境内に18個の提灯をぶら下げた神楽提灯と太鼓台を置いて秋祭りが始まった小南神社秋の例祭。
神楽提灯は担いだこともないと氏子総代の六人衆は話す。
太鼓台は昭和30年代にはふとん太鼓として活躍した名残の土台だ。
青年団が寄進されたとする幕が張られている。
神社から小南町の集落を練り歩いたそうだ。
そのときに使った8mほどの長さのオーコは拝殿に吊されている。
今では語り草になっているようだ。
神楽提灯は「村中」と書かれ巴の紋が描かれている。
あまり見かけない形式だと宮司が話す。
六人衆は平成元年に解体した宮座の六人衆と同じ人数。
同神社は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮。
当時の宮座は古座(こざ)に北座の八幡座と新座は南座の天王座の二つの座で組織されていた。
座の人たちは特に北側とか南側とか集落の中で分けているわけではないが、両座とも一老、二老、三老の三人だった。
六人。それは終身制だった。
現在の六人衆は年齢順で構成されている。
六老から入って一老まで、一年ずつ繰り上がり、6年間は神社を守り勤める。
その6年間中に服忌になれば一年間は勤めない。
年忌が過ぎれば復帰する。
その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。
そのようなことで服忌があった人は5年。
繰上げれば7年間となるのだ。
六人衆と自治会役員らが拝殿に座った。
宮司は静かに神事を始めていった。
修祓、両神社の開扉、祝詞奏上に続いて巫女によるお神楽が舞う。
不可思議な言葉を唱える巫女。
そのあとは剣や鈴を持って神楽を舞う。
拝殿からそれを見る六人衆と役員たち。
厳かな空間がそこにある。
その間の拝観者は少ない。
宮座組織が解体されてからは随分と減っていったという。
かつては和服に身を固めた座衆。
当時かどうかは定かでないが羽織袴姿でお渡りをしていた姿が奉納された絵馬に描かれている。
この絵馬は宮司の先代。父親の作品であるという。
当時は相当賑わったようだ。
あまりにも大勢だった参拝者。「わしらが子供のときは境内に筵を敷いて持参した弁当を食べていたが・・・」と回想され、「誰も来よらへん」と呟かれた。
時代は不明だが神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。
ここらへん一帯は富雄川が氾濫して神社が高地などに遷った処が多いという。
隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。
井堰があって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。
それは今でも流れているという。
小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。
元の地の小山田と南浦から来たので、合わせてその名を小南と名付けたそうだ。
東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたのだと話す。

祭典や直会を終えた2時間半後のことだ。
地区の役員女性らがやってきた。
これから「火とぼし」を始めるのだという。
風は少しきつめ。六人衆によってローソクが点された本殿廻りの提灯。
そこから火をもらっていく。
風が直接当たらないように工夫された器。
そこに点されたオヒカリ。境内や参道の提灯にローソクを点す。
そこからは集落に設置されたご神燈にも点していく。

その先は集落の南の入り口。
その地はババニシとババヒガシ。
漢字で充てれば馬場西と東になる馬繋ぎの地だったそうだ。
片桐の殿さんの馬を繋いだのであろうか。隣町の豊浦では殿さんがやってきたと住民が話していたことを思い出す。
この「火とぼし」の作業。宮司が言うには神さんが通る道しるべだと・・・。

拝殿で語らいながら参拝者を待つ六人衆。
ローソクの火が消えるまでこうしているのだという。
昨夜に湯立神事をされた宵宮もそうしたが本祭の後は片付けなくてはならない。
真っ暗ななかで提灯や太鼓台座を片づけるには電灯が居る。それは蛍光灯だ。
オヒカリに替わって神社を照らす。
同町ではかつて神社から集落の家まで砂を敷いていた。
年末の31日の夕刻にしていたそうだ。
それは「神さんの通る道」で「しょうがっつぁんの通る道」とも呼んでいた。
新池や富雄川の川砂をモッコで担いで運んだ。
それを各家が数珠繋ぎのように砂を敷いていったそうだ。
昭和時代の後半には、奈良市の砂茶屋に西部生涯スポーツセンターができてからは砂が少なくなった。
そのころから自然としなくなっていったという。
(H22.10. 6 EOS40D撮影)
神楽提灯は担いだこともないと氏子総代の六人衆は話す。
太鼓台は昭和30年代にはふとん太鼓として活躍した名残の土台だ。
青年団が寄進されたとする幕が張られている。
神社から小南町の集落を練り歩いたそうだ。
そのときに使った8mほどの長さのオーコは拝殿に吊されている。
今では語り草になっているようだ。
神楽提灯は「村中」と書かれ巴の紋が描かれている。
あまり見かけない形式だと宮司が話す。
六人衆は平成元年に解体した宮座の六人衆と同じ人数。
同神社は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮。
当時の宮座は古座(こざ)に北座の八幡座と新座は南座の天王座の二つの座で組織されていた。
座の人たちは特に北側とか南側とか集落の中で分けているわけではないが、両座とも一老、二老、三老の三人だった。
六人。それは終身制だった。
現在の六人衆は年齢順で構成されている。
六老から入って一老まで、一年ずつ繰り上がり、6年間は神社を守り勤める。
その6年間中に服忌になれば一年間は勤めない。
年忌が過ぎれば復帰する。
その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。
そのようなことで服忌があった人は5年。
繰上げれば7年間となるのだ。
六人衆と自治会役員らが拝殿に座った。
宮司は静かに神事を始めていった。
修祓、両神社の開扉、祝詞奏上に続いて巫女によるお神楽が舞う。
不可思議な言葉を唱える巫女。
そのあとは剣や鈴を持って神楽を舞う。
拝殿からそれを見る六人衆と役員たち。
厳かな空間がそこにある。
その間の拝観者は少ない。
宮座組織が解体されてからは随分と減っていったという。
かつては和服に身を固めた座衆。
当時かどうかは定かでないが羽織袴姿でお渡りをしていた姿が奉納された絵馬に描かれている。
この絵馬は宮司の先代。父親の作品であるという。
当時は相当賑わったようだ。
あまりにも大勢だった参拝者。「わしらが子供のときは境内に筵を敷いて持参した弁当を食べていたが・・・」と回想され、「誰も来よらへん」と呟かれた。
時代は不明だが神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。
ここらへん一帯は富雄川が氾濫して神社が高地などに遷った処が多いという。
隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。
井堰があって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。
それは今でも流れているという。
小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。
元の地の小山田と南浦から来たので、合わせてその名を小南と名付けたそうだ。
東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたのだと話す。

祭典や直会を終えた2時間半後のことだ。
地区の役員女性らがやってきた。
これから「火とぼし」を始めるのだという。
風は少しきつめ。六人衆によってローソクが点された本殿廻りの提灯。
そこから火をもらっていく。
風が直接当たらないように工夫された器。
そこに点されたオヒカリ。境内や参道の提灯にローソクを点す。
そこからは集落に設置されたご神燈にも点していく。

その先は集落の南の入り口。
その地はババニシとババヒガシ。
漢字で充てれば馬場西と東になる馬繋ぎの地だったそうだ。
片桐の殿さんの馬を繋いだのであろうか。隣町の豊浦では殿さんがやってきたと住民が話していたことを思い出す。
この「火とぼし」の作業。宮司が言うには神さんが通る道しるべだと・・・。

拝殿で語らいながら参拝者を待つ六人衆。
ローソクの火が消えるまでこうしているのだという。
昨夜に湯立神事をされた宵宮もそうしたが本祭の後は片付けなくてはならない。
真っ暗ななかで提灯や太鼓台座を片づけるには電灯が居る。それは蛍光灯だ。
オヒカリに替わって神社を照らす。
同町ではかつて神社から集落の家まで砂を敷いていた。
年末の31日の夕刻にしていたそうだ。
それは「神さんの通る道」で「しょうがっつぁんの通る道」とも呼んでいた。
新池や富雄川の川砂をモッコで担いで運んだ。
それを各家が数珠繋ぎのように砂を敷いていったそうだ。
昭和時代の後半には、奈良市の砂茶屋に西部生涯スポーツセンターができてからは砂が少なくなった。
そのころから自然としなくなっていったという。
(H22.10. 6 EOS40D撮影)