『 圧巻の絶唱 』
パリ五輪が 開幕した
異例づくめの開会式は 雨に降られる不運もあったが
今後の開会式に 影響を与えるかもしれない
同時に いささか長いような気もしたが
最後の セリーヌ・ディオンさんの 絶唱には
完全に惹き付けられ 感動した
フランスも やるなぁ!!!
☆☆☆
『 波路はあとも残らず 』
かの方に いつからさきに 渡りけむ
波路はあとも 残らざりけり
作者 阿保経覧
( 巻第十 物名 NO.458 )
かのかたに いつからさきに わたりけむ
なみじはあとも のこらざりけり
* 歌意は、「 あの向こう岸に あの人たちは いつの間に先に 渡ったのだろう 波の上には船の跡も 残っていないのに 」といった、比較的分かりやすい歌ではないでしょうか。
考えようによっては、男女の仲や、もっと運命的な場面も想像できないわけではありませんが、この歌には、「からさき」という題があり、また『物名』として編集されていることからも、「からさき」を詠み込むのが目的の歌と考えられます。
「からさき」は、琵琶湖畔の唐崎と考えられます。
* 作者の阿保経覧(アボノツネミ・ ? - 912 )は、平安時代前期の官人・貴族です。
彼の官暦は残されていますが、逸話などはあまり伝えられていないようです。彼を知るためには、父の情報が有力のようです。
* 阿保経覧の父は、阿保今雄( ? - 884 )ですが、もともとの姓は「小槻山」でした。小槻山氏は、滋賀県の南西部辺りを拠点とする豪族でした。おそらく、朝廷の出先機関や時には中央の官吏としても働いている一族だったのでしょう。
そうした背景をもとに、今雄は中央の官吏として勤め、内務官吏として相当優秀だったと考えられ、875 年に、「阿保朝臣」の姓を下賜されて改姓しました。そして、その前後に外従五位下を受けており、879 年には従五位下(内位)を叙爵して、押しも押されもせぬ貴族の地位に上っているのです。
なお、「外位(ゲイ/ガイイ)」というのは、中央官僚の「内位」に対するもので、地方出身者などに与えられ、内位より下位として扱われました。
* 作者の経覧の誕生年は不詳ですが、記録されている官職は、893 年に主計権少属ですので、この時には阿保氏として任官しているはずです。父の跡を追うような職務ですが、父はすでに 884年に亡くなっており、格別優遇されることはなかったようで、この職務は従八位下程度と考えられます。また、この時の年齢ですが、父が亡くなった年を考えますと、この職務が最初とは考えられず、おそらく数年間は下積みの任務に就いていたのではないでしょうか。そうだとすれば、この時には、二十歳をかなり超えていたのではないでしょうか。
その後、内務官吏を勤め、907 年に外従五位下に上りましたが、やはり父と同じように、「外位」という扱いでした。
912 年正月七日に、待望の従五位下(内位)を叙爵し、父の地位に追いつきましたが、その十日後に世を去りました。おそらく、四十代の半ばぐらいだったのではないでしょうか。
* 経覧には、当平、糸平ら数人の兄弟がいたようですが、この兄弟らは、「小槻宿禰」の姓を賜り改姓しています。朝臣より宿禰の方が格下ですから、何らかの理由があったと思われます。実子でなかったからという推察もされているようですが、よく分りません。
当平らの子孫は、下級の内務官吏として官職にあったようです。
経覧にも子供がいたようですが、詳しい消息は伝えられていないようです。
* 阿保氏を名乗る人物は他にもおりますが、「小槻山」ー「阿保」-「小槻」と改姓した一族では、「阿保」を名乗った人物は、今雄と経覧の二人(もしかすると、経覧の子も名乗ったかもしれないが。)だったと考えられます。
阿保経覧には、近江にそこそこの領地を有していた可能性はありますが、父に早く死なれ、内務官吏として懸命に努力を重ねる生涯だったのかもしれません。そして、遂に貴族の地位を得ることになりますが、その時は、死に臨んだ状態だったのではないでしょうか。いささかの哀れみを感じてしまいますが、歴史の流れという立場から見ますと、小槻山系の阿保氏を名乗った、たった二人のうちの一人であったと考えれば、そこには、何かがあったようにも思えてくるのです。
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