旧村環濠集落の一つに挙げられる大和郡山市番条町。
4月21日、各戸で安置されているお大師さんが出開帳。
場は各戸の門屋とか玄関口などだ。
僧侶による法要もなく、ただたんにお家の方が門屋に設えた祭壇に移されたお大師さんに御膳や花を立てる。
文政十三年(1830)に流行病いのコレラが村内で発症したことが発端で、弘法大師を各戸が屋内で祭っている民間信仰。
いわゆる写し霊場であるが、集落全戸が祭る在り方は極めて珍しい。
朝早い家では7時に移すところもあるが、だいたいが8時前後。
普段はひっそりしている集落。
この日は巡礼をしている人がうろうろしている。
新聞やテレビなどのメディア報道で知った市外の人が訪れるようになったのだ。
昨今は県外から訪れる人も見られるようになった。
集落全戸をお参りすれば、四国八十八カ所巡りしたことになる。

お賽銭を入れて手を合わせる。
そうすれば家の人が供えたヨゴミダンゴや白モチ1個をたばっていく。
いわゆるお接待であるが、紙袋にどっさり詰め込む人もいる。
モチを目当てにやってくるのだ。
困った状況になっていると村の人は云う。
番条町のお大師さんは著書の『奈良大和路の年中行事』や大和郡山市の広報誌に執筆、紹介したが、モチ泥棒には来てもらいたくないのでお接待のモチの件は記述しなかった。
知り合いの住民のお願いでそうした。

送迎させてもらっていた患者さんの家がある。
挨拶すればお厨子を運んでほしいと願われる婦人は足が若干、不自由。
旦那さんはイチゴ栽培が忙しいからまだ戻っていない。

手助けして台やお厨子に花立てなどを運んで設営する。
調えば、普段は「家の阿弥陀さんにいてはる」というお大師さんを移す。
手を合わせていたら二人連れの婦人がやってきた。
度々お会いする二人の婦人は隣村の中城や発志院在住の馴染みのある顔ぶれ。

懐かしさもあって話題は出里のようすまで話す。
奈良市南永井におばあさん講があった。
行事は何なのか判らないが茹でタマゴを食べていたそうだ。
大和郡山市中城にも大師講があった。
アマチャの行事もあったという。
香芝上中にもおばあさん講とも呼ばれる尼講があった。
掛軸を掲げて参る。
祀っているヤカタを当番家に廻していた。
月に一度はお寺さんで念仏を唱えていたとか。
盛り上がる話題はお雑煮にキナコを浸けて食べる風習は番条町や発志院でもしていた。
どこでも、皆は同じようにしていると話していた。
この日の目的は南の藪大師を調べることだった。
昨年、南の大師講の方に聞いていた朝一番の旗立て。
8時には立てると話していた。
患者さんの家で話題が盛り上がり時間は過ぎていた。
ここから十数メートル。

佐保川の堤にある藪大師。
十数本も立てていた。
「遅れた」といいながら家で保管していた旗を立てる講中。
旗はそれぞれの講中が立てるようだ。

知人の酒造会長の話によれば、昭和9年ころに川の改修工事があったという。
導水路を移し替えた。
それまでの藪大師は祠もなく藪の中に佇んでいた。
大正末期、北を流れる菩提山川が決壊して村は水ツキになった。
昭和6、7年にも決壊して水ツキ。
導水路は廃して橋を架けたという。
藪大師は村の大師講が守っていた。
明治末期に何軒かの大庄屋が祠を建てた。
そのころに大師講は南の藪大師、北は大師堂に分かれたそうだ。

藪大師にお参りしていた若き女性は番条町住民。
お爺さんは熊野神社の北座の人だった。
病気がちだったお爺さんは平成21年・座行事の十月朔座当屋をつとめた翌年に亡くなられた。
それから5年後、北座は7軒から5軒に。
南座は17軒から11軒になっていた。
「萬(よろず)覚帳」によれば正徳元年(1711)八月から始まったとされる朔座。
享保二年、三年と続いて310年。
年老いた人たちで営んでいたが、継承することも難しく、昨年秋に両座とも解散された。
お大師さんの日はさまざまな地からお参りに来られる。

藪大師辺りは南の垣内。
八十八番のお大師さんを祭る家がようやく見つかった。
ここら辺りでうろうろしていた二人連れの婦人。
どこかで見たような・・。
なんと私が住まいする地元住民であった。

自転車でここまで来たというから片道距離にして約5km。
自転車でやってきたそうだ。
朝一番に見かけた二人連れの婦人は大和郡山市の小泉町。
同じように自転車で来たという距離も5km。
巡礼はどちらも始めてだという。
出合う度に立ち止って井戸端会話をする。

庭にぼたんの花やコデマリが見つかれば花談義になる。
他所のお大師さん行事に出向きたいが、なかなか前へ進めない。

杖をついた隣家のご婦人もやってくる。
他家の祭り方も見てみたいが足が不自由で遠くまでは行けないと云って立ち話。
その場にやってきた県外からの団体の巡礼者。
藪大師なども参ってここへ来た。
どこから来られたのか、また何度目になるのか何組かの聞取りをした結果、毎年来られる組もあれば、今回が初めてだという組もある。
毎年の組は信仰色が強いと思われるが、物見雄山の組が最も多いように感じる。
一度は見ておきたいと思う人たちは物珍しさ観光が動機であるが、ときには八十八ケ所札を示した地図を手にして巡拝する組もある。
「これはどこへ行けばもらえるのですか」と尋ねる人もいる。
このよう人はどういう動機で来ているのだろうか。
地図を頼りに巡りたいという思いは観光目当てとしか考えられない。

有名な観光地はどことも観光マップがある。
場合によってはスタンプラリーで誘導するケースもある。
巡る寺社マップは食べ処があればたしかに便利であるが、信仰の村は組織化されているわけでもない各戸の在り方だ。
村の人でも全容が掴めていない。
というよりもその必要性がないのだ。

ある人は意見を述べた。
幟を揚げて観光地化したい・・だ。
訪れる人に親切心は必要なのだろうか。
アンケートも収集したいという考えをもつ人もいる。
データを集めて何に使うのか。
信仰はそっとしてほしいと思うのだ。
この場を通り過ぎる若い二人の女性は奈良女子大学の学生さん。
数年前から繰り返し、イエの構造とともにお大師信仰を調査している。
南端にある番条の環濠は綺麗に整備されて昔の面影は消えた。

悪臭を放っていたのだろうか。
それで整備されたのか、それとも観光地化を進めたのか・・その後の状況も見続ける必要性が生じた。
(H27. 4.21 EOS40D撮影)
4月21日、各戸で安置されているお大師さんが出開帳。
場は各戸の門屋とか玄関口などだ。
僧侶による法要もなく、ただたんにお家の方が門屋に設えた祭壇に移されたお大師さんに御膳や花を立てる。
文政十三年(1830)に流行病いのコレラが村内で発症したことが発端で、弘法大師を各戸が屋内で祭っている民間信仰。
いわゆる写し霊場であるが、集落全戸が祭る在り方は極めて珍しい。
朝早い家では7時に移すところもあるが、だいたいが8時前後。
普段はひっそりしている集落。
この日は巡礼をしている人がうろうろしている。
新聞やテレビなどのメディア報道で知った市外の人が訪れるようになったのだ。
昨今は県外から訪れる人も見られるようになった。
集落全戸をお参りすれば、四国八十八カ所巡りしたことになる。

お賽銭を入れて手を合わせる。
そうすれば家の人が供えたヨゴミダンゴや白モチ1個をたばっていく。
いわゆるお接待であるが、紙袋にどっさり詰め込む人もいる。
モチを目当てにやってくるのだ。
困った状況になっていると村の人は云う。
番条町のお大師さんは著書の『奈良大和路の年中行事』や大和郡山市の広報誌に執筆、紹介したが、モチ泥棒には来てもらいたくないのでお接待のモチの件は記述しなかった。
知り合いの住民のお願いでそうした。

送迎させてもらっていた患者さんの家がある。
挨拶すればお厨子を運んでほしいと願われる婦人は足が若干、不自由。
旦那さんはイチゴ栽培が忙しいからまだ戻っていない。

手助けして台やお厨子に花立てなどを運んで設営する。
調えば、普段は「家の阿弥陀さんにいてはる」というお大師さんを移す。
手を合わせていたら二人連れの婦人がやってきた。
度々お会いする二人の婦人は隣村の中城や発志院在住の馴染みのある顔ぶれ。

懐かしさもあって話題は出里のようすまで話す。
奈良市南永井におばあさん講があった。
行事は何なのか判らないが茹でタマゴを食べていたそうだ。
大和郡山市中城にも大師講があった。
アマチャの行事もあったという。
香芝上中にもおばあさん講とも呼ばれる尼講があった。
掛軸を掲げて参る。
祀っているヤカタを当番家に廻していた。
月に一度はお寺さんで念仏を唱えていたとか。
盛り上がる話題はお雑煮にキナコを浸けて食べる風習は番条町や発志院でもしていた。
どこでも、皆は同じようにしていると話していた。
この日の目的は南の藪大師を調べることだった。
昨年、南の大師講の方に聞いていた朝一番の旗立て。
8時には立てると話していた。
患者さんの家で話題が盛り上がり時間は過ぎていた。
ここから十数メートル。

佐保川の堤にある藪大師。
十数本も立てていた。
「遅れた」といいながら家で保管していた旗を立てる講中。
旗はそれぞれの講中が立てるようだ。

知人の酒造会長の話によれば、昭和9年ころに川の改修工事があったという。
導水路を移し替えた。
それまでの藪大師は祠もなく藪の中に佇んでいた。
大正末期、北を流れる菩提山川が決壊して村は水ツキになった。
昭和6、7年にも決壊して水ツキ。
導水路は廃して橋を架けたという。
藪大師は村の大師講が守っていた。
明治末期に何軒かの大庄屋が祠を建てた。
そのころに大師講は南の藪大師、北は大師堂に分かれたそうだ。

藪大師にお参りしていた若き女性は番条町住民。
お爺さんは熊野神社の北座の人だった。
病気がちだったお爺さんは平成21年・座行事の十月朔座当屋をつとめた翌年に亡くなられた。
それから5年後、北座は7軒から5軒に。
南座は17軒から11軒になっていた。
「萬(よろず)覚帳」によれば正徳元年(1711)八月から始まったとされる朔座。
享保二年、三年と続いて310年。
年老いた人たちで営んでいたが、継承することも難しく、昨年秋に両座とも解散された。
お大師さんの日はさまざまな地からお参りに来られる。

藪大師辺りは南の垣内。
八十八番のお大師さんを祭る家がようやく見つかった。
ここら辺りでうろうろしていた二人連れの婦人。
どこかで見たような・・。
なんと私が住まいする地元住民であった。

自転車でここまで来たというから片道距離にして約5km。
自転車でやってきたそうだ。
朝一番に見かけた二人連れの婦人は大和郡山市の小泉町。
同じように自転車で来たという距離も5km。
巡礼はどちらも始めてだという。
出合う度に立ち止って井戸端会話をする。

庭にぼたんの花やコデマリが見つかれば花談義になる。
他所のお大師さん行事に出向きたいが、なかなか前へ進めない。

杖をついた隣家のご婦人もやってくる。
他家の祭り方も見てみたいが足が不自由で遠くまでは行けないと云って立ち話。
その場にやってきた県外からの団体の巡礼者。
藪大師なども参ってここへ来た。
どこから来られたのか、また何度目になるのか何組かの聞取りをした結果、毎年来られる組もあれば、今回が初めてだという組もある。
毎年の組は信仰色が強いと思われるが、物見雄山の組が最も多いように感じる。
一度は見ておきたいと思う人たちは物珍しさ観光が動機であるが、ときには八十八ケ所札を示した地図を手にして巡拝する組もある。
「これはどこへ行けばもらえるのですか」と尋ねる人もいる。
このよう人はどういう動機で来ているのだろうか。
地図を頼りに巡りたいという思いは観光目当てとしか考えられない。

有名な観光地はどことも観光マップがある。
場合によってはスタンプラリーで誘導するケースもある。
巡る寺社マップは食べ処があればたしかに便利であるが、信仰の村は組織化されているわけでもない各戸の在り方だ。
村の人でも全容が掴めていない。
というよりもその必要性がないのだ。

ある人は意見を述べた。
幟を揚げて観光地化したい・・だ。
訪れる人に親切心は必要なのだろうか。
アンケートも収集したいという考えをもつ人もいる。
データを集めて何に使うのか。
信仰はそっとしてほしいと思うのだ。
この場を通り過ぎる若い二人の女性は奈良女子大学の学生さん。
数年前から繰り返し、イエの構造とともにお大師信仰を調査している。
南端にある番条の環濠は綺麗に整備されて昔の面影は消えた。

悪臭を放っていたのだろうか。
それで整備されたのか、それとも観光地化を進めたのか・・その後の状況も見続ける必要性が生じた。
(H27. 4.21 EOS40D撮影)