雅工房 作品集

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九条家一族の台頭 ・ 望月の宴 ( 8 ) 

2024-03-13 20:42:06 | 望月の宴 ①

          『 九条家一族の台頭 ・ 望月の宴 ( 8 ) 』


このような事(次々と公卿たちが亡くなったこと)があったが、五月二十日(天禄元年、970)、一条の右大臣(伊尹)が摂政の宣旨を受けられて、一天下はご自分の思いのままであられる。東宮(師貞親王)の御祖父であり、帝(円融天皇)の御伯父にあたり、全くこの上ないご愛顧を蒙ってお過ごしになられる。
このような御有様につけても、九条殿(師輔)の御一族のみがたいそうなご繁栄であられる。

左大臣には、源氏の兼明(カネアキラ)と申されるお方が就かれた。このお方も醍醐帝の皇子であられ、源姓を賜って臣下になられたのである。御筆跡をたいそう上手にお書きになられる。道風(ミチカゼ・小野道風)などといった人の筆跡を、世間では優れたものともてはやしているが、この殿はまことにみずみずしく優雅にお書きになられる。
右大臣には、小野宮の大臣(実頼)の御子、頼忠がお就きになった。

やがて、天禄二年になった。
帝は御年十三になられましたので、御元服の儀がありました。
九条殿の御次郎(次男)君というのは、今の摂政殿(伊尹)のすぐの弟で、兼通と申し上げるお方で、今は宮内卿(宮内省の長官)とお呼びしているが、その御姫君(媓子(コウシ)
・947年生まれ。史実では天禄四年の入内となっている。)を入内おさせになった。 
摂政殿の姫君たちは、まだたいそう幼く、とても入内おさせになることはできず、まことに無念な思いであろう。
宮内卿は堀河にある邸を立派に造ってお住みになっていた。女御(媓子。入内直後に女御に。)はたいそう美しくあられたので、帝はまだ少年であられたが、愛しく思い申し上げていた。

帝には、御同腹の第九皇女(同母姉の資子内親王)、このお方は先帝(村上天皇)もたいそう可愛がっておられたが、この帝もお互いに格別仲良くなされていたので、一品(イッポン・皇族に与えられた最高の位。正従一位に同格で待遇では上回ることもあった。)の位をお与えになられた。宮中のたいそう心寂しいなかで、この姫宮は美しく輝いていらっしゃいます。
そして、その妹君である第十皇女(選子内親王)は、この御時に斎院にお決まりになったのである。

九条殿(師輔)の御三郎(三男)で兼家の中納言と申すお方が、たいそう大切にお育てになっている姫君が二人いらっしゃる。今の東宮(師貞親王)はまだ幼いし、帝には堀河の女御(媓子・兄の娘)がいらっしゃるので、張り合うことになりそうだとして、上皇である冷泉院に参らせ申し上げたが、異例なことだと世間では取り沙汰された。

摂政殿(伊尹)の女御と申されるお方(懐子)は、東宮の御母女御であられるが、同腹の女宮がお二人お生まれになった。しかし女一の宮(宗子内親王)は間もなく亡くなられ、女二の宮(尊子内親王)だけがいらっしゃる。
その女宮は院が帝であられた時のお生れではなかったが、後にお生れになったこの女宮は、たいそう愛らしくまるで光るように美しいお方である。東宮がこのように宮中においでになるので、御母女御は時々はお会いに参内申されるが、ふだんはご自邸でこの姫宮をお相手に寂しさを慰めていらっしゃった。

権勢を誇った貞信公(藤原忠平)の御子方も、師氏の大納言を最後に皆さまお亡くなりになられました。
それにより、世代が変わっていく中で、九条殿(師輔)のご一族の台頭が目立って参りますとともに、九条殿のお子様方の宮中における激しい争いの時代を迎えることになります。
つまり、我が殿(道長)の御父上やご兄弟方の激しくそして絢爛な時代の幕開けでもございました。

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