浅緑 花もひとつに かすみつつ
おぼろに見ゆる 春の夜の月
作者 菅原孝標女
( NO.56 巻第一 春歌上 )
あさみどり はなもひとつに かすみつつ
おぼろにみゆる はるのよのつき
☆ 作者は、平安中期の宮廷女房。更級日記の著者として知られる。生没年は未詳。
☆ 歌意は、「 空は浅緑に 花の色も一つになって 一面にかすんでいて おぼろに見える 春の夜の月のなんとすばらしいことよ 」といった、比較的分かりやすい和歌である。
この和歌の前書き(詞書)には、「祐子内親王、藤壺に住み侍りけるに、女房・上人など、さるべきかぎり、物語して、『春・秋のあはれいづれにか心ひく』などあらそひ侍りけるに、人々多く秋に心を寄せ侍りければ」とある。
つまり、春と秋のいずれが風流に勝っているかとの論争となり、多くの人が秋をあげたので、作者は春の情緒が勝っているとして詠んだ歌なのである。
作者が、本当に春の方が勝っていると思っていたのか、反骨的な気持ちからなのかは微妙なところである。
☆ 作者の菅原孝標女(スガワラノタカスエノムスメ)は、更級日記の著者としてよく知られているが、生没年やその本名さえ正確には伝えられていない。
ただ、生没年については、誕生年を 1008 年、没年を 1059 年以降とする資料も見られるが、これは、更級日記の内容から推定したもので、ほぼ正確だと考えられる。
☆ 作者の父の菅原孝標は、あの菅原道真の玄孫にあたる人物である。母は、藤原北家に属する正四位下伊勢守を務めた藤原倫寧の娘である。つまり、作者は中級貴族の姫として誕生したといえる。
作者の生涯について、比較的多くの情報が伝えられているが、その多くは、彼女が書き残した「更級日記」の内容からのものである。
☆ 作者の父・菅原孝標は、上野国の介としての任期を終えて、帰京することになった。なお、上総国は親王が国司を務める親王任国で、国司が任地に赴くことはなく、次官である「介」が実質的な長官(国司)役である。
1020 年 9 月に、孝標一家は国府(現在の千葉県市川市にあったらしい)を出立し、三ヶ月ほどかけて京に上った。
『 あづまぢの道のはてよりなほ奥つ方・・・ 』と始まる「更級日記」は、「蜻蛉日記」や「紫式部日記」などと共に平安女流日記文学の代表の一つとされるが、実際は、毎日毎日を記録しているものではなく、むしろ回想録といった性格の作品である。
☆ その作品によれば、作者の少女時代は大変な文学少女であったようだ。特に、帰京後間もない頃に、伯母から源氏物語の全巻をもらい受け、尋常でないほどにのめり込んだようである。
1024 年に姉が二人の子供を亡くしたことから、「信心せよ」といった夢を見るようになったらしい。
やがて、祐子内親王家に出仕し、1040 年に橘俊道( 1002 - 1058 ・従五位上信濃守)と結婚、一男二女を儲けた。この頃には、現実生活に追われ、夢のような物語の世界からは解放されていたようで、それと共に仏教に傾倒していったようである。
1058 年に夫の俊通が死去、子供たちも独立していて、孤独な生活になり、物語もその翌年で終っている。この事から、1059 年、作者五十二歳の頃から、そう遠くない頃に死去したと推定されているようである。
☆ 「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」という作品も、この作者による物とされる説が強い。どちらも、源氏亜流と評されることがあり、源氏物語の影響を強く受けていることからも、源氏物語の影響を強く受けたとされる作者が書き残した作品かもしれないが、まだ断定はされていない。ただ、もしかすると、この二作品が菅原孝標女という女性の手によるものだとすれば、当時、数多くの物語を書き残していたかもしれないと、強く感じるのである。
☆ ☆ ☆
空は浅緑に
と言う訳は、ちょっと無理かと。
春秋論争は、新古今和歌集でも歌数で、拮抗しております。
拙blogも明日は、新古今和歌集に出来ればとは思っておりますが、ビール飲みながらオリンピック観戦しております。感染しませんガ。。。
又お邪魔いたします。
拙句
春秋といづれがあはれあさ緑
いつもご教示ありがとうございます。
次から次へと難題続きのオリンピックですが、開催された以上は成功裏に終って欲しいと願っています。わが国の前半の成績は、予想以上で、テレビ観戦している限り、盛り上がっているように感じられます。それに、無観客もまんざらでもない気がしています。
ただ、選手の健康ということでは、コロナより、厳しい猛暑の方が心配です。
テレビ観戦の私も、熱中症で医療負担をかけないようにと心がけています。
ありがとうございました。