『 歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに、穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。』
平安時代の才女を二人挙げるとすれば、清少納言と紫式部を挙げる人が多いのではないだろうか。
もちろん、王朝文学全盛の時代なので、好みや選考の視点によって候補となる人物は少なくないとも考えられる。しかし、やはり現代に伝えられている「枕草子」と「源氏物語」の著名度は圧倒的といえる。
さらに、清少納言と紫式部が対立関係にあったらしいといった話もあって、その興味からも、二人の存在が際立っている。
( 中略 )
そして、この二人の才女の娘たちであるが、紫式部の娘は、母の後を継ぎ彰子の女房として出仕している。母と違って、社交的な女性であったらしく、多くの浮名を残したようであり、歌人としても優れ、その和歌は小倉百人一首にも採用され今に伝えられている。さらに、万寿二年( 1025 )には、のちの後冷泉天皇の誕生とともにその乳母に任ぜられ、即位後従三位が与えられている。大弐三位という女房名は、夫の官職名とともに付けられたものと思われるが、従三位といえば男性なら公卿と呼ばれる身分なのである。
一方の清少納言の娘である小馬命婦も、彰子に仕えている。清少納言をよく知っている道長がその代わりのように出仕を求めたのか、あるいは、清少納言が宮中に出向いて娘の出仕を願い出たものかもしれない。
ただ、その後の小馬命婦の消息は、残念ながら全く探ることができない。歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。
勅撰和歌集に伝えられている小馬命婦の和歌は、「後拾遺和歌集」に載る一首のみである。
「 その色の草とも見えず枯れにしを いかに言ひてか今日はかくべき 」
( 「運命紀行」 才女の娘 より)
『 今年も悲喜こもごも 』
プロ野球ドラフト会議
一巡目指名では 重複指名が多かったが
この現象を どう判断すべきなのかな
今年も 悲喜こもごもの光景が 見られたが
指名順位に関わらず プロの道に飛び込む青年たちの
健闘を祈りたい
同時に 指名されたのと 同数程度の選手が
球界を去ることを考えると 複雑な気持ちもある
その人たちにも 次の舞台での 健闘を祈りたい
☆☆☆
『 暖かな「霜降」 』
当地は 朝から風が強く
雨・曇り・晴れが 目まぐるしく変化
温度は 空模様に関係なく 昇っていって
暖かな「霜降」となった
天候は回復し まだ数日は気温は高いようだ
ただ 当地は 日曜日には 雨が予想されていて
総選挙の投票率に どう影響するのか
そして 投票率が 各党にどう影響するのか
総選挙も 投票日まで あとわずか・・・
☆☆☆
『 日米ともに混沌 』
いくつかの報道機関が 自公過半数割れの可能性
と予測
自民の苦戦は予想されていて 公明も鉄壁ではないと
予想されていたが 状況はさらに厳しいらしい
政権交代はともかく 政権の弱体化の可能性が高まった
一方の米国 こちらも 日替わりで予想が変っている
どちらも わが国に大きな影響を与えることになるが
両国の国民は どうした選択をするのだろうか
さて さて・・・
☆☆☆
『 頼通の結婚 ・ 望月の宴 ( 123 ) 』
かの花山院に寵愛されていた四の御方(太政大臣故藤原為光の四女。)は、院がお亡くなりになったので、鷹司殿(四の御方のもともとの居所らしい?)に移られていたが、それを殿(道長)がお耳になさって、お側に召したいと思われていたが、四の御方が心を決めかねているうちに、殿の上(倫子)が家の女房にとお便りをなさったが、どういうわけからか、ご決心がつかないようである。
こうしているうちに、殿の左衛門督(道長の嫡男頼通)を、然るべき家柄の人々で、婿に迎えたいと意向を示す方々もあるが、まだどうともお決めにならないでいたところ、六条の中務宮(具平親王)と申されるのは、故村上の先帝の御七の宮で、生母は麗景殿女御(醍醐天皇の孫の荘子女王)である。その御方と、村上天皇の四の宮の式部卿為平親王と故源帥の大臣(ゲンノソチノオトド・源高明)の御娘との間に生れた中姫君との間にお生まれになった御子に、女宮が三人、男宮が二人いらっしゃいます。
その姫君(隆姫)は、それはそれは大切にお育てになられていて、まったく不足のないお家柄であり、中務宮のご気性なども、世間並みといったものではなく、たいそう学問に優れているあまりに、陰陽道も医術の方にも、万事驚くほどに極めていらっしゃる。さらに、作文(サクモン・漢詩を作ること)や和歌などの方面にも優れていらっしゃって、まことに奥ゆかしくご立派でいらっしゃる。
その中務宮が、この左衛門督殿を婿にと御心を寄せられていらっしゃるのを、大殿(道長)がお聞きになって、「まことに畏れ多いことである」と恐縮なさって、左衛門督に、「男の値打ちは妻次第なのだ。たいそう高貴な家に婿入りするべきなのであろう」と仰せになっているうちにも、内々に準備を進めていたので、縁組みも今日明日に迫った。
実は、中務宮は、姫君を入内させることを望んでいらっしゃったのだが、御宿世というものであろうか、心を決められて左衛門督を婿にお迎えになったのである。
その御有様は、まことに当世風であった。
女房二十人、童女、下仕え四人ずつで、万事においてたいそう奥深く心憎いまでの有様である。今風の普通に見られる香ではなく、まさにこれが古(イニシエ)の薫衣香(クノエコウ・衣服にたきしめる香。)などといって、実にすばらしいと言われているのは、この薫りなのだと、重ね重ね珍しいものだと思われる。
姫君(隆姫)の御年は十五、六歳ぐらいで、御髪(ミグシ)などは尚侍殿(ナイシノカミドノ・道長の次女妍子。後の三条天皇中宮で、髪が美しいことで知られていた。)の御有様にとてもよく似た風情であられ、とてもすばらしいご容姿と推察なさっていらっしゃるのだろう。
中務宮は、たいそうご満足でいらっしゃるとお見受けされる。
こうして数日が過ぎて、御露顕(トコロアラワシ・当時の結婚の披露。)となったので、お供として参上すべき人々を、殿の御前(道長)がみな選択しお決めになった。
その夜の有様は、いささかも不足するものとてなくご立派に行われた。
男君の御愛情のほどは、宮家の有様や御身分などのほどによって左右されるものではあるまいが、それにしてもお二人の御仲はまことにすばらしい。
中務宮は、まことに婿取りした甲斐があったと思って見守られている。婿君が六条の御邸に朝夕お通いになるにつけても、その途中で、百鬼夜行(鬼や妖怪が列をなして歩くことで、当時、出会うことを恐れていた。)の夜などにもたまたま遭うかもしれないと、たいそう心配なことだとお思いになって、上京の辺りに然るべきお住まいを計画なさっている。
中務宮は、今は何の心配もなくなったので、この機会に何とか出家の本意を遂げたいものとお思いである。
事に触れて、格別尊い御有様であられるので、然るべき折々に、また、めずらしい節会などにおいては、ぜひお会いしたいと帝は望んでおいでだが(一条帝は十六歳年長の具平親王を敬愛していたらしい。)、この度のことだけではないが、そのような事は中務宮は念頭においていない。まったく残念なことである。
☆ ☆ ☆
『 ドジャース ワールドシリーズ進出 』
ドジャースは メッツに快勝して ナ・リーグ優勝を果した
ついにワールドシリーズに進出 相手はヤンキース
ヤンキースも 好調のようなので
簡単なシリーズにならないだろうが
大谷翔平選手をはじめとした 打線の爆発が絶対条件だが
このシリーズ 山本由伸投手の出来が
大きな鍵を握っているような 予感がする
ぜひとも 二試合に登板して欲しい
☆☆☆
『 寒くなったり暑くなったり 』
当地は 昨夜来風雨が強く
夜が明けた後 天気は回復したが風が強く
今日は 北風が冷たい一日になった
暑い暑いと言っていた後だけに とても寒く感じた
ところが 明日の日中は また暑くなるらしい
暑さと寒さが 行ったり来たり
そう言えば 総選挙も中盤戦
与野党の つばぜり合いも 行ったり来たり
一週間後には 暑さ寒さも 選挙も
決着がつくのだろうが・・・
☆☆☆
『 ドジャース おあずけ 』
ドジャースは敗れ ワールドシリーズ進出は
おあずけとなった
ヤンキースは勝利して ワールドシリーズ進出に
王手をかけた
日本シリーズ進出をかけた セリーグの戦いは
DeNAが悲願を果すか 巨人が踏ん張るか
さて さて・・・
☆☆☆
『 越の白山 』
君がゆく 越の白山 知らねども
雪のまにまに あとは尋ねむ
作者 藤原兼輔朝臣
( 巻第八 離別歌 NO.391 )
きみがゆく こしのしらやま しらねども
ゆきのまにまに あとはたづねむ
* 歌意は、「 君がこれから行く 越の国の白山は 知らないけれど 雪が止んでいる時を見計らって 君の跡を追いながら 尋ねて行きますよ 」といった、とても美しい歌だと思います。
この歌の前書きには、「 大江千古が越へまかりける うまのはなむけによめる 」とありますので、実際に送別の場で詠んだ歌のようです。
なお、「大江千古」は、従四位下まで上った貴族で、醍醐天皇の侍読(学問の教授役)を勤めているので親交が深かったようです。
また、「越(コシ)」の国とは、当時は北陸地方一帯を指していました。「うま」とあるのは、送別の宴を指しますが、「乗馬の鼻を旅立つ方向に向けてやる」という意味です。
* 作者の藤原兼輔朝臣(フジワラノカネスケノアソン・ 877 - 933 )は、平安時代前期の貴族・歌人です。
祖父の藤原良門は、藤原北家の中心人物の一人とも言える藤原冬嗣の六男です。まさに隆盛への門口と言える時代に誕生した良門ですが、兼輔の父である利基と高藤を儲けたあと間もなくに死去しました。その為、良門の官位は正六位に止まり、兄弟のうちでただ一人貴族の地位(従五位下以上)に上ることが出来ませんでした。
このため、兼輔の父の利基も弟の高藤も冬嗣の子孫の中で恵まれない環境におかれました。
* ところが、兼輔の叔父にあたる高藤とその娘の胤子(インシ/タネコ)の劇的な運命により、兼輔にも幸運をもたらしたのです。
高藤とその妻となる宮道列子との出会いについて、今昔物語では、『 高藤が山科に鷹狩りに出掛けたとき、雨に降られて立ち寄った、宇治の郡司宮道弥益の家で、娘の列子を見初めて、一夜の契りで儲けたのが胤子である・・・ 』と伝えています。
一族の中で劣勢であるとはいえ、藤原北家の中枢に近い高藤と、郡司の娘との出会いは、なかなか劇的なものと言えます。
さらに、こうして誕生した胤子は、成長してのち、光孝天皇の第七皇子で臣籍降下していた源定省に嫁ぎます。884 年の頃の事です。おそらく、すでに何人もの妻がいたことでしょうが、885 年に定省の長男となる維城(コレザネ・)が誕生します。
887 年、光孝天皇の後継を廻って紛糾があり、その結果、定省が皇族復帰して宇多天皇として即位しました。そして、維城も皇族となり改名して敦仁親王となります。
胤子も、更衣を経て 892 年に女御となり、敦仁親王も立太子しました。しかし、896 年にわが子の即位を見ることなく逝去しました。敦仁親王はまだ十二歳でしたが、宇多天皇の正妻といえる女御で、関白太政大臣藤原基経の娘である温子が養母となり、敦仁親王の地位は揺るぐことなく、897 年に醍醐天皇として即位したのです。
胤子の父の高藤は正三位内大臣、利基も従四位上右近江中将にまで昇進したのには、その恩恵は小さくなかったはずです。
* さて、利基の子である兼輔も、その恩恵を強く受けていたようです。
醍醐天皇がまだ春宮であったころから、そば近くに仕えました。醍醐天皇が春宮に立った時は、まだ八歳(数え年)くらいで、兼輔は八歳くらい上ですから、養育、遊び相手といった立場だったかもしれません。高藤の子の定方は、兼輔よりさらに四歳上ですが、やはり同じように仕えていたようです。
この定方は、後に従二位右大臣にまで上り、また、兼輔はその娘を妻としていますので義父となり、手厚い後ろ盾となった人物です。
いずれも、醍醐天皇の外戚に当たるゆえに選任されたのでしょう。
* 897 年に醍醐天皇が即位したあとも、蔵人としてではなく側近くに仕え、同時に右衛門少将を兼ね、902 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たします。兼輔は二十六歳の頃のことです。
903 年、内蔵助(内蔵寮の次官)に就きます。その後、武官や五位蔵人など天皇の近くに仕えながらも、内蔵寮の官吏としては、権頭、頭と地位を上げながら二十年近くその職務に当たりました。内蔵寮は、中務省に属していて皇族の財宝を管理する職務ですから、後醍醐天皇の信頼がいかに厚かったかが分ります。
* 916 年に従四位下に上り、917 年に蔵人頭となり、名実ともに天皇の最側近となります。921 年に参議となり、遂に公卿の地位に達しました。藤原北家の台頭が目立ち始めた頃ですが、嫡流でない立場としては望外の出世といえるでしょう。
927 年、さらに、従三位権中納言に上りました。
933 年、行年五十七歳で逝去しました。
* 兼輔の官吏としての生涯は、武官と内蔵寮官吏としての実績が目立ちますが、930 年に醍醐天皇が崩御するまで、天皇が最も信頼する側近の一人として仕え続けたことに尽きるような気がします。
また、歌人としては、義父となった定方と共に、当時の歌壇の中心にあったと考えられます。
醍醐天皇は、『古今和歌集』の編纂を命じた人物であり、歌人としても多くの和歌を残しています。当時の歌人としては、古今和歌集の編纂を担った紀貫之らが著名ですが、身分的には定方や兼輔が遙かに上位であり、むしろ歌壇をリードする立場にあったと考えられます。
兼輔自身も、古今集に採録されているのは四首に過ぎませんが、勅撰集全体では五十六首あり、三十六歌仙の一人に選ばれています。
おそらく、兼輔本人としては存分の生涯を送ったと満足しているだろうと推定するのですが、公卿への昇進は望外であったとしても、歌人としての現代人の評価はかなり不足していると考えているのではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
『 凄みを感じた 』
今日の大谷翔平選手には 凄みを感じた
先頭打者ホームランも もちろんだが
その後の連続しての 三つの四球は
警戒してと言うより 勝負を避けている感じがした
しかも 四球の後を ベッツがことごとく生かしたのが
さらに輝きを増大した
山本由伸投手も まずまず合格点で
ドジャースは 大事な試合を快勝した
明日が ますます楽しみになった
☆☆☆