大和ではお盆の時期に鉦を叩いて町内を巡る念仏講の集団がある。
旧村にはそれぞれの地区であったそうだ。
無形民俗文化財に指定されている安堵町の大寶寺六斎講や奈良市八島の念仏鉦講が知られている。
大和郡山の井戸野町でもかつて存在していた。
それを証明する念仏鉦が残されており県立民俗博物館で「大和郡山の行事と企画展」で平鉦9枚が展示された。
それには寛文十二年(1672)の銘文が刻まれていた。
その展示会では平成22年に調査取材させていただいた隣村の白土町の念仏講も紹介された。
当地の念仏講には大きくわけて7日から14日にかけて毎日地区をかけ巡る子供の念仏講と、今では盆入りの7日の夜だけになったがかつては同じように毎日されていた大人の念仏講がある。
仏教が最初に入った奈良には鎮護国家安寧を祈る仏事の行事がある。
庶民に下りてきたのが念仏信仰で、難しい修行をしなくとも極楽浄土へいくという。
それらは融通念仏や謡う六斎念仏があり、15世紀ころに流行った。
祇園祭りはコンコンチキチ、コンチキチと鉦の縁と胴を打って鳴らし、鉦を楽器として使っている。
六斎念仏の鉦は縁を叩かず、T字型の撞木(しゅもく)で鉦の内面を叩くのが県内の念仏の特徴だ。
さて、子供の念仏講はその叩く鉦の音がそのように聞こえることからチャチャンコとも呼ばれている。
勤めるのは小学生6年生以下の男の子たちで、太鼓打ちが一人、もう一人は太鼓持ちで念仏鉦叩きが5人である。
少子化の波は白土町にも当てはまって、やはり子供は少ない。
校区では新入生徒が一人になったという。
子供が主役の行事を支えていくのはとても難しい時代になったことから講中の親戚筋から助っ人男児をお願いして続けられている。
先導をするのは音頭取りの太鼓打ち。
この音に合わせて鉦を打つ。
最初に右手の一本でドン、ドン、ドドド。
何度も何度も叩く。
それに合わせて鉦を打つ。
次に二本を持ってドコドコドン、ドコドコドンと連打。
それを繰り返す。
二本のバチで叩くリズムが正しくなければ「もういっかいや」と先輩に言われたと思い出話をされる経験者の父親たち。
母親も付き添ってはいくが太鼓や鉦を叩くのは子供たちだけだ。
昨年にオシメもとれた最年少の子供も鉦を叩いている。
始めに浄福寺の門下で行われる。
その次は本堂の前に移る。
経験者の父親が言うには最初にドンチャン、ドンチャン、チャチャチャのリズムで太鼓を叩く。
これを10回ぐらい繰り返す。
すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。
叩く音を言葉にするとこういうふうに聞こえるそうだ。
これを3回ほど繰り返す。
そして自転車に跨って地区の中心部にあたる辻に行った。
そこはかつて仲家の玄関先。
西に向かって太鼓と鉦を打つ。

次は北のフダワ(札場が訛った)の辻。
水路の橋の上だ。
東に向けて数回打ち鳴らした。
それから西のセセンボ(祖先墓が訛った)に向かった。
扉を開けて墓入り口で打ち鳴らして、そこから南へ走っていく。
ここも水路の橋の上。
その向こうには墓がある。
旧仲家の墓だという。
最後は再び浄福寺に戻って、出発と同じように門下と本堂前で行われるが念仏講とお寺の関係は特にないという。
先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。
悪霊が地区に入ってこないように鉦を叩いているそうだ。
この年は新仏の家が4軒もあった。
これらの辻の道中でその家の庭で太鼓や鉦を打ち鳴らす。
その軒数にもよるがおよそ1時間半もかかった子供の念仏講。

お念仏は唱えられないが大和ではとても珍しい行事である。
すべてを終えてお菓子を貰った子どもたちは急ぎ足で帰っていった。
H婦人の話によれば子供が少ないからやめる話があがっていたという。
ある年のことだった。
子供が集団風邪にかかった。
それから止めようという話はしなくなったそうだ。
『浄福寺念仏講享保二十一年(1736)二月十五日覚帳』が残されている子供の念仏講。
明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しである。
極めて珍しい子供たちだけで行われる白土町の子供念仏。
少子化の時代になったが、これからもずっと続いてほしいと住民たちは願っている。
(H23. 8. 7 EOS40D撮影)
旧村にはそれぞれの地区であったそうだ。
無形民俗文化財に指定されている安堵町の大寶寺六斎講や奈良市八島の念仏鉦講が知られている。
大和郡山の井戸野町でもかつて存在していた。
それを証明する念仏鉦が残されており県立民俗博物館で「大和郡山の行事と企画展」で平鉦9枚が展示された。
それには寛文十二年(1672)の銘文が刻まれていた。
その展示会では平成22年に調査取材させていただいた隣村の白土町の念仏講も紹介された。
当地の念仏講には大きくわけて7日から14日にかけて毎日地区をかけ巡る子供の念仏講と、今では盆入りの7日の夜だけになったがかつては同じように毎日されていた大人の念仏講がある。
仏教が最初に入った奈良には鎮護国家安寧を祈る仏事の行事がある。
庶民に下りてきたのが念仏信仰で、難しい修行をしなくとも極楽浄土へいくという。
それらは融通念仏や謡う六斎念仏があり、15世紀ころに流行った。
祇園祭りはコンコンチキチ、コンチキチと鉦の縁と胴を打って鳴らし、鉦を楽器として使っている。
六斎念仏の鉦は縁を叩かず、T字型の撞木(しゅもく)で鉦の内面を叩くのが県内の念仏の特徴だ。
さて、子供の念仏講はその叩く鉦の音がそのように聞こえることからチャチャンコとも呼ばれている。
勤めるのは小学生6年生以下の男の子たちで、太鼓打ちが一人、もう一人は太鼓持ちで念仏鉦叩きが5人である。
少子化の波は白土町にも当てはまって、やはり子供は少ない。
校区では新入生徒が一人になったという。
子供が主役の行事を支えていくのはとても難しい時代になったことから講中の親戚筋から助っ人男児をお願いして続けられている。
先導をするのは音頭取りの太鼓打ち。
この音に合わせて鉦を打つ。
最初に右手の一本でドン、ドン、ドドド。
何度も何度も叩く。
それに合わせて鉦を打つ。
次に二本を持ってドコドコドン、ドコドコドンと連打。
それを繰り返す。
二本のバチで叩くリズムが正しくなければ「もういっかいや」と先輩に言われたと思い出話をされる経験者の父親たち。
母親も付き添ってはいくが太鼓や鉦を叩くのは子供たちだけだ。
昨年にオシメもとれた最年少の子供も鉦を叩いている。
始めに浄福寺の門下で行われる。
その次は本堂の前に移る。
経験者の父親が言うには最初にドンチャン、ドンチャン、チャチャチャのリズムで太鼓を叩く。
これを10回ぐらい繰り返す。
すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。
叩く音を言葉にするとこういうふうに聞こえるそうだ。
これを3回ほど繰り返す。
そして自転車に跨って地区の中心部にあたる辻に行った。
そこはかつて仲家の玄関先。
西に向かって太鼓と鉦を打つ。

次は北のフダワ(札場が訛った)の辻。
水路の橋の上だ。
東に向けて数回打ち鳴らした。
それから西のセセンボ(祖先墓が訛った)に向かった。
扉を開けて墓入り口で打ち鳴らして、そこから南へ走っていく。
ここも水路の橋の上。
その向こうには墓がある。
旧仲家の墓だという。
最後は再び浄福寺に戻って、出発と同じように門下と本堂前で行われるが念仏講とお寺の関係は特にないという。
先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。
悪霊が地区に入ってこないように鉦を叩いているそうだ。
この年は新仏の家が4軒もあった。
これらの辻の道中でその家の庭で太鼓や鉦を打ち鳴らす。
その軒数にもよるがおよそ1時間半もかかった子供の念仏講。

お念仏は唱えられないが大和ではとても珍しい行事である。
すべてを終えてお菓子を貰った子どもたちは急ぎ足で帰っていった。
H婦人の話によれば子供が少ないからやめる話があがっていたという。
ある年のことだった。
子供が集団風邪にかかった。
それから止めようという話はしなくなったそうだ。
『浄福寺念仏講享保二十一年(1736)二月十五日覚帳』が残されている子供の念仏講。
明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しである。
極めて珍しい子供たちだけで行われる白土町の子供念仏。
少子化の時代になったが、これからもずっと続いてほしいと住民たちは願っている。
(H23. 8. 7 EOS40D撮影)