江戸時代に流行った疫病。
その身代わりとして人形を立てた説、或いは中世に「見立山武士」と呼ばれた土豪細井戸氏が元禄年間に名残を惜しんで武者人形を立てたとか。
諸説がある広陵町三吉(みつよし)の立山祭は8月の地蔵盆の主役になる。
奈良県内でこのような人形などで造り山(立山)を立てるのは、橿原市八木町の愛宕祭、御所市東名柄の天神祭りが知られている。
造り山はかつて県内で広くあったとされる。
40数年前の大和郡山市横田町では納屋5軒ほどを開放して、青年団がムギワラで人形を作ってその年の世相を表現していた。
それより以前には天理市櫟本の和爾下神社の祇園祭でもあったそうだ。
商工会や青年団が造っていたという立山は鳥居から西へ続く街道筋で見せていたそうだ。
山添村の箕輪(みのわ)でも山ツクリがあった。
仏教行事のあとに会食。
酔いも手伝った頃に素人即興劇や寸劇などの俄か芸能が高まり、それが発展して山ツクリがされたそうだ。
人形は顔、手、腕、足、などは菊人形のように。
土や石膏で固めた身体に色を塗ったり化粧を施したが衣装は本物を持ち寄って飾ったようだ。
照明もガス灯からネオンサインの電飾、ゼンマイ式で動く人形までもと変化した。
それは戦時中に途絶えて昭和22年に復活したが再び途絶えた。
平成3年に学習の一環として掘り起こされたがまたもや消滅してしまった。
そのようなこともなく広陵町三吉では現在も続けられてきた立山祭は「大垣内の立山祭」として平成8年に町文化財に指定されており、専光寺と呼ばれている地蔵堂を中心に地区全域に亘って地蔵盆のお祭りがされている。
造りものの立山は公民館、新築や婚礼のあった家が会場となる。
提供するお家にとっては目出度いお披露目の場であり、各家の家紋が入った幕が掲げられている。
その会場は毎年入れ替るし、立山人形も替る。
制作にあたっているのは平成22年に結成された保存会の人たち。
以前は青年団が工夫を凝らして作っていた。
話題性をとりあげ、その年に有名になった出来事や人物をおもしろおかしく表現する。
この年は広陵町のシンボルでもあるかぐや姫、NHK大河ドラマの“お江”、隣町の橿原市新口で名高い梅川忠兵衛の“冥途の飛脚”に、全世界にテレビ放映された英国ロイヤルウエディングに全線開通した九州新幹線までも披露された。
特に興味を惹かれたのは“雨乞い太郎”だった。
奈良県内では雨乞いをしてきた地域事例が数多くある。
今ではその姿を見ることができないが、江戸時代の雨乞い絵馬が残されているところがある。
その当時の様相を表す川西町糸井神社の太鼓踊り(有形文化財)、高取町小島神社の雨乞いなもで踊りや飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の雨乞いまでも。
伝承によれば耳成山口神社(火振り坂)の雨乞い願満絵馬があったそうだ。
絵馬ではないが春日大社には雨乞い奉納した万燈籠もある。
それらは現代に繋ぐ貴重な有形の記録でもある。
雨乞いには祈願、満願などで踊れる行事が県内で見られる。
それは定例的な年中行事ではなく、雨は降らず旱が続き、田畑がはいてこのままじゃ農作が大打撃を受けるというときに太鼓などを叩いて踊られるもので何十年に一度のときだった。
それだけに拝見することは甚だ難しい。
数年間も時が経っていれば踊りも忘れてしまう。
村落にとって踊りを継承していくことは、計り知れない努力がいるのである。
南無天と書かれるなもで踊り。
南無は念仏。雨が降ってくれと天に通じるよう祈る踊りだ。
県無形民俗文化財に指定されている太鼓踊りに吉野町国栖の太鼓踊り、下市町丹生の太古(鼓)踊り、奈良市大柳生の太鼓踊りがある。
指定はされていないものでは奈良市都祁吐山の太鼓踊り、川上村東川の古典太鼓踊り、奈良市月ヶ瀬石打の太鼓踊り、宇陀市室生区大野のいさめ踊りが知られている。
また、雨乞いの踊りには復元された大和神社の紅しで踊り(願満成就)、同じく安堵町飽波神社のなもで踊り(願満成就)がある。
奈良市中山町の龍王神社ではかつて龍王さんのナムデ踊があった。
王寺町明神山頂の雨乞いなむで踊り、平群町平等寺春日神社のなもで踊り、奈良市池田町の勇み踊、雨乞い太鼓踊りもそうだがそれらは随分前に途絶えた。
室生向渕では雨乞いで登った山(堀越神社)がある。
40年ほど前、松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。
囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。
少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。
いずれにしても龍神信仰があったと思われる向渕だ。
室生下笠間では「あめたんもれ」と囃して山に登ったと長老が話していた。
御杖村村史によれば神末では雨が降らなければ雨乞いのダケノボリをしていた。
三畝山の山の口にある滝壺に木を切って放り込み流れたら雨が降る伝承がある。
般若心経を唱えてタイマツに火を点けて帰ったようだ。
桃股ではアナノオサンと呼ばれる岩穴に参ったようだ。
ここでもタイマツに火を点けて帰った。
菅野ではダケサンだった。
曽爾村史によればここでも雨乞いがあったようだ。
葛では始めにお寺や庚申さんに願を掛けて般若心経を唱えた。
それでも降らないときはダケノボリ(ヤマノボリ)をした。
オダケサンとも呼ばれている鎧岳峯だ。
さらに室生の龍穴神社に参ったそうだ。
ダケノボリは大字ごとで一番高い山に登った。
それは「ヒアゲ」とも呼んでいた。
塩井ではタイマツを作って古光山に登る。
頂上には「アメノミヤハン」の祠がある。
そこで般若心経を唱える。
タイマツに火を点け、太鼓を叩いて「アメタモレ タモレ タモレ フネノミズガカワイタゾ」を唱えながら下っていった。
途中にある不動の滝の滝壺にタイマツを投げ入れた。
山粕では穴野山だった。
そこには穴野神社があった。
掛では八辻峠、長野は屏風岩、今井は甲岳の奥にある歳城峯。
太良路は亀山。
伊賀見は甲岩とあり岳山信仰と雨乞いが結びついている。
葛城の二上山もそうであった。
干ばつのときの雨乞いには「嶽の権現さん」とも呼ばれていた二上山に登った。
提灯と幟を持って雨を貰いに登った。
「岳の権現さんは幟がお好き。幟もってこい雨ふらす」と盆踊り唄で歌われたとある。
それは昭和20年代まで行われていたそうだ。
さて、地蔵盆の立山祭で描き出された雨乞いといえば「雨乞い太郎さん」である。
かつて「雨ください 太郎さん 池の水もカンカラカン (囃子 アメクダサイタロウサン) 稲田の田んぼが焼けた (囃子 アメクダサイタロウサン) スイカもマッカもみな焼けた」という台詞で雨乞いの唄を歌って祈願していた。
地蔵堂にあった木彫りの仏像こと「太郎さん」をヒデリのときに持ち出して、今は真美が丘になった田んぼに担ぎ出した。
そして宮さんの向こうのセンガリ(千刈)池に放り込んで(はめて)浸け、ドボンと沈めた。
「稲穂は立つが、実らないときや。それがヒデリ。」だと78歳のY氏は話す。
その頃の雨乞い様相を伝える手作り人形たち。
65歳のY氏ほか保存会の人たちが昨年の10月から作りだしたという精巧なものだ。
先頭を歩くのが羽織姿の長老。
両脇には火を付けたタイマツと提灯持ちが見られる。
木を組んで布団を乗せた台を担ぐ男たち。
昭和35年代のことだという。
その上に置かれた木の仏像が判るだろうか。
その原形は専光寺と呼ばれている地蔵堂に納められている。
この夜に展示された「雨乞い太郎さん」は町内の図書館で再展示されたあとは焼却するという。
人形で再現したとはいえ、珍しい行事だけにとても残念だと思った。
(H23. 8.24 EOS40D撮影)
その身代わりとして人形を立てた説、或いは中世に「見立山武士」と呼ばれた土豪細井戸氏が元禄年間に名残を惜しんで武者人形を立てたとか。
諸説がある広陵町三吉(みつよし)の立山祭は8月の地蔵盆の主役になる。
奈良県内でこのような人形などで造り山(立山)を立てるのは、橿原市八木町の愛宕祭、御所市東名柄の天神祭りが知られている。
造り山はかつて県内で広くあったとされる。
40数年前の大和郡山市横田町では納屋5軒ほどを開放して、青年団がムギワラで人形を作ってその年の世相を表現していた。
それより以前には天理市櫟本の和爾下神社の祇園祭でもあったそうだ。
商工会や青年団が造っていたという立山は鳥居から西へ続く街道筋で見せていたそうだ。
山添村の箕輪(みのわ)でも山ツクリがあった。
仏教行事のあとに会食。
酔いも手伝った頃に素人即興劇や寸劇などの俄か芸能が高まり、それが発展して山ツクリがされたそうだ。
人形は顔、手、腕、足、などは菊人形のように。
土や石膏で固めた身体に色を塗ったり化粧を施したが衣装は本物を持ち寄って飾ったようだ。
照明もガス灯からネオンサインの電飾、ゼンマイ式で動く人形までもと変化した。
それは戦時中に途絶えて昭和22年に復活したが再び途絶えた。
平成3年に学習の一環として掘り起こされたがまたもや消滅してしまった。
そのようなこともなく広陵町三吉では現在も続けられてきた立山祭は「大垣内の立山祭」として平成8年に町文化財に指定されており、専光寺と呼ばれている地蔵堂を中心に地区全域に亘って地蔵盆のお祭りがされている。
造りものの立山は公民館、新築や婚礼のあった家が会場となる。
提供するお家にとっては目出度いお披露目の場であり、各家の家紋が入った幕が掲げられている。
その会場は毎年入れ替るし、立山人形も替る。
制作にあたっているのは平成22年に結成された保存会の人たち。
以前は青年団が工夫を凝らして作っていた。
話題性をとりあげ、その年に有名になった出来事や人物をおもしろおかしく表現する。
この年は広陵町のシンボルでもあるかぐや姫、NHK大河ドラマの“お江”、隣町の橿原市新口で名高い梅川忠兵衛の“冥途の飛脚”に、全世界にテレビ放映された英国ロイヤルウエディングに全線開通した九州新幹線までも披露された。
特に興味を惹かれたのは“雨乞い太郎”だった。
奈良県内では雨乞いをしてきた地域事例が数多くある。
今ではその姿を見ることができないが、江戸時代の雨乞い絵馬が残されているところがある。
その当時の様相を表す川西町糸井神社の太鼓踊り(有形文化財)、高取町小島神社の雨乞いなもで踊りや飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の雨乞いまでも。
伝承によれば耳成山口神社(火振り坂)の雨乞い願満絵馬があったそうだ。
絵馬ではないが春日大社には雨乞い奉納した万燈籠もある。
それらは現代に繋ぐ貴重な有形の記録でもある。
雨乞いには祈願、満願などで踊れる行事が県内で見られる。
それは定例的な年中行事ではなく、雨は降らず旱が続き、田畑がはいてこのままじゃ農作が大打撃を受けるというときに太鼓などを叩いて踊られるもので何十年に一度のときだった。
それだけに拝見することは甚だ難しい。
数年間も時が経っていれば踊りも忘れてしまう。
村落にとって踊りを継承していくことは、計り知れない努力がいるのである。
南無天と書かれるなもで踊り。
南無は念仏。雨が降ってくれと天に通じるよう祈る踊りだ。
県無形民俗文化財に指定されている太鼓踊りに吉野町国栖の太鼓踊り、下市町丹生の太古(鼓)踊り、奈良市大柳生の太鼓踊りがある。
指定はされていないものでは奈良市都祁吐山の太鼓踊り、川上村東川の古典太鼓踊り、奈良市月ヶ瀬石打の太鼓踊り、宇陀市室生区大野のいさめ踊りが知られている。
また、雨乞いの踊りには復元された大和神社の紅しで踊り(願満成就)、同じく安堵町飽波神社のなもで踊り(願満成就)がある。
奈良市中山町の龍王神社ではかつて龍王さんのナムデ踊があった。
王寺町明神山頂の雨乞いなむで踊り、平群町平等寺春日神社のなもで踊り、奈良市池田町の勇み踊、雨乞い太鼓踊りもそうだがそれらは随分前に途絶えた。
室生向渕では雨乞いで登った山(堀越神社)がある。
40年ほど前、松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。
囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。
少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。
いずれにしても龍神信仰があったと思われる向渕だ。
室生下笠間では「あめたんもれ」と囃して山に登ったと長老が話していた。
御杖村村史によれば神末では雨が降らなければ雨乞いのダケノボリをしていた。
三畝山の山の口にある滝壺に木を切って放り込み流れたら雨が降る伝承がある。
般若心経を唱えてタイマツに火を点けて帰ったようだ。
桃股ではアナノオサンと呼ばれる岩穴に参ったようだ。
ここでもタイマツに火を点けて帰った。
菅野ではダケサンだった。
曽爾村史によればここでも雨乞いがあったようだ。
葛では始めにお寺や庚申さんに願を掛けて般若心経を唱えた。
それでも降らないときはダケノボリ(ヤマノボリ)をした。
オダケサンとも呼ばれている鎧岳峯だ。
さらに室生の龍穴神社に参ったそうだ。
ダケノボリは大字ごとで一番高い山に登った。
それは「ヒアゲ」とも呼んでいた。
塩井ではタイマツを作って古光山に登る。
頂上には「アメノミヤハン」の祠がある。
そこで般若心経を唱える。
タイマツに火を点け、太鼓を叩いて「アメタモレ タモレ タモレ フネノミズガカワイタゾ」を唱えながら下っていった。
途中にある不動の滝の滝壺にタイマツを投げ入れた。
山粕では穴野山だった。
そこには穴野神社があった。
掛では八辻峠、長野は屏風岩、今井は甲岳の奥にある歳城峯。
太良路は亀山。
伊賀見は甲岩とあり岳山信仰と雨乞いが結びついている。
葛城の二上山もそうであった。
干ばつのときの雨乞いには「嶽の権現さん」とも呼ばれていた二上山に登った。
提灯と幟を持って雨を貰いに登った。
「岳の権現さんは幟がお好き。幟もってこい雨ふらす」と盆踊り唄で歌われたとある。
それは昭和20年代まで行われていたそうだ。
さて、地蔵盆の立山祭で描き出された雨乞いといえば「雨乞い太郎さん」である。
かつて「雨ください 太郎さん 池の水もカンカラカン (囃子 アメクダサイタロウサン) 稲田の田んぼが焼けた (囃子 アメクダサイタロウサン) スイカもマッカもみな焼けた」という台詞で雨乞いの唄を歌って祈願していた。
地蔵堂にあった木彫りの仏像こと「太郎さん」をヒデリのときに持ち出して、今は真美が丘になった田んぼに担ぎ出した。
そして宮さんの向こうのセンガリ(千刈)池に放り込んで(はめて)浸け、ドボンと沈めた。
「稲穂は立つが、実らないときや。それがヒデリ。」だと78歳のY氏は話す。
その頃の雨乞い様相を伝える手作り人形たち。
65歳のY氏ほか保存会の人たちが昨年の10月から作りだしたという精巧なものだ。
先頭を歩くのが羽織姿の長老。
両脇には火を付けたタイマツと提灯持ちが見られる。
木を組んで布団を乗せた台を担ぐ男たち。
昭和35年代のことだという。
その上に置かれた木の仏像が判るだろうか。
その原形は専光寺と呼ばれている地蔵堂に納められている。
この夜に展示された「雨乞い太郎さん」は町内の図書館で再展示されたあとは焼却するという。
人形で再現したとはいえ、珍しい行事だけにとても残念だと思った。
(H23. 8.24 EOS40D撮影)