雅工房 作品集

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世代交代 ・ 望月の宴 ( 7 ) 

2024-03-13 20:42:26 | 望月の宴 ①

          『 世代交代 ・ 望月の宴 ( 7 ) 』


安和の変は、世間の人にもやもやとしたものを抱かせながらも、源氏の左大臣高明殿が大宰権帥に左遷という悲しい結末となり、ほどなく、出家なさったとのうわさが伝わって参りました。
そして、この事件は、藤原氏による摂関政治への出発点ともいえる事件でもあったのです。

これということもなく月日は過ぎて、運命には定めがあるということか、帝がご譲位なさるとあって騒がしい。安和二年八月十三日のことである。
帝(冷泉天皇)がご譲位なさったので、東宮(守平親王)が即位された。御年十一歳である。
新東宮には、譲位された帝の幼い皇子がお立ちになった。師貞(モロサダ)親王である。外祖父となる伊尹(コレマサ)大納言の御幸いは並大抵ではない。
譲位の帝は冷泉院(二条北・大宮東にあった邸)にお住まいになられた。それゆえ冷泉院とお呼び申し上げる。
東宮の御年は二歳である。
太政大臣(実頼)は摂政の宣旨を受けられた。師尹(モロタダ)の大臣は左大臣であられる。
御禊、大嘗会(ゴケイ、ダイジョウエ・・大嘗会は天皇即位後初めて行われる新嘗祭。御禊はその直前に天皇が鴨川に行幸して行う禊。)なども間近に迫ったので、世間は沸き立っている。

そうした中で、小一条の左大臣殿(師尹)が十月十五日にお亡くなりになりました。日頃、ご病気がちであられましたが、御年五十歳での薨去で、ご兄弟であられる摂政殿(実頼)も喪に服され、大嘗会の折のこととて、実に残念でございましたことでしょう。
決まり通りに葬送の事など行われ、その年も暮れました。
今上の帝(円融天皇)は、まだ童でございますので、晦日の夜の追儺(ツイナ・内裏において悪鬼を払う儀式。)に殿上人が振鼓(フリツヅミ・追儺の時童子が持ち歩く道具。)を作って献上されたので、帝はそれを振って興じられている姿が、たいそう微笑ましうございました。

年が明けて元日になりますと、天禄元年という年でございます。
年の初めの清新な有様の中、小一条の左大臣の後任に在衡(アリヒラ・藤原氏)の右大臣が就かれましたが、ふとした病気がもとで、正月二十七日にお亡くなりになられたのです。御年七十八歳。年の初めと申しますのに、何とも不穏な事でございます。
この時、伊尹(コレマサ・道長の伯父にあたる。)殿は右大臣であられました。

さらに、摂政(実頼)殿までが、風の気(いわゆる風邪ではなく、神経系統の病か?)が起こりがちで、参内も容易でない状態におなりになりました。帝もたいそう御心配なされました。
世間では、万一のことがあれば、一条の右大臣(伊尹)殿が摂政になられるだろうと、然るべき人々は内々にご機嫌にうかがっているとのことでございました。
そうしたなか、摂政殿の御容態はさらに悪くなられました。お年もご高齢であり、皆さまご心配されておりました。ご兄弟の殿方は次々と他界なされ、この殿だけは長く政界の地位を保って来られましたが、人の寿命というものはどうにもならないことで、五月十八日にお亡くなりになりました。御年七十一歳であられました。
この殿の御次男は左大将頼忠殿でございますが、摂政をお譲りなさることもなく薨去なさったのは、あまり例のないことでございます。

そして、七月十四日には師氏の大納言殿お亡くなりになりました。
この大納言殿は御年五十五歳であられましたが、これにより貞信公(テイシンコウ・藤原忠平)の御子は男君四人(五人が正しいが、夭折したらしい師保を除いているらしい。)でございますが、皆さま亡くなられてしまいました。
まるで、次の世代への移り変わりを急いでいるかのような出来事が続いたのでございます。

     ☆   ☆   ☆



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