秋祭りは12日と決まっている新庄町の素盞嗚神社。
新庄町はもう一つの神社がある。それは鉾立神社である。
場所はといえば東の外れ。出屋敷だったという地区は8軒ほど。
ここでは集まりやすい第二日曜日に変更された。
お渡りなど秋祭りは既に終えていた。
一方、素盞嗚神社では昨日の宵宮と同様に二日間に亘ってお渡りをしている。
地区は西と東。それぞれにトーヤ制度がある。
トーヤを充てる漢字は当舎だそうだ。
県内ではヤを充てる字は屋や家が多くあるが舎は聞くことがない。
それはともかく当舎(本当舎とも)は各地区とも2人だ。
白衣を身につけて登場する。
当舎はもう一人いる。
次の当舎を勤める人でミナライとも呼ばれているアトトーヤ(受け当舎とも)。
衣装は和装だ。氏神さんを司っているのは3人の氏子総代。
いずれも黒足袋を履いた和装姿だ。
お渡りは両地区の当舎家からぞろぞろ歩いて高く掲げた提灯の前に合流する。
その際、「トーニ(ジ)ン トーニ(ジ)ンワーイ」と唱和したら皆が「ワーイ」と言っていたのだが、恥ずかしくなったのかもう何年も発声したことがないと総代は話す。
鳥居前で厳粛にお祓いをしたあとは宮司を先頭に拝殿に向かって行く。
当舎の孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いでいる。
三つの扇を組み合わせた御幣を持つのは当舎。
幣の色は紺と白。目立つ色彩である。
本殿の両脇に御幣と稲束、御神酒入れを立て掛けて神事が始まった。
末社へもお参りをするが宮司と手伝いだけだ。
竹筒からお神酒をカワラケに注ぎ参拝する。
当舎の家族が見守るなか粛々と神事は続けられる。
そのあとは拝殿に登って直会へと移った。
両地区は左右に別れて座る。
座席にアトトーヤが配るジャコと昆布。お神酒も注がれた。
しばらくはそれを肴にお酒が入る。
30分ほど過ぎた辺りでしょうか。当舎の前に座って「御幣下げいかがですか」と口上を述べる。
「はい けっこうでございます」と返答をもらったアトトーヤは御幣を持ちだして末社に参る。
その御幣を持ったまま再び拝殿にあがった。
なんと一人ずつ頭の上から御幣を振るのだ。
所作はいわゆる奉幣振り。
そしてもう一回の口上。
「げこう(下向)はいかがですか」と述べれば「はい けっこうでございます」と返答する。
これは下向と呼ばれる儀式であった。
これを所作するアトトーヤは一人。
お神酒を早く飲みきった方がその所作をするのが慣わしであったが、現在は右(南側)に座る地区となった。
この年は右に座るのが西地区、左は東地区だった。
翌年はその座る位置を入れ替え交互にあたるようにされた。
こうして酒飲みの競争をしなくてもいいようになったという。
祭りの前々日はヨバレの日だった。
当舎の家で氏子たちがご馳走をよばれるのだ。
伊勢音頭の囃子唄でモチを搗いていた。
「そこつきゃー へーそーだー」のモチ搗き唄。
杵で力強く搗いた。
今でも文句は覚えているが急には思い出せないとU氏子総代は言った。
場所は公民館に替わったが合同のモチ搗きは今でもしているそうだ。
夕方5時には個々の家では提灯を立てる。
「東地区は酒をよー飲んでた」と話す総代たち。
飲み過ぎてこってつけに杵に付くぐらいモチはトロトロになった。
そのモチはテーバイと呼ばれるキナコモチにしたそうだ。
(H22.10.12 EOS40D撮影)
新庄町はもう一つの神社がある。それは鉾立神社である。
場所はといえば東の外れ。出屋敷だったという地区は8軒ほど。
ここでは集まりやすい第二日曜日に変更された。
お渡りなど秋祭りは既に終えていた。
一方、素盞嗚神社では昨日の宵宮と同様に二日間に亘ってお渡りをしている。
地区は西と東。それぞれにトーヤ制度がある。
トーヤを充てる漢字は当舎だそうだ。
県内ではヤを充てる字は屋や家が多くあるが舎は聞くことがない。
それはともかく当舎(本当舎とも)は各地区とも2人だ。
白衣を身につけて登場する。
当舎はもう一人いる。
次の当舎を勤める人でミナライとも呼ばれているアトトーヤ(受け当舎とも)。
衣装は和装だ。氏神さんを司っているのは3人の氏子総代。
いずれも黒足袋を履いた和装姿だ。
お渡りは両地区の当舎家からぞろぞろ歩いて高く掲げた提灯の前に合流する。
その際、「トーニ(ジ)ン トーニ(ジ)ンワーイ」と唱和したら皆が「ワーイ」と言っていたのだが、恥ずかしくなったのかもう何年も発声したことがないと総代は話す。
鳥居前で厳粛にお祓いをしたあとは宮司を先頭に拝殿に向かって行く。
当舎の孫男子(当人と呼ぶ)は稲束と竹の御神酒入れを担いでいる。
三つの扇を組み合わせた御幣を持つのは当舎。
幣の色は紺と白。目立つ色彩である。
本殿の両脇に御幣と稲束、御神酒入れを立て掛けて神事が始まった。
末社へもお参りをするが宮司と手伝いだけだ。
竹筒からお神酒をカワラケに注ぎ参拝する。
当舎の家族が見守るなか粛々と神事は続けられる。
そのあとは拝殿に登って直会へと移った。
両地区は左右に別れて座る。
座席にアトトーヤが配るジャコと昆布。お神酒も注がれた。
しばらくはそれを肴にお酒が入る。
30分ほど過ぎた辺りでしょうか。当舎の前に座って「御幣下げいかがですか」と口上を述べる。
「はい けっこうでございます」と返答をもらったアトトーヤは御幣を持ちだして末社に参る。
その御幣を持ったまま再び拝殿にあがった。
なんと一人ずつ頭の上から御幣を振るのだ。
所作はいわゆる奉幣振り。
そしてもう一回の口上。
「げこう(下向)はいかがですか」と述べれば「はい けっこうでございます」と返答する。
これは下向と呼ばれる儀式であった。
これを所作するアトトーヤは一人。
お神酒を早く飲みきった方がその所作をするのが慣わしであったが、現在は右(南側)に座る地区となった。
この年は右に座るのが西地区、左は東地区だった。
翌年はその座る位置を入れ替え交互にあたるようにされた。
こうして酒飲みの競争をしなくてもいいようになったという。
祭りの前々日はヨバレの日だった。
当舎の家で氏子たちがご馳走をよばれるのだ。
伊勢音頭の囃子唄でモチを搗いていた。
「そこつきゃー へーそーだー」のモチ搗き唄。
杵で力強く搗いた。
今でも文句は覚えているが急には思い出せないとU氏子総代は言った。
場所は公民館に替わったが合同のモチ搗きは今でもしているそうだ。
夕方5時には個々の家では提灯を立てる。
「東地区は酒をよー飲んでた」と話す総代たち。
飲み過ぎてこってつけに杵に付くぐらいモチはトロトロになった。
そのモチはテーバイと呼ばれるキナコモチにしたそうだ。
(H22.10.12 EOS40D撮影)