余五将軍合戦記 (1) ・ 今昔物語 ( 25 - 5 )
今は昔、
実方(サネカタ・藤原氏)中将という人が陸奥守になって、その任国に下ったが、その人は高貴な家柄の貴族であったので、国内の然るべき武者たちは、皆、これまでの守に対するのとは違い、この守をもてなし、夜昼かまわず国司の屋敷への出仕に努めた。
ところで、この国に平維茂(タイラノコレモチ・前話にも登場。前話では兼忠の子となっているが、繁盛の子とも。貞盛の養子となり余五将軍と号した。)という者がいた。これは、丹波守平貞盛という武者の弟である武蔵権守重成(正しくは繁盛)という者の子の上総守兼忠の長男である。
曾祖伯父の貞盛は、甥や甥の子などをみな引き取って養子にしたが、この維茂は甥であるが年が若かったので、第十五子として養子にしたので、通称を余五君(ヨゴノキミ)というのである。
また、その当時、藤原諸任(フジワラノモロトウ・出自未詳)という者がいた。これは、俵藤太秀郷(タワラノトウタヒデサト・藤原秀郷の通称)という武者の孫である。通称を沢胯四郎(サワマタノシロウ)といった。
この二人は、ささいな所領争いから、各々自分の正当を主張して、守(カミ・実方中将)に訴え出たが、いずれにも道理がある上、二人とも国の有力者なので、守としても裁定を下すことが出来ないでいるうちに、三年目に守が死んでしまった。
そのため、その後も共に訴訟をめぐる怒りがおさまらず、互いに不快に思って過ごしていたが、それぞれに、この事に関して不都合な中傷をする者どもがいて、よからぬように告げ口などをしたので、もとは極めて仲が良かった二人が、どんどん仲が悪くなり、互いに、「わしのことをそのように言っていたのか。そうは言わせないぞ」と言うようなことがたび重なっていき、遂には、はっきりと公言するようになり、大事へと発展してしまった。
そこで、とうとう双方ともに軍備を整え、合戦すべき状況になってしまった。そして、決戦状を取り交わして日を定め、「どこそこの野で戦おう」と約束した。
維茂方には兵士三千人ばかりあり、諸任方は兵士千余人であったので、兵士の数ははなはだしく劣っていた。
そこで諸任は「この戦いは止めよう」と言って、常陸国に退いてしまった。維茂はこれを聞いて、「そうであろう。わしに手向かうことなど出来るわけがない」などと、数日間息巻いていたが、集まって来ていた兵士たちもしばらくは気炎を上げていたが、滞陣が長引いてきたので、それぞれ「所要あり」などと理由をつけて、皆本国に引きあげてしまった。
また、告げ口をしていた者たちも、「沢胯の君(諸任)は、つまらない者の告げ口によって無益な戦をすることは望まないでしょうし、軍兵の数も勝負になりません。またこの所領争いもつまらないことです。沢胯の君は、『常陸と下野の辺りを行き来しよう』と言っているらしです」などと、調子の良いことを言うし、「無事に自分の国に帰ろう」と思っている連中も口々に余五(維茂)に言い聞かせたので、余五も、「そうであろう」と思って、軍平を皆帰し、気を緩めていた。
すると、十月一日の頃に、丑時(ウシノトキ・午前二時頃)のころに、家の前の大きな池に集まっていた水鳥が、にわかに騒がしく飛び立つ音がしたので、余五ははっと目を覚まし、郎等たちを呼んで、「敵が攻めてきたに違いない。鳥がばかに騒いでいる。男どもよ、起きて戦仕度をせよ。馬に鞍を置け。櫓に登れ」など命じて、郎等の一人を馬に乗せ、「馳せ向かって様子を見てこい」と言って行かせた。
郎等はすぐさま返ってきて、「この南の野にどのくらいかは分かりませんが、おびただしい数の軍勢が真っ黒に散っていて、四、五町ほどの間に満ち溢れています」と報告した。
余五は報告を聞いて、「それほどの軍勢に襲われては、もはや最期だろう。とはいえ、ひと戦せねばなるまい」と言って、軍勢が押し寄せてくる道々に、それぞれ四、五騎ばかり盾を突いて待ち構えさせた。家の中で戦仕度の者といえば、上下合わせても二十人ほどに過ぎなかった。
「すっかり油断しているのを知られ、詳しく通報されて襲われたからには、もはや生きのびる道はない」と思って、妻や幾人かの侍女、幼い子供などを後ろの山に逃した。この幼児というのは、幼い頃の左衛門大夫滋定(シゲサダ)である。
( 以下、(2) に続く )
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今は昔、
実方(サネカタ・藤原氏)中将という人が陸奥守になって、その任国に下ったが、その人は高貴な家柄の貴族であったので、国内の然るべき武者たちは、皆、これまでの守に対するのとは違い、この守をもてなし、夜昼かまわず国司の屋敷への出仕に努めた。
ところで、この国に平維茂(タイラノコレモチ・前話にも登場。前話では兼忠の子となっているが、繁盛の子とも。貞盛の養子となり余五将軍と号した。)という者がいた。これは、丹波守平貞盛という武者の弟である武蔵権守重成(正しくは繁盛)という者の子の上総守兼忠の長男である。
曾祖伯父の貞盛は、甥や甥の子などをみな引き取って養子にしたが、この維茂は甥であるが年が若かったので、第十五子として養子にしたので、通称を余五君(ヨゴノキミ)というのである。
また、その当時、藤原諸任(フジワラノモロトウ・出自未詳)という者がいた。これは、俵藤太秀郷(タワラノトウタヒデサト・藤原秀郷の通称)という武者の孫である。通称を沢胯四郎(サワマタノシロウ)といった。
この二人は、ささいな所領争いから、各々自分の正当を主張して、守(カミ・実方中将)に訴え出たが、いずれにも道理がある上、二人とも国の有力者なので、守としても裁定を下すことが出来ないでいるうちに、三年目に守が死んでしまった。
そのため、その後も共に訴訟をめぐる怒りがおさまらず、互いに不快に思って過ごしていたが、それぞれに、この事に関して不都合な中傷をする者どもがいて、よからぬように告げ口などをしたので、もとは極めて仲が良かった二人が、どんどん仲が悪くなり、互いに、「わしのことをそのように言っていたのか。そうは言わせないぞ」と言うようなことがたび重なっていき、遂には、はっきりと公言するようになり、大事へと発展してしまった。
そこで、とうとう双方ともに軍備を整え、合戦すべき状況になってしまった。そして、決戦状を取り交わして日を定め、「どこそこの野で戦おう」と約束した。
維茂方には兵士三千人ばかりあり、諸任方は兵士千余人であったので、兵士の数ははなはだしく劣っていた。
そこで諸任は「この戦いは止めよう」と言って、常陸国に退いてしまった。維茂はこれを聞いて、「そうであろう。わしに手向かうことなど出来るわけがない」などと、数日間息巻いていたが、集まって来ていた兵士たちもしばらくは気炎を上げていたが、滞陣が長引いてきたので、それぞれ「所要あり」などと理由をつけて、皆本国に引きあげてしまった。
また、告げ口をしていた者たちも、「沢胯の君(諸任)は、つまらない者の告げ口によって無益な戦をすることは望まないでしょうし、軍兵の数も勝負になりません。またこの所領争いもつまらないことです。沢胯の君は、『常陸と下野の辺りを行き来しよう』と言っているらしです」などと、調子の良いことを言うし、「無事に自分の国に帰ろう」と思っている連中も口々に余五(維茂)に言い聞かせたので、余五も、「そうであろう」と思って、軍平を皆帰し、気を緩めていた。
すると、十月一日の頃に、丑時(ウシノトキ・午前二時頃)のころに、家の前の大きな池に集まっていた水鳥が、にわかに騒がしく飛び立つ音がしたので、余五ははっと目を覚まし、郎等たちを呼んで、「敵が攻めてきたに違いない。鳥がばかに騒いでいる。男どもよ、起きて戦仕度をせよ。馬に鞍を置け。櫓に登れ」など命じて、郎等の一人を馬に乗せ、「馳せ向かって様子を見てこい」と言って行かせた。
郎等はすぐさま返ってきて、「この南の野にどのくらいかは分かりませんが、おびただしい数の軍勢が真っ黒に散っていて、四、五町ほどの間に満ち溢れています」と報告した。
余五は報告を聞いて、「それほどの軍勢に襲われては、もはや最期だろう。とはいえ、ひと戦せねばなるまい」と言って、軍勢が押し寄せてくる道々に、それぞれ四、五騎ばかり盾を突いて待ち構えさせた。家の中で戦仕度の者といえば、上下合わせても二十人ほどに過ぎなかった。
「すっかり油断しているのを知られ、詳しく通報されて襲われたからには、もはや生きのびる道はない」と思って、妻や幾人かの侍女、幼い子供などを後ろの山に逃した。この幼児というのは、幼い頃の左衛門大夫滋定(シゲサダ)である。
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