『 かへるがへるも 』
白雪の 八重降りしける かへる山
かへるがへるも 老いにけるかな
作者 在原棟梁
( 巻第十七 雑歌上 NO.902 )
しらゆきの やへふりしける かへるやま
かへるがへるも おいにけるかな
* 歌意は、「 白雪が 幾重にも降り敷いている かへる山は 頭が白くなり すっかり 年老いたものだなあ」といったものでしょうか。
この和歌には、「寛平御時后の宮の歌合の歌」という表題が付けられていますので、実感というより、作意された歌でしょう。
なお、「かへる山」とは、福井県にある山地のようで、それほど著名な山ではなかったようですが、名前が「帰る」に繋がることから、時々詠まれているようです。
* 作者の在原棟梁(アリハラノムネハリ/ムネヤナ)は、平安時代初期の貴族です。( 850? - 898 )
父は、よく知られている在原業平(アリハラノナリヒラ)です。母は、紀有常です。
作者の祖父にあたる阿保親王は、平城天皇の第一皇子でしたが、平城天皇が弟の嵯峨天皇に譲位した後に、阿保親王は平城上皇らと共に「薬子の変」に連座し、大宰権帥に左遷されました。これにより、皇統は嵯峨天皇の子孫に受け継がれ、阿保親王の子である業平らは 826 年に在原姓を賜って臣籍降下しています。
作者が生れた時には、在原姓となって二十年余りが過ぎていて、すでに皇室とは遠い関係になっていたのでしょうが、名族としては不本意な官位官職だったと想像できます。
* 869 年、春宮舎人に任ぜられて、貞明親王に仕えましたが、棟梁が二十歳の頃ですので、初出仕だとすれば、少し遅いように感じます。
この貞明親王とは、後の陽成天皇ですが、この年に誕生し、生後三ヶ月にして立太子しています。おそらく、貞明親王が春宮(東宮)に立つと同時に出仕したのでしょう。
貞明親王は、876 年に八歳にして即位します。棟梁は、その後は、左近衛将監、左兵衛権大尉(ともに六位相当)と、武官として仕えています。
* 884 年、光孝天皇が即位しますと蔵人に任ぜられます。
陽成天皇が摂政藤原基経と対立、トラブルもあって廃位され、陽成天皇の祖父文徳天皇の弟である光孝天皇が即位したもので、激しい政争を経ての誕生で、五十五歳になっていました。
棟梁が蔵人に任ぜられたのには、この混乱期に必要な人材として求められたのかも知れません。
翌年、従五位下・雅楽頭に叙任されます。ようやく貴族の仲間入りしたことになりますが、すでに三十六歳になっていました。
* 886 年、左兵衛佐に転じ、再び武官として仕えています。896 年には左衛門佐と勤め、897 年に従五位上に上り、翌 898 年に筑前守を兼務しますが、ほどなく亡くなりました。行年四十九歳と考えられます。
* このように、残されている記録を辿る限りでは、決して恵まれた官暦であったとは思われません。父の業平は、現代人の目で見てこそ、当代屈指の文化人と言えるかも知れませんが、その生涯は、大きな屈折を抱えての生き様だったのではないでしょうか。
筆者の棟梁も、中古六歌仙の一人に選出されるなど、歌人としては相当の評価を受けていたのでしょうが、どこか、満たされぬものを抱いた生涯であったのではないかと、思えてならないのです。
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