『 哀れなり永平親王 ・ 望月の宴 』
摂関家や公卿方が激しく変わる中、かの村上の先帝の皇子の八の宮(永平親王)、このお方は宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・芳子)の御腹の親王であられるが、まことに見事な器量の持ち主でありながら、どうしたことか、ご気性が合点のいかぬ有様に成長なさった。
御叔父にあたる済時(ナリトキ)の君、今は宰相(サイショウ・参議の唐名)であられるが、この方が万事お世話をなされ、小一条の御邸に住まわれていたが、この宰相は枇杷の大納言延光の娘を妻として通われていた。この妻の母は、中納言敦忠の御娘であるが、二人の間にはたいそう可愛らしい姫君がおり、捧げもののように大切にされていた。
かの八の宮は、母女御を亡くされていたので、この小一条の宰相のみが全てのお世話をなさっていたが、まだ若年でありながら、この八の宮はわずらわしいほどにこの姫君に執心なさるので、宰相はいまわしく思われて、決して姫君に会わせないようにしたのである。
八の宮は幼い時から可愛げのない性質で、素直さもなく、暗愚の君と見えたが、そうとはいえ、姫君を恋するといった気持ちを抱いていることを、宰相は不愉快に思われていたのである。
宰相の甥にあたる実方(サネカタ)の侍従も、この宰相を親として慕っておられた。この姫君の兄で長明君という男君がいた。祖母北の方(敦忠の御娘)は実方と長明君のお二人を手元に引き取って、枇杷殿で養育されていた。
その二人の君達(公達)もこの八の宮を、時にはなぶりものし、馬鹿にして嘲笑されていたが、どうも憎らしいことに、八の宮は姫君を気に入られ慕われて、常に側に近寄って来られるので、宰相は全く不快なことだと思われたのである。
八の宮君は、この頃、十二歳ぐらいでございました。宰相殿は宮のご気性をたいそう心配なさっておりました。
実方殿と長明君などが集まって、「馬に乗ることをお習いなさい。宮さまというものは、しかるべき折には馬に乗らねばなりません」と言って、庭先でお乗せしてはやし立てたものですから、八の宮君は顔を真っ赤に染めて、馬の背中にひれ伏されるのを、周りの者が声を挙げて笑うので、宰相殿はいたたまれなくなり、「抱いてお下ろしせよ。恐がっておられるだろう」と仰せられたので、笑いながらお下ろしすると、宮は馬のたてがみを口いっぱいに含んでいらっしゃったので、宰相殿はやりきれないお気持ちになられた。女房達も大笑いしていた。
こうした時でしたが、冷泉院の后宮(昌子内親王)が、御子がいらっしゃらず、お寂しいことでもあり、「この八の宮を養子にして、自分のもとに通わせよう」と仰っているらしいことを宰相殿は伝え聞かれて、「それはまことにありがたいことだ。あの后宮は財宝をたくさんお持ちのお方だ。故朱雀院の御宝物はすべてあの后宮のもとにあるそうだ。八の宮は幸せ者だ。宝の王になられるだろう」と仰せられて、吉日を選んで初参上なさった。
后宮は、母女御に先立たれたとはいえ、小一条の宰相が教え育てられた宮のお人柄は良いのであろう、と思ってお迎えになった。
宰相殿が格別に装いを凝らしてお連れしたので、ご引見なされたところ、ご容姿は全く憎らしいといったところはない。御髪(オグシ)などたいそう美しく、膝辺りまであるのは可愛らしい直衣姿ではある。
すぐにお呼び入れになり、南面(ミナミオモテ)の昼の御座(ヒノオマシ)の所に大切にお座らせになり、お供の人々に禄を与えられたり、贈物などしてお帰しになった。
ただ、后宮が声をおかけになられても、八の宮君は顔を赤くされるだけで何もお答えになられなかったが、たいそう高貴でおおらかなご気性のせいだとお取りになっていました。その後も時々参上なさったが、その時も何もお話にならないので、「どうもおかしい」と思われるようになっておられました。
そのうちに、后宮がご病気をなさったので、宰相殿は八の宮君をお見舞いに遣わされました。八の宮君は、「あちらに参上したら、どう申し上げればよいだろう」とお尋ねになられたので、宰相殿は、「『御病気の由を承りましたので』と申し上げればよいのです」などと教えられた。
八の宮君は后宮のもとに参上し、はきはきと教えられた通りを申し上げると、后宮はご気分が勝れない中ながらも、たいそうお喜びになられました。
御前を退出した後、宰相殿に、「教えられたことを、本当にうまく言ってやった」と仰るので、宰相殿はその愚かさにあきれて、「どうして『言ってやった』などと申されるのですか。后宮は畏れ多いお方ですのに」とたしなめられると、「うんうん、そうだそうだ」と仰る様子は、苦労してお育てしている甲斐がなくなるほど、がっかりなさいました。
やがて、天禄三年になり、元日のご挨拶のため、宰相殿は八の宮君を立派に着飾らせて后宮のもとに参上させられました。その時には、ご挨拶の言葉などは教えられませんでした。
后宮は、八の宮君がそれはそれはご立派なご様子で拝賀なるのをまことに愛おしく見守られておりました。周りには大勢の女房方が美々しく着飾って居並んでいて、御簾の内に入られるようお勧めになる。八の宮君がいかにも様子ぶって入る姿も様になっていて、どうご挨拶なさるのかと興味津々のご様子です。
八の宮君は、ことさらに声を作って、「御病気の由を承りましたので」と申されたのです。昨年の御病気お見舞いの言葉をそのまま申し上げたものですから、后宮は憮然として何も仰せになりませんでしたが、女房方は笑い出し、「世間の語り草とならずにはすまない宮の御言葉かな」とささやき合い、大笑いとなりました。
八の宮君は、居心地悪く真っ赤になって座っていましたが、「叔父の宰相が、昨年お見舞いに参上した時に申し上げよと言っていたことを、今日言ったからといって、どうしてそれがおかしいのか。何かと人を馬鹿にしたがり、笑いたがる女房がたくさんいる御所ではないか。くだらない。もうここへは参るまい」とご機嫌を損ねて退出していった。
小一条のお邸に戻り、「驚きいったことがありました」と仰るので、宰相殿が「何事がありましたか」とお尋ねすると、「これからは后宮の御所へは絶対に参上しない。もう私をひと思いに殺してください」と言うので、宰相殿も驚いて何事かとさらに尋ねると、御所での出来事を話されたので、実に情けなく思われた宰相殿のお気持ちは察するに余りあると申せましょう。
この八の宮君の母君は、宣耀殿の女御と申されるお方でございますが、大変麗しいお方で、特にその御髪の長いこと美しいことは並ぶ者などございませんでした。またたいそう聡明でもあられ、古今和歌集二十巻をすべて暗誦されているという噂をお聞きになった村上帝が、実際に試されましたが、一字一句違うことなくお答えになったそうでございます。
八の宮君は、ご誕生の翌年には親王宣下を受けられるなどこの上ないご出生でありながら、誕生後二年ほどの間に、御父の村上帝、御母の宣耀殿の女御を亡くされており、ご両親のいない環境が、この皇子の御心を傷つけて行ったのでございましょうか。
何かとその資質を謗られる皇子でございますが、哀れでならないのでございます。
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