『 6月の消費者物価は3.3%の上昇 』
6月の消費者物価は3.3%の上昇と 総務省の発表
庶民の生活実感としては
とてもそんなものではあるまい と思っていると
生鮮食料を除く食品は 9.2%上昇しているそうなので
変に納得してしまった
実質賃金が低下している というのも定着している感があるが
実質生活費は さらに厳しいという現実に
もっと光を当てて欲しい
ところで 「2%の物価上昇目標」 あれ 何か役に立ったのかな?
「見事 目標達成しました」 という声も聞いていないが
何らかの 結果報告があるのかな??
☆☆☆
『 主なき宿は 』
うちつけに さびしくもあるか もみぢ葉も
主なき宿は 色なかりけり
作者 近院の右大臣
( 巻第十六 哀傷歌 NO.848 )
うちつけに さびしくもあるか もみぢばも
ぬしなきやどは いろなかりけり
* 歌意は、「 急に 寂しくなったので もみぢ葉までが 主人のいないお屋敷では 色が美しくないのでしょうね 」と、亡くなった人を忍んだ歌です。
この和歌の前書き(詞書)には、『 河原の大臣の身まかりての秋、かの家のほとりをまかりけるに、紅葉の色まだ深くもならざりけるを見て、かの家によみていれたりける 』とあります。
河原の大臣(左大臣 源融)が亡くなった後、たまたまその邸の辺りを通りかかったところ、紅葉がまだ進んでおらず、もみじまでが喪服を着ているらしい、と感じたので、この歌を詠んで歌人に渡した、というものです。
* 作者の「近院(コンイン)の右大臣」とは、源能有(ミナモトノヨシアリ)のことです。
能有の父は第五十五代文徳天皇、母は伴氏の娘です。生没年は、( 845 - 897 )です。
能有が生れたのは、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王( 844 - 897 ・生母は更衣の紀静子。)と、ほとんど違いのない時期だったと考えられます。ただ、生母の身分は「宮人」となっていますので、正式に後宮入りしていなかったようで、親王宣下もなされなかったようです。
文武天皇の後を継いで皇位に就くのは、第四皇子の惟仁親王( 850 - 881 ・後の清和天皇)ですが、生母が時の権力者右大臣藤原良房の娘の明子であったからで、生後八ヶ月にして立太子しています。
* 853 年、能有は他の兄弟たちと共に「源」の姓を与えられて臣籍降下しました。
文徳天皇には、簡単に知ることが出来る資料に残っているだけでも、皇子だけで十数人に及びます。天皇の外戚を廻る争いが激しさを増している時代であり、そういう背景の許に、文武天皇の皇子で親王宣下を受けていない子供たちの殆どが同様で、後に文徳源氏と呼ばれることになります。
* 皇室を離れ、源能有となりましたが、862 年に、従四位上に直叙されました。十八歳の頃の事で、天皇は弟の清和天皇が就いており、父の文武天皇もすでに亡くなっていましたが、血統故の厚遇であることは確かでしょう。
その後、加賀守、大蔵卿を経て、872 年には、二十八歳にして参議に任じられ、公卿に列せられています。これも、当然血筋なればこその一面は否定できないでしょうが、政務に勝れ、人品も高く評価されていたようです。
* その後も順調に昇進し、政務ばかりでなく武官職も経験し、890 年には正三位、891 年には大納言に昇っています。
その頃、政権の第一人者であった藤原基経が没すると、大臣職にあった藤原良世・源融は共に高齢であったため、能有が政務を実質的にリードする状態になったようです。
清和・陽成・光孝・宇多の四朝に仕え、特に宇多天皇の信頼は厚かったと伝えられています。
* 896 年には右大臣に就きましたが、翌 897 年に亡くなりました。行年五十三歳です。最終官位は、右大臣正三位左近衛大将兼春宮傅です。
天皇家の、それも第一皇子に近い地位で誕生しながら、臣籍降下を強いられた人生とも受け取れますが、貴族としての生涯は、充実したものだったのではないでしょうか。
その子孫は、男系では、清和源氏に受け継がれ、女系では藤原北家の中枢に受け継がれています。見事な生涯と言えるのではないでしょうか。
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