『 地方統一選挙がスタート 』
九府県知事選挙が 告示された
4月9日の 統一選挙投票日に向けて
多くの 首長選挙や議会議員選挙が 順次告知されていく
WBCの余韻は醒めず 今しばらくはニュースの中心になるだろうが
地方選挙は 私たちの生活に直結している選挙であり
少しずつ こちらにも注意を 振り向けたいものだ
とはいえ 表面だけ見て人物を選ぶのは なかなか難しいが
立候補者の 人材不足が言われている中ではあるが
せめて 何とか とんでもない人物だけは
選出しないように 努力したいと思う
☆☆☆
『 よはいは老いぬ 』
年ふれば よはいは老いぬ しかはあれど
花をし見れば 物思ひもなし
作者 前太政大臣
( 巻第一 春歌上 NO.52 )
としふれば よはいはおいぬ しかはあれど
はなをしみれば ものおもひもなし
* 歌意は、「 長い年月を生きて来たので すっかり老いてしまった そうではあるが 今満開の花を見れば 何の悩みもない 」と、満ち足りた老いの心境を詠んだものでしょう。
この歌の前書きには、『 染殿の后のお前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる 』とあります。
「染殿の后」とは、作者の娘明子のことで、文徳天皇の皇后です。「染殿」は作者の邸宅の名前ですが、明子がそこを里邸としていましたので染殿の后と呼ばれました。
* 作者の前太政大臣とは、藤原良房のことです。生年は 804年、没年が 872 年、平安時代初期の大政治家です。
良房は、藤原北家の左大臣藤原冬嗣の次男として誕生しましたが、類い希な資質に加えて、嵯峨天皇の信任を受けて、貴族界の頂点へと上り詰めています。
823 年、嵯峨天皇の皇女であった潔姫を妻に迎えました。良房が二十歳、潔姫が十四歳の頃でした。当時、皇女が臣下に降嫁することは禁じられていましたが、潔姫が五歳の頃に源朝臣姓を賜って臣籍降下、兄の源信の籍に入っていました。それゆえ、対象外として降嫁が実現したものですが、嵯峨天皇の良房への期待が大きかったことが分かります。
* その後、良房は順調に昇進を続け、太政大臣にまで上り、やがて皇族以外で初めての摂政に就いています。この後、北家を中心とした藤原氏が宮廷政治の中心になり、良房の子孫たちから多くが摂関の地位に就いているのです。
その中でも、娘の明子の存在は、政治的に表立った影響は伝えられていませんが、良房にとって、後々の藤原北家の強大な政治力に、大きな存在となった女性のようです。
* 良房を父に、潔姫を母に誕生した明子は、文徳天皇が皇太子の時に入内しました。そして、850 年に文徳天皇が即位した直後に皇子を生みました。その皇子は文徳天皇の第四皇子でしたが、年上の皇子を抑えて、誕生八ヶ月で立太子、九歳の時には清和天皇として即位したのです。
明子は、両親の血筋と権力によって皇后・皇太后・太后太后と地位を重ねて行きましたが、たいへん美しい人であったとも伝えらています。そして、六代の天皇の栄華を見守りながら、900 年に、七十二歳の生涯を終えています。
* 掲題の和歌は、作者である良房が最晩年の頃に、染殿に戻っていた愛娘を桜の花に模して詠んだものです。
出自に恵まれ、才能に恵まれ、環境に恵まれ、妻子にも恵まれて、上り詰められる極限まで上った人生だったのでしょうが、当人にとっては、戦いの日々であったのかもしれません。
良房は政治の人であって、歌人として評価を論じることに意味があるとは思えないのですが、掲題の和歌に限って言えば、実に味わい深い一面を持っていると思うのです。
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