白土町の子供のチャチャンコを勤めるのは6年生以下の男児。
足りない場合は講中の親戚筋から男児を借りてでも行われている。
7日から毎日行われている太鼓打ちと鉦叩きの念仏は14日で幕を閉じる。
前日までは浄福寺の門下、本堂の前、かつて仲家の玄関先だった地区中央の辻、北のフダワ(札場が訛った)の辻、西のセセンボ(祖先墓が訛った)の墓入り口、旧仲家の墓に向かって叩く水路の橋の上。
そして、再び浄福寺に戻り門下と本堂前である。
新仏の家があればその行程の途中で念仏鉦が叩かれる。
ところが最終日の14日はさらに距離が延びるのである。
いつも通り自転車に跨って走っていく子供たち。
付き添いの親たちも同様に自転車だ。
本堂前での念仏が終わるや否や一目散に飛びだした。
目指すは隣村の石川町と境界する千束の地区。
出屋敷の地だとされる。
ここは古くは中ツ道と呼ばれた街道を挟んで東の家筋が石川町、西が白土町になる。
そこの南端にある辻の橋辺りで念仏鉦が打たれた。
並びで新仏の家(街道と庭先の2か所で)へ向かったあとは街道を一挙に南下する。
一直線だけに自転車の速度は増す一方だ。
ほどよく着いたのは地蔵祠がある辻堂橋だった。
話によればそこへ辿りつく真ん中辺りでもしていたという。
そこはかつて地蔵さんの祠があった地であるが、道路を拡張した際に消滅したことから何もせずに通りぬけていったのだ。
辻堂橋では地蔵祠に向かって鉦を打つから東を向いている。
さらに西へ向かって行ったのは白土池の堤防下。
その端のほうで鉦を打つ。
昔にその池で亡くなった人を弔うのだという。
もう少し行って田んぼの境目が牛塚と呼ばれる地。
そこは牛の弔い地。
大昔のことだがそこで牛を飼っていた。
その牛が亡くなったので弔いの鉦を打つという。
そして集落南の辻へ向かっていった。
まるで地区全域を回る巡拝の弔いのような大回りだった。
こうしてこの年の夏も子供たちの念仏がようやく終わった。
(H23. 8.14 EOS40D撮影)
足りない場合は講中の親戚筋から男児を借りてでも行われている。
7日から毎日行われている太鼓打ちと鉦叩きの念仏は14日で幕を閉じる。
前日までは浄福寺の門下、本堂の前、かつて仲家の玄関先だった地区中央の辻、北のフダワ(札場が訛った)の辻、西のセセンボ(祖先墓が訛った)の墓入り口、旧仲家の墓に向かって叩く水路の橋の上。
そして、再び浄福寺に戻り門下と本堂前である。
新仏の家があればその行程の途中で念仏鉦が叩かれる。
ところが最終日の14日はさらに距離が延びるのである。
いつも通り自転車に跨って走っていく子供たち。
付き添いの親たちも同様に自転車だ。
本堂前での念仏が終わるや否や一目散に飛びだした。
目指すは隣村の石川町と境界する千束の地区。
出屋敷の地だとされる。
ここは古くは中ツ道と呼ばれた街道を挟んで東の家筋が石川町、西が白土町になる。
そこの南端にある辻の橋辺りで念仏鉦が打たれた。
並びで新仏の家(街道と庭先の2か所で)へ向かったあとは街道を一挙に南下する。
一直線だけに自転車の速度は増す一方だ。
ほどよく着いたのは地蔵祠がある辻堂橋だった。
話によればそこへ辿りつく真ん中辺りでもしていたという。
そこはかつて地蔵さんの祠があった地であるが、道路を拡張した際に消滅したことから何もせずに通りぬけていったのだ。
辻堂橋では地蔵祠に向かって鉦を打つから東を向いている。
さらに西へ向かって行ったのは白土池の堤防下。
その端のほうで鉦を打つ。
昔にその池で亡くなった人を弔うのだという。
もう少し行って田んぼの境目が牛塚と呼ばれる地。
そこは牛の弔い地。
大昔のことだがそこで牛を飼っていた。
その牛が亡くなったので弔いの鉦を打つという。
そして集落南の辻へ向かっていった。
まるで地区全域を回る巡拝の弔いのような大回りだった。
こうしてこの年の夏も子供たちの念仏がようやく終わった。
(H23. 8.14 EOS40D撮影)