光明を発したのである』と。
私はその話を聞いて、そのことを思い出しました。王は、『我は、汝を解き放そう。速やかに還るがよい』と仰せられました。そこで私は、王に申し上げました。『すっかり来た道を忘れてしまいました』と。王は仰せられました。『汝、その光に導かれて還るがよい』と。
そこで、私は、王の教えに従って、光を頼りに進んでいきますと、この家に近づきました。すると、光は失せて、私は蘇ることが出来たのです」
と話して、涙を流して泣いて感激した。
その後は、持っている財産を投げ打って、大般若経百巻を書写し奉った。
これを以て思うに、国王の命令により、自分の意思ではなく経典一部を書いた人の功徳は、かくの如くである。いわんや、心を尽くして経典一部を書写した人の功徳は思いやるべし、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 神母も天上界へ ・ 今昔物語 ( 7 - 3 ) 』
今は昔、
震旦の預州(予州に同じ。河南省の辺り。)に一人の老母がいた。若い時から邪見(ジャケン・因果の道理を無視すること。よこしまな見方。)が深くして、神道(ジンドウ・鬼神を祀る俗信仰。)に仕えて三宝(サンポウ・仏法僧をさすが、ここでは仏教のこと。)を信じなかった。
世間の人は挙って、この老母を神母(ジンモ・神に近い尊崇を集めていたことからの呼び名。)と言った。三宝を憎んで、寺塔の辺りには近寄ることがなかった。もし、道を行く途中で僧と出会うと、目を塞いで引き返した。
ある時のこと、一頭の黄牛(アメウシ・飴色の牛。黄赤色の牛。)がやって来て、神母の家の門の外に立ち止まった。三日経っても、牛の飼い主が現れない。
そこで、神母は、「この牛は、神様がくださったものだ」と思って、自ら出て行って、牛を家に引き入れようとしたが、牛の力が強くて、引き込むことが出来ない。神母は、自らの着物の帯を解いて、牛の鼻に繋いだところ、牛は神母を引っ張って逃げ出した。
神母は牛を追っていくと、牛は寺に入った。神母は、この牛と自分の帯が惜しいため、目を塞いで寺に入り、仏に顔を背けて立っていた。
その時、その寺の僧たちが驚いて出て来たが、神母の姿を見て、その邪見なることを哀れに思って、それぞれが、「南無大般若波羅密多経(ナムダイハンニャハラミツタキョウ)」と唱えた。
神母は、これを聞くと、牛を捨てて走り出て逃げた。水辺まで来て耳を洗って、「私は、今日、不吉な事を聞いてしまった。いわゆる『南無大般若波羅蜜多経』のことだ」と言って怒り、三度この言葉を繰り返してから、家に帰った。牛の姿は、もう見えなかった。
それから後のこと、神母は病を患って死んだ。
神母には、実の娘がいたが、母を恋い悲しんでいたが、夢の中に神母が現れて告げた。「わたしは、死んで閻魔王の御前に参りました。わたしには悪業(アクゴウ)のみがあって、ほんの少しの善根もありませんでした。ところが、王は札(生前の行動が記されている物)を検証されて、笑みを浮かべて、『汝には、般若の名を聞き奉った善根がある。速やかに人間界に還って、大般若波羅蜜多経を受持し奉るべし』と仰せになられました。しかしながら、わたしはすでに人間としての業が尽きていますので、蘇ることが出来ません。わたしは忉利天(トウリテン・天上界の一つで、帝釈天の居城がある。摩耶夫人など女性が転生する例が多い。)に生まれ変わります。あなたは、むやみに嘆き悲しむことはありません」と。そこで夢から覚めた。
その後、母のために発心して、大般若経を書写し奉ること三百余巻に及ぶ。
これを以て思うに、憎むといえども般若の名を耳に触れた功徳はかくの如しである。いわんや、心を尽くして書写し受持し読誦する人の功徳は計り知れない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 牛が残した善根 ・ 今昔物語 ( 7 - 4 ) 』
今は昔、
震旦の都に一人の僧がいた。名を僧智(ソウチ・伝不詳)という。
その母は、香炉を呑むという夢を見た後に、懐妊して僧智を生んだという。生まれた最初に、大般若経の名を唱えた。人々はそれを聞いて、怪しく思った。
十歳になった時、大般若経二百巻を暗誦した。全六百巻のうち、残りは覚えることなく誦すこともなかった。
出家の後、毎日の仕事として、一百巻を誦することを怠らなかった。
ある時、ふと心の中で思った。「私は大般若経二百巻を暗誦することが出来るが、残りを覚えることが出来ない。どうしてだか分からない。されば、祈念してその理由を探ろう」と。
すると、僧智の夢に、一人の沙門が現れて告げるには、「お前は、前世ではつまらない牛の身であった。その牛の飼い主は、大般若経二百巻をその牛に負わせて寺に持って行ったが、深い泥道で、つまずきながらも運んでいった。その功徳によって、お前は人間として生まれて、沙門となり大般若経二百巻を暗誦することが出来たのだ。残りは結縁が無いのでそらに覚えることが出来ないのである。お前は、今の身から雲音仏の国(正しくは「雷音仏の国」。阿閦仏(アシュクブツ)の国土。歓喜国ともいう。)に生まれ変わるべし」と。そこで夢から覚めた。
その後、これらのことを正しく知って、牛の身であった前世のことに感謝した。
されば、善悪の事は、すべて前世の結縁によるのだと、人々は皆知った、
となむ語り伝へたるとや。
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『 修業のあり方 ・ 今昔物語 ( 7 - 5 ) 』
今は昔、
震旦の幷州(ヘイシュウ・今の山西省)に一人の僧がいた。名を道俊(唐の時代の僧)という。出家して後、一生の間、念仏三昧(ネンブツザンマイ・仏の相好を一心に観じること。)を修業して、極楽に往生することを願った。決して念仏以外の行(ギョウ)を行わなかった。
当時、同じ州にジョウミンという僧がいた。大きな誓いを立てて、極楽に往生することを願った。修業の範囲を広くして、その種類は数え切れないほどである。また、大般若経を書写すること一万巻に達する。
ある時、ジョウミンは道俊に、「ぜひとも、大般若経を書写しなさい」と勧めた。
道俊は、「私は、ひたすら念仏を修業していて、他の修業をする余裕はまったくありません。とても大般若経の書写など出来ませんよ」と答えた。ジョウミンは、「般若経は、菩提への近道であり、往生のために欠かせないものだ。あなたは、ぜひ、これを書写すべきだ」と勧めたが、道俊はまったく忠告を受け入れず、「私は法華経を書写することはしないが、浄土に生まれることは、自然に成就出来るでしょう」と言った。
その夜、道俊は夢の中で、海辺に来ていて、見てみると、海の西の岸上に、美しく荘厳された宮殿があった。また、六人の天童子が、船を操って渚に浮いていた。道俊はその船に乗っている天童子に、「私は、その船に乗ってあの西岸に渡りたいのですが」と言った。天童子は、「あなたは、信用できませんので、この船に乗ることは出来ません」と言う。「どういうわけで乗せていただけないのか」と道俊が尋ねると、天童子は、「あなたは知らないのですか。この船は、般若なのです。もし、般若無くして生死(ショウジ)の海を渡ることなど出来ません。まして、あの不退地(フタイノチ・功徳や善根が変転しない境地。ここでは、極楽浄土を指している。)に行き着くことが出来ましょうか。また、あなたがたとえ船に乗れたとすれば、船はただちに沈んでしまいます」と言った。
そこで、夢から覚めた。
その後、道俊は大いに悔いて、衣鉢(エハツ)を棄てて(私財を投げうって)、大般若経を書写し奉って、心を尽くして供養した。
その日、紫雲が西よりやって来て、空から音楽が聞こえた。道俊は、歓喜してますます恭敬(クギョウ・つつしみ敬うこと。)すること限りなかった。
これを以て思うに、成仏のための修業は、般若経の行を離れては成し遂げられない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 仏教を広める ・ 今昔物語 ( 7 - 6 ) 』
今は昔、
震旦に一人の僧がいた。名を霊運(リョウウン・伝不詳)という。もとは襄州(ジョウシュウ・湖北省の一部)の人である。
聖跡を尋ねて巡礼するために、南海の浜を越えて、天竺に渡った。天竺での名は、般若提婆(ハンニャダイバ)という。
ナランダ寺において弥勒菩薩の尊容を、そして菩提樹の像を描いた。イランナバダ国(ガンジス川の南岸にあったらしい。)に至ると、孤立した山があった。ここは、すぐれた霊場で、仏を祀った廟がたくさんあり、霊験あらたかであった。ある人は七日、ある人は二七日(ニシチニチ・十四日)、心を尽くして願う事を祈請すれば、観音像の中から観音さまが姿を現わし、その人の心を慰め、その願いを叶えてくださる。
また、その傍らに一つの鉄塔(仏舎利塔)がある。大般若経の二十万偈(ゲ)を収め奉っている。五天竺(全天竺の意)の人は皆、競って発心して、この像およびこの経を供養し奉っている。
その時、霊運は、七日間、食を断って心を尽くして願い事を祈請した。その願い事は三つあった。一つは、必ず三悪趣(三悪道に同じ。地獄、餓鬼、畜生の三悪道のこと。)から離れること。二つ目は、必ず本国に帰り、念願通り仏法を広めること。三つ目は、仏法を修業して早く仏果(ブッカ・成仏のための悟り)を得ること。
すると、仏像の中から光を放って、観自在菩薩自ら姿を現わして、霊運に告げられた。「汝の三つの願いは成就するだろう。汝、速やかに鉄塔に入って大般若経を読誦して、経の在(マシマ)す地を踏めば、必ず三悪趣を免れることが出来る。もし心を尽くしてこの地を踏むことがある人は、歩みを進めるにつれて罪を滅して仏道を得るだろう。我は昔、般若を修業して不退の地(フタイノチ・功徳や善根が変転しない境地。)を得た。もし、この経を受持し書写する人があれば、必ず求める所を得られるだろう」と。
このように説き聞かせ給いて後、姿を隠された。
これを聞いて、霊運は鉄塔に入って、三七日(サンシチニチ・二十一日)の間籠もって、経巻を読誦し、礼拝恭敬して、三七日を過ぎて鉄塔を出た。その後、年月を過ごしてから震旦に帰り、仏法を広め経典を翻訳すること念願通りであった。
「これは、観音の助け、大般若経の威力である」と霊運が震旦に帰ってから語るのを聞いて、
語り伝へたる也とや。
☆ ☆ ☆
『 天人の守護 ・ 今昔物語 ( 7 - 7 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字あるも未詳。]州にある山寺があった。そこに、一人の比丘(ビク・僧)が住んでいた。大品般若経(ダイホンハンニャキョウ・鳩摩羅什の訳したもの。)を読誦して、長年経った。
その間、常に夜になると、天人が比丘の所にやって来て、天甘露(テンカンロ・天上界の不死の神薬。)を供養した。
比丘はこれを受けて、天人に尋ねた。「天上界に般若経は有りますか、無いのですか」と。
天人は、「天上界に般若経はあります」と答えた。
比丘は、「それでは、般若経が天上界にあるのに、どういうわけでやって来て、供養するのですか」と尋ねた。
天人は、「仏法を敬うために来ているのです。また、天上界の般若経は多くの天人が伝えたものです。人間界の般若経は、仏の言葉を正しく伝えたものです。それ故に、私はやって来て供養しているのです」と答えた。
さらに比丘は、「天上界に般若経を受持している者はいらっしゃいますか」と尋ねた。
天人は、「天上界には、悦楽に執着するということがないので、受持する者はおりません。他の天上国でも同じです。ただ、この閻浮提(エンブダイ・人間の住む世界)には大乗の教えを信じる機縁が熟していますので、よく般若経を受持して煩悩の苦を離れることを得ています」と答えた。
比丘は、さらに尋ねた。「般若経を受持する人を守護する天人は、ただ、あなた一人だけですか」と。
天人は、「般若経を受持する人を守護する天人は、八十億人います。皆、人間界にやって来て、般若経を受持する人を守護しています。さらに、般若経を一句でも聞く人を敬うこと、仏を敬い奉るのと同じです。ですから、般若経が、忘れられ廃れてしまうことはありません」と告げた。
これによって、「ある人が、般若経を受持し、もしくは読誦し書写するところには、必ず天人がやって来て守護してくれる」と知るべし、
となむ語り伝へたるとや。
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『 偽りの書写 ・ 今昔物語 ( 7 - 8 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字あるらしいが不詳。]州の天水郡に一人の人がいた。名を張志達という。
この人、もともと書物にふけって、道士(ドウジ・道教の僧)の法文を誉めてその教えを信じた。まったく仏法のことは知らなかった。
ある時のこと、志達は親しい友の家を訪ねた。家の主がいて、大品般若経(ダイホンハンニャキョウ・鳩摩羅什の訳したもの。)を書写していた。
志達はそれを見たが、何か分からず、「あれは老子経だろう」と思って、それを書写している人に尋ねた。「それは、老子経ですか」と。
書写していた人は、戯れに答えた。「そうですよ」と。
志達は「老子経だ」と聞いたので、経を取って三行ばかり書写したが、どうも、老子経に似ていない。そこで志達は、「これは、嘘をつかれたのだ」と思って、怒って紙を棄てて立ち去った。
志達は、それから三年経って、重い病にかかって急死した。
ところが、一夜を経て生き返り、涙を流して泣き悲しんで罪を悔い、かの大品般若経を書写していた人の家へ行き、泣く泣く語った。「あなたは、私にとって大善知識(ダイゼンチシキ・人を仏道に導き、解脱させる人。)です。今、私は、あなたの徳によって命が延びて生き返ることが出来たのです」と。
家の主はそれを聞いて、驚き怪しんでそのわけを尋ねた。
志達は、「私は死んで、閻魔王の前に参りました。王は私が来たのを見ると、『汝は極めて愚かである。邪師の道を信じて仏法を悟らず』と仰せられて、一巻の書(志達の生前の行いが記されている物)を取って開き、わが悪行を検証されたが、二十余枚をすでに開き尽くした。あと残りは半紙ばかりである。その時、王は書をご覧になるのをしばらく止めて、私を見て笑みを浮かべて仰せになられました。『汝、すでに大きな功徳がある。親しい友の家に行き、意識することなく大品般若経三行を書写し奉っている。これは、大変な功徳である。我等は、昔、人間として般若経を修業した力のお陰で、一日中、苦しみを受けることが軽くて少ない。汝の命はすでに尽きているが、この大品般若経三行を偶然書写し奉った功徳によって、命を増すことが得られたのだ。されば、人間界に還すので、汝は速やかに人間界に還って、熱心に般若経を受持して、今日我が許す恩に報いるべし』と。
私は、王の言葉を聞いたところで生き返りました。ですから、生き返られたのは、おなたのお陰なのです」と語った。
親しい友もこれを聞いて、喜ぶこと限りなかった。
志達は、家に帰ると、所有している財産を投入して、大品般若経八部を書写して、心を尽くして供養し奉った。
その後、八十三歳にして、身に病なくして命を終えた。その死後に、志達の家に残っていた人が、志達が書き残していた手紙を見つけた。その手紙には、「千仏来たりて私を迎えてくださった。般若経を以て翼として、浄土に往生す」と書かれていた。
これを聞いた人は、皆、心を尽くして般若経を受持したのだ、
となむ語り伝へたるとや。
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