マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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額田部南板屋ケ瀬地蔵盆

2011年09月28日 06時45分24秒 | 大和郡山市へ
石仏地蔵尊の土台に「板屋瀬利 荒廃世過 人面棟地 佛像凌地 今澧樢境 新安索○ 永住三寶 確乎不桅 享保○○和妙寺・・・」の刻印が施されている大和郡山市額田部南の板屋ケ瀬地蔵さん。

かつて大和川の堤防の竹やぶにあった。

それは川から流れ着いたという。

その辺りは川に杭があって南に楠があった低い橋だった。

それは車が往来する板屋ケ瀬橋。

面影はみられないが紅橋とも呼ばれている。

子供のときにはその辺りに割り石が敷き詰められていた。

畳一畳ぐらいで流されないように柵で囲っていた。

そこは鮒が集まってくる絶好の魚場。

5、6個あって採っていたと話すKさん。

小泉の殿さんこと七本槍で名高い片桐さんの弟がこしらえた船着き場だったようだ。

地区24軒で守っている板屋ケ瀬地蔵さんは地区西にあったが今は板東公民館横。

建物の中に納められている。

毎月23日は月当番の人が地蔵さんに御膳を供えて花を飾っている。

地蔵盆は7月と8月の23日だったが、世話するのがたいへんやからと一昨年から8月だけにされた。



この日の夕方、建物の鍵を開けてアズキ入りの洗い米とシイタケ、トマト、キュウリ、ナシ、コーヤドーフなどの生御膳を供えた。

ローソクを灯して導師はその前に座って始められたお念仏は般若心経。

狭いお堂には入られないからその周りで手を合わせる地区の人たち。

静かに念仏が唱えられた。

板屋ケ瀬の石仏地蔵はいつしか額安寺に納められた。

それが享保七年(1722)に元にあった板屋に安置されたという。

以前はお堂に納めていた板書には「奉再建額安寺板屋瀬地蔵堂宇・・・云々 慶応四年(1868)五月上棟 ・・・・・・」と書かれている。

ここは額安寺の領地内であったそうだ。

(H23. 8.23 EOS40D撮影)