サシサバを食べる風習があると今春に聞いていた。
北野津越にある大橋の商店ではそれを買いにくる客があるといって80尾を注文しておいた店主。
サシサバは開き。
それを頭から頭を挿しこんで2尾を一対ものにしたのがサシサバ。
頭から挿しこむからそう呼んでいるサシサバはものすごく塩辛いようだ。
そんな話を聞いてどの地域にそのような風習が分布しているのだろうかと盆地部の大和郡山を中心に聞き取りを行った。
平均年齢が80歳を超える後期高齢者の婦人たち15人に聞いた結果では一様にその塩辛いサシサバを覚えていた。
覚えていたというのはそれが子供時代のことであって今からおよそ70年以上も前のこと。
サシサバは開きで背開き。
中はこげ茶色だった。

訛ってサッサバと呼ぶ人も少なくない。
それはドロイモの葉に載せたとか折りたたむように包んだという。
両親が揃っていたら2尾。
片親であれば1尾、或いはなし。
それは息子だけだとか、子供の人数分だけ膳に足された。
家族全員の皿に盛られた人もいた。
塩辛いので焼いてから水に浸けて塩抜きをした。
そのままでも食べられたが醤油や二杯酢に付けて食べた人も多い。
ほとんどの人は精進料理ばかりだった15日の盆を終えてから食べたようだ。
住んでいた地区にもよるがサシサバは行商から買ったとか、地区の店で売っていれば買ったと話す。
それら食べる文化が消えたのか、店がなくなったから消えたのか定かでないが戦前や戦後間もない頃まであったという。
当時の風習が確認できた地区は大和郡山市の長安寺町、伊豆七条町、白土町、額田部南・北町、小泉町北、横田町、八条町、天理市の南六条町、中町に桜井市の穴師だった。
ちなみに大和郡山市の田中町、天理市の櫟本、斑鳩町の車瀬や御所市野口の蛇穴ではなかったようだ。
ただ、サシサバは両親が揃っていないと食べることができないだけに、聞き取りの範囲内では断定できない。
各家の風習だけに実施地域の分布を調べるには相当数の聞き取り調査をしなければならないが、80歳以下である場合はその経験をしてなかったこともあり聞き取りは早急にしなくてはと思うが・・・。
そのような聞き取り結果であったが北野津越を訪ねた。
店主の話によれば昔はトビウオの開きでもあったそうだ。
サシサバと同じように塩辛い塩干もの。
両親が健在であるお家の風習は今でも続いているらしく40セット(2尾で)は残りが10セットになっていた。
聞いていたとおりのこげ茶のサシサバはどの家が買われていったのだろうか。
一軒、一軒辿って訪ねていくことは難しいが、隣村の桐山や的野にはそれがあって北に位置する奈良市の邑地町ではないという。
局地的な風習でもあるようだ。
ちなみに津越の店主はどこで仕入れたかといえば大和郡山市の中央卸売市場だった。
なんでも昔から商売をしているお店で和歌山が出身地の店員がいるという。
紀州で仕入れたサバはその人しか作ることができないサシサバだ。
奈良大和は海に面していない土地柄。
生ものの魚を手に入れるのはその流通にあるが運搬するには時間がかかる。
腐ってはならない魚も塩干ものになれば保存が可能。
夏の暑いときの食べ物だったと話す盆地部の年寄りたち。
当時は行商やそれを売り買いする店が相当数あったのだろう。
食文化は交通機関や道路の発達、冷凍冷蔵の機械化などと文化的に変化していった。
最近になってジャスコスーパーで見かけたという大和郡山の婦人もいる。
山添と郡山の食べ物文化交流が繋がったが食べる文化はいずれ消えていくことになるのだろうか。
生きている間にもう一度食べてみたいと話した高齢者の声が耳に残る。
(H23. 8.13 EOS40D撮影)
北野津越にある大橋の商店ではそれを買いにくる客があるといって80尾を注文しておいた店主。
サシサバは開き。
それを頭から頭を挿しこんで2尾を一対ものにしたのがサシサバ。
頭から挿しこむからそう呼んでいるサシサバはものすごく塩辛いようだ。
そんな話を聞いてどの地域にそのような風習が分布しているのだろうかと盆地部の大和郡山を中心に聞き取りを行った。
平均年齢が80歳を超える後期高齢者の婦人たち15人に聞いた結果では一様にその塩辛いサシサバを覚えていた。
覚えていたというのはそれが子供時代のことであって今からおよそ70年以上も前のこと。
サシサバは開きで背開き。
中はこげ茶色だった。

訛ってサッサバと呼ぶ人も少なくない。
それはドロイモの葉に載せたとか折りたたむように包んだという。
両親が揃っていたら2尾。
片親であれば1尾、或いはなし。
それは息子だけだとか、子供の人数分だけ膳に足された。
家族全員の皿に盛られた人もいた。
塩辛いので焼いてから水に浸けて塩抜きをした。
そのままでも食べられたが醤油や二杯酢に付けて食べた人も多い。
ほとんどの人は精進料理ばかりだった15日の盆を終えてから食べたようだ。
住んでいた地区にもよるがサシサバは行商から買ったとか、地区の店で売っていれば買ったと話す。
それら食べる文化が消えたのか、店がなくなったから消えたのか定かでないが戦前や戦後間もない頃まであったという。
当時の風習が確認できた地区は大和郡山市の長安寺町、伊豆七条町、白土町、額田部南・北町、小泉町北、横田町、八条町、天理市の南六条町、中町に桜井市の穴師だった。
ちなみに大和郡山市の田中町、天理市の櫟本、斑鳩町の車瀬や御所市野口の蛇穴ではなかったようだ。
ただ、サシサバは両親が揃っていないと食べることができないだけに、聞き取りの範囲内では断定できない。
各家の風習だけに実施地域の分布を調べるには相当数の聞き取り調査をしなければならないが、80歳以下である場合はその経験をしてなかったこともあり聞き取りは早急にしなくてはと思うが・・・。
そのような聞き取り結果であったが北野津越を訪ねた。
店主の話によれば昔はトビウオの開きでもあったそうだ。
サシサバと同じように塩辛い塩干もの。
両親が健在であるお家の風習は今でも続いているらしく40セット(2尾で)は残りが10セットになっていた。
聞いていたとおりのこげ茶のサシサバはどの家が買われていったのだろうか。
一軒、一軒辿って訪ねていくことは難しいが、隣村の桐山や的野にはそれがあって北に位置する奈良市の邑地町ではないという。
局地的な風習でもあるようだ。
ちなみに津越の店主はどこで仕入れたかといえば大和郡山市の中央卸売市場だった。
なんでも昔から商売をしているお店で和歌山が出身地の店員がいるという。
紀州で仕入れたサバはその人しか作ることができないサシサバだ。
奈良大和は海に面していない土地柄。
生ものの魚を手に入れるのはその流通にあるが運搬するには時間がかかる。
腐ってはならない魚も塩干ものになれば保存が可能。
夏の暑いときの食べ物だったと話す盆地部の年寄りたち。
当時は行商やそれを売り買いする店が相当数あったのだろう。
食文化は交通機関や道路の発達、冷凍冷蔵の機械化などと文化的に変化していった。
最近になってジャスコスーパーで見かけたという大和郡山の婦人もいる。
山添と郡山の食べ物文化交流が繋がったが食べる文化はいずれ消えていくことになるのだろうか。
生きている間にもう一度食べてみたいと話した高齢者の声が耳に残る。
(H23. 8.13 EOS40D撮影)