夜8時、子供の念仏講が行われた浄福寺の山門前に集まってきた男性たち。
三つの組からなる念仏講の集団である。
子供の念仏講とは別に組織されている大人の念仏講の人たちだ。
かつては子供の念仏講と同じように7日から14まで毎日行われていたという。
H婦人の話によれば20年ぐらい前までは子供念仏と同じように7日から毎日していたと話すからそれぐらいまで続いていたのであろう。
毎夜するにはたいへんだと7日と中日と13日になった。
その中日がなくなり、いずれ13日も止められた。
一日、一日と削減されて7日だけになったという大人の念仏講は新仏の家(大人の念仏講の講家)に参って鉦を叩く。
お念仏はカセットテープから変換されたCDの音色。
当時、オンドサン(音頭さん)と呼ばれる導師だった長老が生前に残された生声のお念仏。
「なむあみだーぶつ、なむあみだー」の唱名に合わせて鉦を打つ。
チャ、チャ、チャンを繰り返す。
「ガーンニーシクーン」のお念仏の声が聞こえたらチャン、チャンの連打で終える。
それは願似批功徳(がんにしくどく)回向の念仏であろう。
講中のU氏の話によれば鉦を叩くのは「ナムアミダブツー ナンマイダー ナーアームーアッアーミダーブツー ナムアミダーブー」のお念仏に合わせて叩くのだという。
それを繰り返しているだけだから覚えるのは簡単。
子供のときから聞いていたので今でも身体に染みついていると笑顔で話す。
肩から太い紐で通された鉦を掛けた講中。
山門をくぐった寺墓の前で叩かれた。
そのあとは新仏の家に参って鉦を打つ。
念仏の曲名は判らないが「南無阿弥陀仏や」と答えた。
1軒ごとに1曲唱えて小休止。
それからお礼の1曲を唱えて次の家へ行く。
この年の新仏家は2軒だった。
白土町特有の形をみせる吊り燈籠が下げられた南の縁側。
その前庭で念仏を2回された。
お下がりをもらって次の新仏の家に向かう。
チャンガラカンとも呼ばれる大人の念仏講。
一つの組には文政五年十月の墨書が見られる念仏講中の木箱が保管されている。
中には念仏講中の記銘がある枡があったが薄い文字の墨書では年代を特定することができなかった。
文政十年十月吉日とある念仏講中文書には弥陀方観音堂念仏講中は二組とあり、当時は三組だったとされる名が記されている。
また、明治八年八月吉日とある念仏講中文書には念仏講総代と同講中総代の名も見られた。
最後に書かれていたのは弥陀方観音堂念仏講中世話人など講中の名前も同一人物。
それは文政十年の文書を書き記した写しのようだ。
その一部には弥陀方講中に加えて千束里とあるから当時から石川町と混じ合う千束地区も属していたようだ。
講中は新仏参りを済ませるとセセンボと呼ばれている墓地の前で勤めを終えた。
こうして新仏や先祖供養の念仏を終えた講中は一年間、鉦を預かるそれぞれの組家に向かって戻っていった。
鉦は来年になるまでその当番の家で大切に保管される。
なお、三つの組はそれぞれ8軒、10軒などでこの夜に営みをするのは半数の人たち。
毎年を担うわけなく一年おきに交替されている。
(H23. 8. 7 EOS40D撮影)
三つの組からなる念仏講の集団である。
子供の念仏講とは別に組織されている大人の念仏講の人たちだ。
かつては子供の念仏講と同じように7日から14まで毎日行われていたという。
H婦人の話によれば20年ぐらい前までは子供念仏と同じように7日から毎日していたと話すからそれぐらいまで続いていたのであろう。
毎夜するにはたいへんだと7日と中日と13日になった。
その中日がなくなり、いずれ13日も止められた。
一日、一日と削減されて7日だけになったという大人の念仏講は新仏の家(大人の念仏講の講家)に参って鉦を叩く。
お念仏はカセットテープから変換されたCDの音色。
当時、オンドサン(音頭さん)と呼ばれる導師だった長老が生前に残された生声のお念仏。
「なむあみだーぶつ、なむあみだー」の唱名に合わせて鉦を打つ。
チャ、チャ、チャンを繰り返す。
「ガーンニーシクーン」のお念仏の声が聞こえたらチャン、チャンの連打で終える。
それは願似批功徳(がんにしくどく)回向の念仏であろう。
講中のU氏の話によれば鉦を叩くのは「ナムアミダブツー ナンマイダー ナーアームーアッアーミダーブツー ナムアミダーブー」のお念仏に合わせて叩くのだという。
それを繰り返しているだけだから覚えるのは簡単。
子供のときから聞いていたので今でも身体に染みついていると笑顔で話す。
肩から太い紐で通された鉦を掛けた講中。
山門をくぐった寺墓の前で叩かれた。
そのあとは新仏の家に参って鉦を打つ。
念仏の曲名は判らないが「南無阿弥陀仏や」と答えた。
1軒ごとに1曲唱えて小休止。
それからお礼の1曲を唱えて次の家へ行く。
この年の新仏家は2軒だった。
白土町特有の形をみせる吊り燈籠が下げられた南の縁側。
その前庭で念仏を2回された。
お下がりをもらって次の新仏の家に向かう。
チャンガラカンとも呼ばれる大人の念仏講。
一つの組には文政五年十月の墨書が見られる念仏講中の木箱が保管されている。
中には念仏講中の記銘がある枡があったが薄い文字の墨書では年代を特定することができなかった。
文政十年十月吉日とある念仏講中文書には弥陀方観音堂念仏講中は二組とあり、当時は三組だったとされる名が記されている。
また、明治八年八月吉日とある念仏講中文書には念仏講総代と同講中総代の名も見られた。
最後に書かれていたのは弥陀方観音堂念仏講中世話人など講中の名前も同一人物。
それは文政十年の文書を書き記した写しのようだ。
その一部には弥陀方講中に加えて千束里とあるから当時から石川町と混じ合う千束地区も属していたようだ。
講中は新仏参りを済ませるとセセンボと呼ばれている墓地の前で勤めを終えた。
こうして新仏や先祖供養の念仏を終えた講中は一年間、鉦を預かるそれぞれの組家に向かって戻っていった。
鉦は来年になるまでその当番の家で大切に保管される。
なお、三つの組はそれぞれ8軒、10軒などでこの夜に営みをするのは半数の人たち。
毎年を担うわけなく一年おきに交替されている。
(H23. 8. 7 EOS40D撮影)