祭りの前日は眠れないという子供たち。
その答えは山添村遅瀬の八柱神社境内に出現する。
神仏分離令により明治元年に八王寺神社から名称が替わった神社だ。
小袋を手にした子供たちは朝8時前から集まってきた。
今か今かと期待して待っている人はお祭りに参拝する人なのだ。
スーツ姿の数人の男性。鳥居に立てかけたサカキの葉をちぎって階段を登る。
賽銭を奉じて本殿に向かい手を合わせた。
くるりと向きを変えて境内を正面に立った。
おもむろに取り出した丸いモノ。
手にいっぱい入れて投げた。
それを待っていた子供たちは手中に収める。
境内に落ちた丸いモノも拾う。手の中は現金だ。
かつては1円、5円だったが物価に応じてだろうか10円、50円になった。
ときには500円玉もあったと子供がいう。
珍しい風習は、余りものの賽銭を撒くことから「銭まき」と呼ばれている。
銭まきは子供のための特別なものではなく大人も混じって参加できるのだ。
童心に還るのだろうか、実に楽しそうでゲットすれば満面の笑顔になる。
現代的な様そうに見えるが、実は古くから行われている。
宝永五年(1708)に記された「当村神事勤頭覚え」の「当屋渡しの古文書に書いてあるというから300年も前から続けられているのだ。
次から次へと訪れる参拝者はしきたりであろうか必ず銭を撒く。
小さな男児はその収穫具合を見せてくれた。
祭りはそれから1時間後に始まった。
公民館会場から登場したのは村の神主さん。
修祓の議、祝詞奏上など賑々しく行われる。
そして登場したのは当家の四人。
村当家祭の主役になる男性たちだ。
このときに雨乞い踊りに使っていたとされる大太鼓を打ち鳴らす。
この年の9月半ばまでに生まれた男児が四人揃って行うのが本来の当家祭。
生まれた男児は母親が背たろうて当家の家からお渡りをする。
現在は公民館からのお渡りになっているものの村への披露だと思われる作法だ。
ところが誕生がなければが当家祭は村当家(ムラドーと呼ぶ)の営みで、仮の姿となって祭礼を行う。
昨年は丁度4人が揃ったが当分は生まれないだろうと話す当家は御幣を先頭に雄蝶・雌蝶、洗米、桶に入れた五つのマジャラクを抱えて神社に参拝する。
マジャラクとは何であろうか。
特殊な形態をしているマジャラク。
数本のズイキの台に竹串で挿してある色とりどりの季節もの。
ザクロ、カキ、クリ、ナシ、トコロイモ、ユズ、ジネンジョの七品だ。
台は三本の足で固定。
ズイキは藁で括っている。
人身御供だともいう。
かつてはこれを49個も作って大きな板に載せて供えていた。
前日はこの材料を揃えておく当家衆。
それだけの数を揃えるだけでもたいへんだったと話す。
行事は改訂されて五つになった。
マジャラクの形にするのは早朝から手伝ってきた与力たち。
公民館で組み立てるものだから当家の記録写真には写っていないのだと話す役員たち。
与力は二手。それぞれ四人。
1与力は祭典の進行采配や酒の澗、汁ものの世話とか外回りにあたる。
2与力は座席にお神酒を注いだり、膳などを配る役目。
若い人5、6人を雇って役目を担うが昔は青年団、現在は7組の班長がそれにあたる。
かつてはタスキをして酌していたそうだ。
参拝を終えた当家衆も銭撒きをする。
最後の銭を手にした村人たちはお下がりのお神酒とジャコを口にして家に戻っていった。
公民館での座はそれから始まる。
一段高い上座には当家衆が席に着く。
そこは地蔵寺内だ。
広間座敷の中央上座は村の神主でその横は長老が座る。
周りは持参した風呂敷包みを広げたスーツ姿(かつては和装だった)の男性たちが座った。
風呂敷の中は家膳や椀、箸などだ。
式典は1.講儀、2.御神酒、3.雑魚、4.講儀、5.温酒、6.講儀、7.謡いである。
講儀とはいったい何であろうか。
当家の一人が席を立って下座に座った。
会場のみなさんに向かって式典始めの挨拶をした。
「例年通り 御神酒を差し上げます。」と述べた。講儀は口上であった。
その発声があって与力は動き出した。
イワシ2匹を乗せた膳をもって酌人が上座より配していく。
その膳は膳先と呼ばれるもので見せるだけだ。
酌を終えて半紙を席前に置く。
そこには2匹のイワシとジャコが置かれる。
皮を剥いたサトイモも配った。
子だくさんの意味があるという。
昔は丸箸で摘んでいた。
サトイモはツルっとするので難しかったと話す。
後ほどに食するみそ汁の具も配った。
それは削りカツオとユウの皮。
ユウは柚のことである。
そして2回目の講儀。
「いずれもおちはございませんか。澗を入れましたので成る方はお召し上がりください。」と口上を述べた。
いずれも当家の代表者があたる。
赤ん坊が居る場合は最初に誕生した家がその代表になるのだ。
温澗の酒をよばれて配膳されたパック詰め料理を口にする。
座敷の男性は家長たち。
こうして式典は酒宴の場になっていった。
「だいぶ飲ましたってくれよー」と当家から掛け声が入る。これは指示でもある。
「この献で預かりとうございますので成る方は十分お召し上がりください」と3度目の講儀が行われた。
それからは冷酒に換わった。
カマス2匹の膳先に雄蝶、雌蝶で冷酒を配する。
しばらくすると謡い方が下座中央に座って謡を唄った。
曲目は高砂だ。
そのころに当家が退席して汁ものが配られた。
役員はマジャラクの桶を席に持っていって一人1本ずつ手にする。
マジャラクの分配である。
これらは長老の指示で動く。
家長たちは自分の膳を風呂敷に包んで戻っていた。
散会して残った役員たち。
祭典の方付けをしてからようやく氏子総代、区長接待の慰労会になった。
当家の文書箱と秤がある。
秤はかつて行われていたキョウ(饗)を計る道具だそうだ。
これは当家が持ってきたものだが現在は使われていない。
大切な道具であるがゆえ持ってきたが退席とともに戻っていった。
(H22.10.10 EOS40D撮影)
その答えは山添村遅瀬の八柱神社境内に出現する。
神仏分離令により明治元年に八王寺神社から名称が替わった神社だ。
小袋を手にした子供たちは朝8時前から集まってきた。
今か今かと期待して待っている人はお祭りに参拝する人なのだ。
スーツ姿の数人の男性。鳥居に立てかけたサカキの葉をちぎって階段を登る。
賽銭を奉じて本殿に向かい手を合わせた。
くるりと向きを変えて境内を正面に立った。
おもむろに取り出した丸いモノ。
手にいっぱい入れて投げた。
それを待っていた子供たちは手中に収める。
境内に落ちた丸いモノも拾う。手の中は現金だ。
かつては1円、5円だったが物価に応じてだろうか10円、50円になった。
ときには500円玉もあったと子供がいう。
珍しい風習は、余りものの賽銭を撒くことから「銭まき」と呼ばれている。
銭まきは子供のための特別なものではなく大人も混じって参加できるのだ。
童心に還るのだろうか、実に楽しそうでゲットすれば満面の笑顔になる。
現代的な様そうに見えるが、実は古くから行われている。
宝永五年(1708)に記された「当村神事勤頭覚え」の「当屋渡しの古文書に書いてあるというから300年も前から続けられているのだ。
次から次へと訪れる参拝者はしきたりであろうか必ず銭を撒く。
小さな男児はその収穫具合を見せてくれた。
祭りはそれから1時間後に始まった。
公民館会場から登場したのは村の神主さん。
修祓の議、祝詞奏上など賑々しく行われる。
そして登場したのは当家の四人。
村当家祭の主役になる男性たちだ。
このときに雨乞い踊りに使っていたとされる大太鼓を打ち鳴らす。
この年の9月半ばまでに生まれた男児が四人揃って行うのが本来の当家祭。
生まれた男児は母親が背たろうて当家の家からお渡りをする。
現在は公民館からのお渡りになっているものの村への披露だと思われる作法だ。
ところが誕生がなければが当家祭は村当家(ムラドーと呼ぶ)の営みで、仮の姿となって祭礼を行う。
昨年は丁度4人が揃ったが当分は生まれないだろうと話す当家は御幣を先頭に雄蝶・雌蝶、洗米、桶に入れた五つのマジャラクを抱えて神社に参拝する。
マジャラクとは何であろうか。
特殊な形態をしているマジャラク。
数本のズイキの台に竹串で挿してある色とりどりの季節もの。
ザクロ、カキ、クリ、ナシ、トコロイモ、ユズ、ジネンジョの七品だ。
台は三本の足で固定。
ズイキは藁で括っている。
人身御供だともいう。
かつてはこれを49個も作って大きな板に載せて供えていた。
前日はこの材料を揃えておく当家衆。
それだけの数を揃えるだけでもたいへんだったと話す。
行事は改訂されて五つになった。
マジャラクの形にするのは早朝から手伝ってきた与力たち。
公民館で組み立てるものだから当家の記録写真には写っていないのだと話す役員たち。
与力は二手。それぞれ四人。
1与力は祭典の進行采配や酒の澗、汁ものの世話とか外回りにあたる。
2与力は座席にお神酒を注いだり、膳などを配る役目。
若い人5、6人を雇って役目を担うが昔は青年団、現在は7組の班長がそれにあたる。
かつてはタスキをして酌していたそうだ。
参拝を終えた当家衆も銭撒きをする。
最後の銭を手にした村人たちはお下がりのお神酒とジャコを口にして家に戻っていった。
公民館での座はそれから始まる。
一段高い上座には当家衆が席に着く。
そこは地蔵寺内だ。
広間座敷の中央上座は村の神主でその横は長老が座る。
周りは持参した風呂敷包みを広げたスーツ姿(かつては和装だった)の男性たちが座った。
風呂敷の中は家膳や椀、箸などだ。
式典は1.講儀、2.御神酒、3.雑魚、4.講儀、5.温酒、6.講儀、7.謡いである。
講儀とはいったい何であろうか。
当家の一人が席を立って下座に座った。
会場のみなさんに向かって式典始めの挨拶をした。
「例年通り 御神酒を差し上げます。」と述べた。講儀は口上であった。
その発声があって与力は動き出した。
イワシ2匹を乗せた膳をもって酌人が上座より配していく。
その膳は膳先と呼ばれるもので見せるだけだ。
酌を終えて半紙を席前に置く。
そこには2匹のイワシとジャコが置かれる。
皮を剥いたサトイモも配った。
子だくさんの意味があるという。
昔は丸箸で摘んでいた。
サトイモはツルっとするので難しかったと話す。
後ほどに食するみそ汁の具も配った。
それは削りカツオとユウの皮。
ユウは柚のことである。
そして2回目の講儀。
「いずれもおちはございませんか。澗を入れましたので成る方はお召し上がりください。」と口上を述べた。
いずれも当家の代表者があたる。
赤ん坊が居る場合は最初に誕生した家がその代表になるのだ。
温澗の酒をよばれて配膳されたパック詰め料理を口にする。
座敷の男性は家長たち。
こうして式典は酒宴の場になっていった。
「だいぶ飲ましたってくれよー」と当家から掛け声が入る。これは指示でもある。
「この献で預かりとうございますので成る方は十分お召し上がりください」と3度目の講儀が行われた。
それからは冷酒に換わった。
カマス2匹の膳先に雄蝶、雌蝶で冷酒を配する。
しばらくすると謡い方が下座中央に座って謡を唄った。
曲目は高砂だ。
そのころに当家が退席して汁ものが配られた。
役員はマジャラクの桶を席に持っていって一人1本ずつ手にする。
マジャラクの分配である。
これらは長老の指示で動く。
家長たちは自分の膳を風呂敷に包んで戻っていた。
散会して残った役員たち。
祭典の方付けをしてからようやく氏子総代、区長接待の慰労会になった。
当家の文書箱と秤がある。
秤はかつて行われていたキョウ(饗)を計る道具だそうだ。
これは当家が持ってきたものだが現在は使われていない。
大切な道具であるがゆえ持ってきたが退席とともに戻っていった。
(H22.10.10 EOS40D撮影)