平将門 (2) ・ 今昔物語 ( 25 - 1 )
( (1) より続く )
さて、その当時、新皇(シンノウ・平将門)の弟に将平(マサヒラ)という者がいた。
その将平が新皇に、「帝皇の位に就くことは、天が与えるところなのです。この事をよくお考え下さい」と言った。
新皇は、「わしは弓矢の道に練達している。今の世は討ち勝つ者を君主とするのだ。何のはばかることがあろうか」と言った。そして、弟の進言を承知せず、ただちに諸国(東国の八国)の受領を任命した。
下野守に弟将頼、上野守に多治常明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模介に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為などである。(将文・将武・将為の三人は、将門の弟。)
また、王城(都)を下総国の南の亭(所在地未詳)に建設することを決定した。また、磯津の橋を京の山崎の橋にみなし、相馬郡の大井の津を京の大津にみなした。(共に要衝の地。)
さらに、左右の大臣、大・中・少納言、参議、文武百官、六弁(左右の大・中・小弁)、八史(太政官の史(サカン)八名)など皆定めた。新皇の印、太政官の印を鋳造するための寸法・字体を定めた。但し、暦博士は力及ばず設けることが出来なかった。
一方、諸国の国司たちはこの事を漏れ聞いて、慌てて全員が京に上っていった。
新皇は、武蔵国・相模国などまで軍勢を進め、その国の印役鎰を奪い取り、租税等の国事を勤めるよう留守番役の次官などに命じた。そして、自分が天皇の位に就くことを、京の太政官に伝えた。
この伝達を受け、天皇を始めとして、百官皆驚き、宮廷内は大騒ぎとなった。天皇は、「もはや仏の加護を仰ぎ、神の助けをこうむるしかない」と思われて、諸大寺に顕教・密教を問わず、あらゆる祈祷を行わせた。また、神社という神社には祈願をお願いしたが、まことにたいへんな事であった。
そうしている間に、新皇は相模国より下総国に帰り、馬も休ませないうちに、残りの敵を討ち滅ぼすために、大軍を率いて常陸国に向かった。すると、その国の藤原氏一族は、国境において盛大な饗宴を設けて新皇をもてなした。
新皇は、「藤原氏の者たち、平貞盛のいる場所を教えよ」と訊ねた。この問いに、「彼らは、聞くところによれば、浮き雲のよう居場所を変えていて定まっていないようです」と答えた。
やがて、貞盛、護、扶(タスク)らの妻が捕えられた。新皇はこれを聞いて、その女たちが辱めを受けないように命じたが、その命令が届く前に、兵士たちによって犯されてしまった。それでも、新皇はこの女たちを許して、家に帰してやった。
新皇はその場所に数日留まっていたが、敵の居場所を見つけることが出来なかった。その為、諸国から集めた兵士たちを皆帰国させた。残ったのは、僅かに二千人足らずであった。
こうした時、平貞盛並びに押領使(オウリョウシ・兇徒の鎮圧、逮捕にあたる令外の官。)藤原秀郷(ヒデサト・ムカデ退治の伝説がある俵藤太と同一人物。)らは、これを伝え聞いて、「朝廷の恥をすすごう」「身命を棄てて戦おう」と誓い合って、秀郷らが大軍を率いて向かったので、新皇は大いに驚いて、軍兵を率いて迎い打とうとした。やがて、秀郷軍と遭遇した。
秀郷は戦略に優れていて、新皇軍を撃破した。貞盛軍も秀郷軍の後に続いて逃げる新皇軍を追った。やがて追いつき合戦となったが、兵士の数が遥かに劣っている新皇軍は、「退却して、敵軍を引き寄せて逆襲しよう」と思って、辛島(サシマ)の北に隠れたが、その間に、貞盛は新皇の屋敷をはじめ、その一族郎党たちの家を片っ端から焼き払った。
さて、新皇は常に率いていた兵士八千余人がまだ集まらないので、僅か四百の軍兵で辛島の北で陣を張って待ち受けていた。貞盛・秀郷らは追って行き合戦となった。初めは新皇軍が優勢となり、貞盛・秀郷の軍勢は撃退されたが、次第に貞盛・秀郷軍が逆に優勢となった。互いに身命を惜しまず激戦となった。
新皇は駿馬を駆って自ら先頭に立って戦ったが、明らかに天罰が下り、馬も走らず手も思うように動かなくなり、遂に矢にあたって野の中に落ちて死んだ。貞盛・秀郷勢は喜び、屈強の兵士にその首を斬り落とさせた。
そして、ただちに下野国より解文(ゲブミ・国解(コクゲ)と同意で、国司が中央政庁に上申する公文書。)を添えて、その首を京に送った。
新皇が名を失い命を滅ぼすことになったのは、あの興世王の謀議にのった結果である。
朝廷はこの事を大変喜び、将門の兄弟並びに一族郎党らを追捕せよとの官命を、東海道・東山道の国々に下した。また、「この一族を殺した者には褒賞を与える」と公布した。そして、大将軍参議兼修理大夫右衛門督藤原忠文に将軍刑部大輔藤原忠舒(タダノブ)等を付けて、八ヶ国に派遣したので、将門の兄将俊ならびに玄茂らは相模の国で殺された。
興世王は上総国で殺された。坂上遂高、藤原玄明らは常陸国で斬られた。また、謀反に加担した者たちを探索し討伐したので、将門の弟七、八人のうちのある者は剃髪して深山に入り、ある者は妻子を棄てて山野を放浪した。
その後、経基、貞盛、秀郷らには褒賞が与えられた。経基を従五位下に、秀郷を従四位下に、貞盛を従五位上に叙された。
その後、将門がある人の夢に現れて、「我は生前、一善すら修めず、悪のみつくって、この業(ゴウ)によって、今一人で苦を受けること堪え難し」と告げた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (1) より続く )
さて、その当時、新皇(シンノウ・平将門)の弟に将平(マサヒラ)という者がいた。
その将平が新皇に、「帝皇の位に就くことは、天が与えるところなのです。この事をよくお考え下さい」と言った。
新皇は、「わしは弓矢の道に練達している。今の世は討ち勝つ者を君主とするのだ。何のはばかることがあろうか」と言った。そして、弟の進言を承知せず、ただちに諸国(東国の八国)の受領を任命した。
下野守に弟将頼、上野守に多治常明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模介に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為などである。(将文・将武・将為の三人は、将門の弟。)
また、王城(都)を下総国の南の亭(所在地未詳)に建設することを決定した。また、磯津の橋を京の山崎の橋にみなし、相馬郡の大井の津を京の大津にみなした。(共に要衝の地。)
さらに、左右の大臣、大・中・少納言、参議、文武百官、六弁(左右の大・中・小弁)、八史(太政官の史(サカン)八名)など皆定めた。新皇の印、太政官の印を鋳造するための寸法・字体を定めた。但し、暦博士は力及ばず設けることが出来なかった。
一方、諸国の国司たちはこの事を漏れ聞いて、慌てて全員が京に上っていった。
新皇は、武蔵国・相模国などまで軍勢を進め、その国の印役鎰を奪い取り、租税等の国事を勤めるよう留守番役の次官などに命じた。そして、自分が天皇の位に就くことを、京の太政官に伝えた。
この伝達を受け、天皇を始めとして、百官皆驚き、宮廷内は大騒ぎとなった。天皇は、「もはや仏の加護を仰ぎ、神の助けをこうむるしかない」と思われて、諸大寺に顕教・密教を問わず、あらゆる祈祷を行わせた。また、神社という神社には祈願をお願いしたが、まことにたいへんな事であった。
そうしている間に、新皇は相模国より下総国に帰り、馬も休ませないうちに、残りの敵を討ち滅ぼすために、大軍を率いて常陸国に向かった。すると、その国の藤原氏一族は、国境において盛大な饗宴を設けて新皇をもてなした。
新皇は、「藤原氏の者たち、平貞盛のいる場所を教えよ」と訊ねた。この問いに、「彼らは、聞くところによれば、浮き雲のよう居場所を変えていて定まっていないようです」と答えた。
やがて、貞盛、護、扶(タスク)らの妻が捕えられた。新皇はこれを聞いて、その女たちが辱めを受けないように命じたが、その命令が届く前に、兵士たちによって犯されてしまった。それでも、新皇はこの女たちを許して、家に帰してやった。
新皇はその場所に数日留まっていたが、敵の居場所を見つけることが出来なかった。その為、諸国から集めた兵士たちを皆帰国させた。残ったのは、僅かに二千人足らずであった。
こうした時、平貞盛並びに押領使(オウリョウシ・兇徒の鎮圧、逮捕にあたる令外の官。)藤原秀郷(ヒデサト・ムカデ退治の伝説がある俵藤太と同一人物。)らは、これを伝え聞いて、「朝廷の恥をすすごう」「身命を棄てて戦おう」と誓い合って、秀郷らが大軍を率いて向かったので、新皇は大いに驚いて、軍兵を率いて迎い打とうとした。やがて、秀郷軍と遭遇した。
秀郷は戦略に優れていて、新皇軍を撃破した。貞盛軍も秀郷軍の後に続いて逃げる新皇軍を追った。やがて追いつき合戦となったが、兵士の数が遥かに劣っている新皇軍は、「退却して、敵軍を引き寄せて逆襲しよう」と思って、辛島(サシマ)の北に隠れたが、その間に、貞盛は新皇の屋敷をはじめ、その一族郎党たちの家を片っ端から焼き払った。
さて、新皇は常に率いていた兵士八千余人がまだ集まらないので、僅か四百の軍兵で辛島の北で陣を張って待ち受けていた。貞盛・秀郷らは追って行き合戦となった。初めは新皇軍が優勢となり、貞盛・秀郷の軍勢は撃退されたが、次第に貞盛・秀郷軍が逆に優勢となった。互いに身命を惜しまず激戦となった。
新皇は駿馬を駆って自ら先頭に立って戦ったが、明らかに天罰が下り、馬も走らず手も思うように動かなくなり、遂に矢にあたって野の中に落ちて死んだ。貞盛・秀郷勢は喜び、屈強の兵士にその首を斬り落とさせた。
そして、ただちに下野国より解文(ゲブミ・国解(コクゲ)と同意で、国司が中央政庁に上申する公文書。)を添えて、その首を京に送った。
新皇が名を失い命を滅ぼすことになったのは、あの興世王の謀議にのった結果である。
朝廷はこの事を大変喜び、将門の兄弟並びに一族郎党らを追捕せよとの官命を、東海道・東山道の国々に下した。また、「この一族を殺した者には褒賞を与える」と公布した。そして、大将軍参議兼修理大夫右衛門督藤原忠文に将軍刑部大輔藤原忠舒(タダノブ)等を付けて、八ヶ国に派遣したので、将門の兄将俊ならびに玄茂らは相模の国で殺された。
興世王は上総国で殺された。坂上遂高、藤原玄明らは常陸国で斬られた。また、謀反に加担した者たちを探索し討伐したので、将門の弟七、八人のうちのある者は剃髪して深山に入り、ある者は妻子を棄てて山野を放浪した。
その後、経基、貞盛、秀郷らには褒賞が与えられた。経基を従五位下に、秀郷を従四位下に、貞盛を従五位上に叙された。
その後、将門がある人の夢に現れて、「我は生前、一善すら修めず、悪のみつくって、この業(ゴウ)によって、今一人で苦を受けること堪え難し」と告げた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます