『 守平親王立太子 ・ 望月の宴( 3 ) 』
村上帝御崩御の後のことは、まことに悲しいことばかりでございます。
御葬送の夜は、葬儀官の除目があり、これまでの役職を解かれて、葬儀のあの役この役と分担されることになりました。いつもの司召(ツカサメシ・除目)には喜びがございますが、この度ばかりは皆さま涙を流しているのも、まことに悲しさが増します。殿上人や上達部の方々も、居残られる方のほかは、皆さまが御葬送に奉仕なさいました。
上皇の御葬送は、盛大であっても臣下と同様でございますが、この度は御在位中の崩御ということで、これまでにない盛大なものであったと、世間の人々は取りざたされておりました。
その後も、皇子皇女方や女御方の墨染の喪服姿も悲しいものでございます。同じ諒闇(リョウアン・天皇が父母の喪に服する期間)と申しましたも、この帝の場合は、たいそう仰々しいものでございましたから、天下の人々は誰もが烏のように黒々とした姿でありました。喪服を染めるための椎柴は、四方の山が採り尽くされたのではないかと思われるのも、悲しいことでございます。
御葬送や後々の法事もすべて終わり、少し落ち着いてくると、東宮をどなたにするかの決定があるはずである。
式部卿宮(シキブキョウノミヤ・為平親王)の御所では、内々に大臣(藤原実頼左大臣)の御意向を心待ちにされていたが、何の音沙汰もないので、どうしたものかと不安に胸がつぶれそうになっているらしい。
岳父である源氏の大臣(ゲンジノオトド・源高明)は、もし東宮に立てないとなれば、とんでもないことで、これほど無念なことはあるまいと、憂慮しておられたのである。
そうこうしているうちに、九月一日(康保四年・967)に東宮が決まった。五の宮(守平親王)が立太子されたのである。御年は九歳であられた。
帝の御年は十八歳であられた。この帝(冷泉天皇)が即位なされた同じ日に、女御も后となられ、中宮と申し上げる。昌子内親王(ショウシナイシンノウ・朱雀天皇の皇女)と申されるお方である。朱雀院の願われていたことで、宿願が叶って喜ばしいことである。
中宮大夫(チュウグウノダイブ・中宮職の長官)には、宰相朝成(サイショウ アサヒラ・宰相は参議の唐名)が就任された。東宮大夫(東宮坊の長官)には中納言師氏(モロウジ)が、東宮傅(トウグウフ・東宮坊における太政大臣的な地位)には小一条の大臣(師尹)が就任された。東宮坊のお二人は、九条殿(師輔)の御兄弟の方々である。ただし、九条殿の君達(キンダチ・ここでは御子たち)はまだ官位も低いので、これらのお役には就けなかったのであろう。
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