『 いよいよドイツ戦 』
サッカーワールドカップ カタール大会
いよいよドイツ戦が 間もなく始まる
事前情報は 今日一日だけで 十分満腹した
勝敗予想も 解説者だけでなく
トリやタコなど 様々な動物にも教えてもらった
あとは 本番で すばらしいプレーを期待して
しっかり応援するだけだ
にわか大ファンの 一人として
☆☆☆
『 忍の草ぞ 』
ひとりのみ ながめふるやの つまなれば
人を忍ぶの 草ぞ生ひける
作者 貞 登
( 巻第十五 恋歌五 NO.769 )
ひとりのみ ながめふるやの つまなれば
ひとをしのぶの くさぞおひける
* 歌意は、「 たった一人で 物思いにふけりながら古ぼけた家に住んでいる 年老いた妻ですから つま(軒端)には 人を偲びながらも その寂しさに耐える 忍ぶ草が生い茂っているのです 」といった、恋歌としては少し異質なものを感じます。
この歌には、「ながめ(物思いにふける・長雨)」「ふる(降る・古い・年老いた)」「つま(妻・軒端)」「しのぶ(偲ぶ・忍ぶ草)」と掛詞、縁語があふれていて、とても技巧的な歌といえますが、それ以上に虚しさ、切なさに満ちているように思われ、恋歌というより哀愁歌のように感じてしまうのです。
* 作者の貞登(サダノノボル)は、第五十四代仁明天皇の皇子です。母は、更衣の三国町(ミクニノマチ)です。おそらく地方豪族(越前辺りか?)三国氏の娘と推定されます。
登は、誕生間もない頃に源氏姓を与えられて臣籍降下しています。仁明天皇には多くの女御・更衣・宮人といった妻がいましたが、女御・更衣の皇子で臣籍降下したのは、登だけのようです。母の実家の身分が低かったためでしょう。
* 登の生没年は未詳です。生年を推定するのは難しいのですが、他の皇子の生年や俗籍を剥奪される年代を考えれば、830 年代、おそらく 835 年前後ではないかと推定しました。
上記しましたように、登が皇子であった期間は極めて短い間で、源氏姓を与えられて皇籍を離れています。そして、その源氏姓も、生母の三国町が藤原有貞(藤原南家、右大臣藤原三守の七男。)との密通を疑われて、更衣を廃されました。それに連座して、登も源氏姓を剥奪され、出家して深寂と称しました。この時で登は元服するかしないかの頃と考えられ、源登として活躍する期間はほとんどなく、おそらく、母の実家などに養育されていたのではないでしょうか。
* 出家となった登ですが、僧侶としての修行などについては、伝えられている物は見当たりません。おそらく、母の実家辺りの支援を受けていたのではないでしょうか。
その後、僧侶の身分でありながら俗世間で生活するようになり、子も儲けたようですが、自らは糧を得る手段を持っておらず、零落の極みに陥ったようで、見かねた成康親王(837 年生れ。母は藤原有貞の姉にあたる女御藤原貞子。)ら兄弟たちが、還俗させ本姓に復せるように働きかけたようです。
* 866 年、そのお陰で、源姓への復帰は叶いませんでしたが、貞朝臣登が与えられ、正六位上を授けられました。そして、翌 867 年に従五位下を叙爵し、末席ながら貴族の地位を得ることが出来ました。
ただ、貴族と呼ばれる地位を得たとはいえ、仁明天皇の皇子からは文徳、光孝の二人の天皇が生れており、他の皇子たちはもちろん、源姓に降下した御子たちからも公卿が誕生しています。その面だけを見れば、登の不運は際立っています。
* その後、872 年に土佐守に任ぜられたのを皮切りに、大和権守、備中守、越中介、紀伊権守と地方官を歴任しています。すべてを任国に赴いたのかどうかは不明ですが、中央政治で活躍する機会はありませんでした。
そして、894 年に正五位下を受けていますが、その後の消息は途絶えています。おそらく、これから間もない頃に没したものと考えられます。行年は、六十歳前後だったのではないでしょうか。
* 作者 貞登の生涯は、皇子として生を受けながら、激しい変化を強いられた生涯のように見えます。
貴族の地位を得るまでの半生は、相当厳しいものであったと想像してしまうのですが、清和・陽成・光孝・宇多の四代の王朝のもとで地方官を歴任した元皇子の心境はどのようなものだったのでしょうか。
伝えられている和歌は掲題の一首のみのようですし、妻子については詳らかではありません。それでも、掲題の和歌の読み取り方によっては、激しい流転の代償のような、意外に穏やかで澄み渡ったような晩年だったのかも知れない、と思うのです。
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