お盆を過ぎるころには各地で風の祈祷と呼ばれる行事が行われている。
その多くは神社でみられる行事であるが奈良市中ノ川町では仏の行事。
氏神さんである三社神社下の建物の社務所内は旧観音寺。
そこに集まってきた村人たち。
中ノ川町は市内から佐保川の上流に位置する東山中に入る辺り。
急坂を走って4kmほどにある山間農村の佇まいは全戸で30軒ほど。
村の男性たちは座敷に座る。
同寺の本尊は十一面観音。
話によれば50年ほど前に以前あった仏像と入れ替わったらしい。
座敷には真新しい太鼓が据えられた。
トーヤは端に座って数取りの道具を横に置く。
木の札が一枚、二枚・・・。千遍や万遍、一万遍などの文字がある。
導師が座るのは鈴の玉が付けられた数珠を広げられた輪の中だ。
導師を勤めるのは長老だと決められている。
そして始まったお念仏。
最初に懺悔文が詠みあげられる。
それから繰りだす百万遍数珠繰り。
一周する度にトーヤは数取りの木片を移動する。
一回回れば一万遍だという。
それが10回なれば位がひとつ上がった木片を置く。
それで十万遍。
それを繰り返すこと50回。
これで五十万遍も数珠繰りをしたということになる。
鈴はその間、シャンシャンと耳に入らないような小さな音がする。
鈴が手前にくればそれをひるがえすようにクルリと回して頭上に翳す。
一般的には頭を下げるのだがここではそうされているのだが、数珠を繰り出すスピードは早い。
鉦が打たれる速度に合わせて数珠を繰る。
太鼓はその鉦音とともにバチで打つ。
その際には声を揃えて「ナンマイダーブツ、ナンマイダーブツ」と念仏を唱える。
ひと息入れて後半の数珠繰りも50回繰り返す。
最初の50回はゆっくりと後半は早めに数珠を繰った百万遍数珠繰りはこうして終えた。
村を風雨から守る願いの風の祈祷は約30分。
ありがたい数珠で背なかにあてる。
身体堅固の作法である。
打った鉦には「西村和泉守作」の刻印がみられるが年代記はない。
撞木(しゅもく)の形がユニークだ。
一般的にはT字型であるのだがここではL字型。
コメツツジの木で作ったのだろうという。
太鼓は新しいがそれを据えていた台が古いものであった。
文化十○年の文字が底に書いてあった。
200年前のものには違いないが側面には「歩兵三十八連隊第○中隊○戦砲兵・・・・」が。
反対側には「奥城正道伏見三十八連隊・・・云々」とある。
時代が異なる墨書が残されている太鼓台。
京都伏見(藤森神社)にあった連隊は大正14年に奈良高畑町(奈良教育大内)へ移ったとされる記録から推定するに当時所属されていた人がこの台に記したのではないだろうか。
「書かれた人物の名は記憶にないが住んでいたのでは」と話す。
(H23. 8.21 EOS40D撮影)
その多くは神社でみられる行事であるが奈良市中ノ川町では仏の行事。
氏神さんである三社神社下の建物の社務所内は旧観音寺。
そこに集まってきた村人たち。
中ノ川町は市内から佐保川の上流に位置する東山中に入る辺り。
急坂を走って4kmほどにある山間農村の佇まいは全戸で30軒ほど。
村の男性たちは座敷に座る。
同寺の本尊は十一面観音。
話によれば50年ほど前に以前あった仏像と入れ替わったらしい。
座敷には真新しい太鼓が据えられた。
トーヤは端に座って数取りの道具を横に置く。
木の札が一枚、二枚・・・。千遍や万遍、一万遍などの文字がある。
導師が座るのは鈴の玉が付けられた数珠を広げられた輪の中だ。
導師を勤めるのは長老だと決められている。
そして始まったお念仏。
最初に懺悔文が詠みあげられる。
それから繰りだす百万遍数珠繰り。
一周する度にトーヤは数取りの木片を移動する。
一回回れば一万遍だという。
それが10回なれば位がひとつ上がった木片を置く。
それで十万遍。
それを繰り返すこと50回。
これで五十万遍も数珠繰りをしたということになる。
鈴はその間、シャンシャンと耳に入らないような小さな音がする。
鈴が手前にくればそれをひるがえすようにクルリと回して頭上に翳す。
一般的には頭を下げるのだがここではそうされているのだが、数珠を繰り出すスピードは早い。
鉦が打たれる速度に合わせて数珠を繰る。
太鼓はその鉦音とともにバチで打つ。
その際には声を揃えて「ナンマイダーブツ、ナンマイダーブツ」と念仏を唱える。
ひと息入れて後半の数珠繰りも50回繰り返す。
最初の50回はゆっくりと後半は早めに数珠を繰った百万遍数珠繰りはこうして終えた。
村を風雨から守る願いの風の祈祷は約30分。
ありがたい数珠で背なかにあてる。
身体堅固の作法である。
打った鉦には「西村和泉守作」の刻印がみられるが年代記はない。
撞木(しゅもく)の形がユニークだ。
一般的にはT字型であるのだがここではL字型。
コメツツジの木で作ったのだろうという。
太鼓は新しいがそれを据えていた台が古いものであった。
文化十○年の文字が底に書いてあった。
200年前のものには違いないが側面には「歩兵三十八連隊第○中隊○戦砲兵・・・・」が。
反対側には「奥城正道伏見三十八連隊・・・云々」とある。
時代が異なる墨書が残されている太鼓台。
京都伏見(藤森神社)にあった連隊は大正14年に奈良高畑町(奈良教育大内)へ移ったとされる記録から推定するに当時所属されていた人がこの台に記したのではないだろうか。
「書かれた人物の名は記憶にないが住んでいたのでは」と話す。
(H23. 8.21 EOS40D撮影)