ときおり訪問する山添村の北野。
ここへ来て住民のI夫妻の家にお伺いすれば何かと道具が登場する。
「こんなものがあるで」と蔵から出てきたのが御幣。
昨年末の12月31日の祭りでたばったもの。
ヒラヒラは「奉書は切り込みを入れて、手前にこう折っていくんだ」と教えてくださる。
その竹の幣は家に持ち帰ってオハライをする。
それは年末に行われる大祓祭で昨今はその日に近い日曜日になっている。
大祓祭は北野、桐山、室津、松尾、的野、峯寺と奈良市水間町の7ケ大字。
以前は別所も含まれていたという旧東山村の地域。
大祓の御幣は半年に纏めて当番が一括して作る。
北野は今年の6月に担当したようだ。
祭りは午前中に祓えの儀を執り行って在所の人が持ち帰り配られる。
家の祓えは家周りや神棚など。
それを済ませば川に流すか火に燃やす。
なかには風呂の薪にすることもあるらしい。
ところで北野にはサシサバがあったのかと問うてみれば奥さんが「これがそうじゃ」と長い串を持ってきた。

竹串をサバの尻から挿しこみ一塩振りかけて焼いて食べた。
サバは丸いままの生サバだった。
その姿はどうやら北国街道小浜で名高い焼きサバのようだ。
北野にサシサバの風習があったのかと思いきや、それは出身地の月ヶ瀬の月瀬だった。
お盆に実家へ帰ったときにはそれがあった。
サシサバはドロイモの葉に置いて先祖さんにおました。
翌日の夕飯に食べたサシサバは胃袋のなかに入ったが竹串はそのまま残しておいた。
奥さんは「なんでも残しているのだ」とご主人は笑う。
今でもその風習があるのかどうか、行ききしなくなったので判らないという。
サシサバはなかったが盆の風習は13、14日と忙しかったようだ。
13日は墓の掃除。
14日の昼を食べてから墓参り。
「暑かって天気やったら涼しくなった時間帯。雨が降っていれば降る前にお参りをしておく」のだと話す。
そういう光景は私の母親の実家になる大阪南河内の滝谷不動の墓参りと同じだった。
親戚の親父たちはいつもそうしていて、夕立が降る前後に墓参りについていったことを覚えている。
14日は家の門口で茹でたソーメンや生のオイモ(サトイモ)、キュウリ、カボチャを切ってドロイモの葉に載せてお供えをした。
そこにはボタモチもあったが子供がたばっていったと話す。
話は北野などで行われている東山地区の田楽の舞いに移った。
それは隣村の松尾、的野、峯寺。三ケ大字で行われている峯寺六所神社の奉殿楽。
渡り衆が笛や太鼓、ガチャガチャと呼ばれる編木などを鳴らしながら神社に向かう。
それは神社の舞殿で奉納される。
所作を終えた一行はトーヤの家に戻っていく。
と、ここまでは知っていた。
ところがご主人がいうには的野の氏神さん(八幡神社)に行ってそこでも田楽の舞いをしているというのだ。
それを知らなかっただけに再訪問してみたくなった。
それはともかく当家の蔵出しはまだあった。
埃に塗れているが奇麗に揃えられた竹の束だ。
串にでもなるだろうと残しておいたものだ。
一本を抜いて見せてくれた。
それは番傘の骨だった。
北野のホーデンガクではお渡りの際に見られる番傘がある。
その番傘を作りなおさなければならない時代があった。
当主はそれを求めて名張を訪ねていった。
そこには商品にならなかった骨があった。
何かのときに役立つであろうと不要なものをいただいて帰った。
それがそのまま残っていた骨は先をよく見れば小さな穴が空いている。
それが骨の証拠だと示してくれた。
(H23. 8.13 EOS40D撮影)
ここへ来て住民のI夫妻の家にお伺いすれば何かと道具が登場する。
「こんなものがあるで」と蔵から出てきたのが御幣。
昨年末の12月31日の祭りでたばったもの。
ヒラヒラは「奉書は切り込みを入れて、手前にこう折っていくんだ」と教えてくださる。
その竹の幣は家に持ち帰ってオハライをする。
それは年末に行われる大祓祭で昨今はその日に近い日曜日になっている。
大祓祭は北野、桐山、室津、松尾、的野、峯寺と奈良市水間町の7ケ大字。
以前は別所も含まれていたという旧東山村の地域。
大祓の御幣は半年に纏めて当番が一括して作る。
北野は今年の6月に担当したようだ。
祭りは午前中に祓えの儀を執り行って在所の人が持ち帰り配られる。
家の祓えは家周りや神棚など。
それを済ませば川に流すか火に燃やす。
なかには風呂の薪にすることもあるらしい。
ところで北野にはサシサバがあったのかと問うてみれば奥さんが「これがそうじゃ」と長い串を持ってきた。

竹串をサバの尻から挿しこみ一塩振りかけて焼いて食べた。
サバは丸いままの生サバだった。
その姿はどうやら北国街道小浜で名高い焼きサバのようだ。
北野にサシサバの風習があったのかと思いきや、それは出身地の月ヶ瀬の月瀬だった。
お盆に実家へ帰ったときにはそれがあった。
サシサバはドロイモの葉に置いて先祖さんにおました。
翌日の夕飯に食べたサシサバは胃袋のなかに入ったが竹串はそのまま残しておいた。
奥さんは「なんでも残しているのだ」とご主人は笑う。
今でもその風習があるのかどうか、行ききしなくなったので判らないという。
サシサバはなかったが盆の風習は13、14日と忙しかったようだ。
13日は墓の掃除。
14日の昼を食べてから墓参り。
「暑かって天気やったら涼しくなった時間帯。雨が降っていれば降る前にお参りをしておく」のだと話す。
そういう光景は私の母親の実家になる大阪南河内の滝谷不動の墓参りと同じだった。
親戚の親父たちはいつもそうしていて、夕立が降る前後に墓参りについていったことを覚えている。
14日は家の門口で茹でたソーメンや生のオイモ(サトイモ)、キュウリ、カボチャを切ってドロイモの葉に載せてお供えをした。
そこにはボタモチもあったが子供がたばっていったと話す。
話は北野などで行われている東山地区の田楽の舞いに移った。
それは隣村の松尾、的野、峯寺。三ケ大字で行われている峯寺六所神社の奉殿楽。
渡り衆が笛や太鼓、ガチャガチャと呼ばれる編木などを鳴らしながら神社に向かう。
それは神社の舞殿で奉納される。
所作を終えた一行はトーヤの家に戻っていく。
と、ここまでは知っていた。
ところがご主人がいうには的野の氏神さん(八幡神社)に行ってそこでも田楽の舞いをしているというのだ。
それを知らなかっただけに再訪問してみたくなった。
それはともかく当家の蔵出しはまだあった。
埃に塗れているが奇麗に揃えられた竹の束だ。
串にでもなるだろうと残しておいたものだ。
一本を抜いて見せてくれた。
それは番傘の骨だった。
北野のホーデンガクではお渡りの際に見られる番傘がある。
その番傘を作りなおさなければならない時代があった。
当主はそれを求めて名張を訪ねていった。
そこには商品にならなかった骨があった。
何かのときに役立つであろうと不要なものをいただいて帰った。
それがそのまま残っていた骨は先をよく見れば小さな穴が空いている。
それが骨の証拠だと示してくれた。
(H23. 8.13 EOS40D撮影)