雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

奇しき縁を背負って

2023-03-11 18:49:40 | 日々これ好日

      『 奇しき縁を背負って 』

    WBC第三戦 先発投手は佐々木朗希投手
    今日は三月十一日 
    私たちにとって 忘れられない日であるが
    佐々木朗希投手にとっては さらに思いは深いことだろう
    今日先発することに 奇しき縁を感じてしまうが
    それも含めて 入魂の投球を期待したい
    遠来のヨーロッパのチームに
    160kmのスピードを 披露していただきたい

                   ☆☆☆

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別れもゆくか逢坂は

2023-03-11 08:00:43 | 古今和歌集の歌人たち

      『 別れもゆくか逢坂は 』


  かつ越えて 別れもゆくか 逢坂は
          人だのめなる 名にこそありけれ

           作者  つらゆき

( 巻第八 離別歌  NO.390 )
        かつこえて わかれもゆくか あふさかは
                 ひとだのめなる なにこそありけれ


* 歌意は、「  逢坂とは人が逢う所だと思っていたが このように遙々と越えて 別れて行く所でもあったのだ 逢坂とは 人に期待を持たせる 名前なのだなぁ 」といったもので、旅立つ人を送る寂しさを、ユーモアで包んで詠んだものと受け取りました。
この歌の前書きには、『 藤原これをかが武蔵介にまかりける時に、送りに逢坂を越ゆとてよみける 』とありますので、実体験がベースになっている歌なのでしょう。
なお、見送られた人物である「藤原これをか」とあるのは、藤原北家長良流の「藤原惟岳」と推定されています。推定される生存期間や官位などに無理はありませんが、武蔵介に就いていたという確たる記録は無いようです。

* 作者の「つらゆき」とは、古今和歌集の撰者の一人である紀貫之のことです。
古今和歌集の撰者は、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑の四人で、おそらく、身分的にはこの順であったと考えられます。
指名を受けた時点の官位は、推定ですが、友則が六位、貫之が七位あるいは六位、躬恒が七位、忠岑は無位、程度であったと推定されます。当時、和歌そのものや詠み人に対する評価は高かったように思われるのですが、古今和歌集編纂という大事業の撰者たちは、意外に身分は低く、貴族とされる従五位下以上の人は含まれていなかったのです。
これを、詠み人としての上手といっても身分を高めるほどではなかったと考えるのか、歌人としての実力評価は身分に関わりなく行われていたと考えるのか、判断に迷うところです。

* 古今和歌集の編纂を命じられた日についてもなかなか断定できないのですが、仮名序にある[延喜五年(905)]と推定しますと、紀貫之の年令は、三十四歳となります。これは、貫之の誕生年を 872 年とした場合で、866 年とする説もありますので、この場合は四十歳となります。
ただ、どちらの説を取っても、撰者の中で最も若くして選ばれています。因みに他の三人は、友則六十一歳、躬恒四十七歳、忠岑四十六歳となります。
選考過程や完成に要してた期間等は不勉強なのですが、撰者の筆頭と考えられる友則は 907 年になくなっていますので、編纂の中心になったのは、貫之であったと考えられます。

* 古今和歌集には、1100余首の歌が載せられています。
そのうちの4割ほどが「読人しらず」になっています。「読人しらず」の中には、柿本人麿など作者が推定されている歌もありますが、作者が明記されているのは6割ほどということになります。そのうちの、102首が貫之の作品であり、撰者4人の作品が244首採録されています。
古今和歌集の編纂に当たって、おそらく貫之が中心になったのでしょうが、それにしても、「仮名序」を担当し、全体の1割近くの作品を選んでいるのは、さすがに首を傾げたくなる部分があります。

* それはともかく、歌人として、あるいは文学者としての紀貫之の評価は、相当高いようです。特に、土佐守としての任期を終えた後、帰京する様子を記した「土佐日記」は、仮名文学、日記文学の分野に大きな影響を与えたことは確かと考えられます。
現在においても、教科書などにも登場しており、この時代を代表する文学者であったことは確かなのでしょう。

     ☆   ☆   ☆

 

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