天理市荒蒔町のマツリ取材の際に聞いていた「おだいっさん」の在り方を拝見したく訪れた。
行事名の「おだいっさん」は弘法大師を祭る行事。
お大師さんは「おだいっさん」。
親しみを込めた行事名である。
場は勝手神社境内にある観音堂だ。
番条町の取材が長引いてすでに神事を終えていた。
仏事であるが、参集する人たちは村神主を中心とする神社衆である。
集落中心部の公民館北に薬師堂があった。
そこには本尊薬師座像とともに弘法大師像も安置していた。

お堂を守っていたのは村の長老だった。
現在、観音堂が建つ場は社務所だった。
竃があった社務所。
火をくべていたから屋内は煤でま黒っけだった。
当時は子供だったと話す神社衆。
相撲をして遊んでいたことを思いだされた。
拝殿もなく本殿下は空いていた境内。
バットに見立てた竹の棒で庭球の球を打つ野球をしていた。
本殿鳥居下がベースだったとう場である。
子供の頃の遊びであった野球はニノ鳥居を越せばホームランだったと話す。
その場に現在の拝殿を建てた。
昭和63年ころである。
旧社務所を壊して観音堂を建てた。
その際にボロボロに朽ちていた薬師堂を廃して本尊、大師像を観音堂に安置するようにした。
そうした移設事情から神社衆が受け継ぐことになった「おだいっさん」。
受け継いだ村神主、当家が参ることにした。
それだけでは寂しいだろうと御供も供えて神社衆も寄り合うようになったという。
観音堂は三尊。
「おだいっさん」の日は石造地蔵立像など三尊ともローソクを灯す。
ついさっきに終えたという村神主。
神事ごとと同じように2礼、2拍手、1礼をして参ったという。
参ったあとは拝殿で飲食。
神社衆の寄合の場である。
年代もほとんど同じ人たち。
話題は尽きない。
その間の観音堂はローソクの火が揺れているだけだ。
観音堂に残されていた棟札がある。
表面が「安政四年(1857) 奉建立薬師堂諸願成就村中安全如意満足祈攸 ・・・」で、裏面は「安政歳巳八月十七日 棟上 荒蒔村庄屋・・・時代建之」とある。
薬師堂は安政四年に庄屋ら村の人たち数人が村中安全を願って建之された証しである。
ところが観音堂内奥に数枚の板書が掲げてあった。

それには「荒蒔庄 長徳寺」の墨書がある。
それには八部衆(二十八部衆の可能性もある)と思われるような仏画像が描かれている。
もう一つの板書はそれより新しいが「古義真言・・ 高野山」の墨書があった。
神社衆も存知しない寺名である。
旧山辺郡二階堂村荒蒔・勝手神社の正月行事に「ケイチン」、「将軍さん」がある。天正年間(1573~)より記される『宮座中間年代記』がある。
この時代は神仏混合で神官・僧侶による祭事が各地で行われていた。
もしかとすれば、であるが荒蒔もそうであったかもしれない。
荒蒔の4月3日は神武さん。
昔は採ってきたヨモギで餅を搗いていた。
神さんに参って供えることもなく家で搗いて食べていた。
家の風習だったという。
ちなみに境内には何らかを祀っている建物がある。
その建物を「ジュラクサン」と呼んでいる。
「ジュラクサン」は「じゅうらせつにょ」であるかもしれないが、神社衆はどなたも存知しないようだ。
(H27. 4.21 EOS40D撮影)
行事名の「おだいっさん」は弘法大師を祭る行事。
お大師さんは「おだいっさん」。
親しみを込めた行事名である。
場は勝手神社境内にある観音堂だ。
番条町の取材が長引いてすでに神事を終えていた。
仏事であるが、参集する人たちは村神主を中心とする神社衆である。
集落中心部の公民館北に薬師堂があった。
そこには本尊薬師座像とともに弘法大師像も安置していた。

お堂を守っていたのは村の長老だった。
現在、観音堂が建つ場は社務所だった。
竃があった社務所。
火をくべていたから屋内は煤でま黒っけだった。
当時は子供だったと話す神社衆。
相撲をして遊んでいたことを思いだされた。
拝殿もなく本殿下は空いていた境内。
バットに見立てた竹の棒で庭球の球を打つ野球をしていた。
本殿鳥居下がベースだったとう場である。
子供の頃の遊びであった野球はニノ鳥居を越せばホームランだったと話す。
その場に現在の拝殿を建てた。
昭和63年ころである。
旧社務所を壊して観音堂を建てた。
その際にボロボロに朽ちていた薬師堂を廃して本尊、大師像を観音堂に安置するようにした。
そうした移設事情から神社衆が受け継ぐことになった「おだいっさん」。
受け継いだ村神主、当家が参ることにした。
それだけでは寂しいだろうと御供も供えて神社衆も寄り合うようになったという。
観音堂は三尊。
「おだいっさん」の日は石造地蔵立像など三尊ともローソクを灯す。
ついさっきに終えたという村神主。
神事ごとと同じように2礼、2拍手、1礼をして参ったという。
参ったあとは拝殿で飲食。
神社衆の寄合の場である。
年代もほとんど同じ人たち。
話題は尽きない。
その間の観音堂はローソクの火が揺れているだけだ。
観音堂に残されていた棟札がある。
表面が「安政四年(1857) 奉建立薬師堂諸願成就村中安全如意満足祈攸 ・・・」で、裏面は「安政歳巳八月十七日 棟上 荒蒔村庄屋・・・時代建之」とある。
薬師堂は安政四年に庄屋ら村の人たち数人が村中安全を願って建之された証しである。
ところが観音堂内奥に数枚の板書が掲げてあった。

それには「荒蒔庄 長徳寺」の墨書がある。
それには八部衆(二十八部衆の可能性もある)と思われるような仏画像が描かれている。
もう一つの板書はそれより新しいが「古義真言・・ 高野山」の墨書があった。
神社衆も存知しない寺名である。
旧山辺郡二階堂村荒蒔・勝手神社の正月行事に「ケイチン」、「将軍さん」がある。天正年間(1573~)より記される『宮座中間年代記』がある。
この時代は神仏混合で神官・僧侶による祭事が各地で行われていた。
もしかとすれば、であるが荒蒔もそうであったかもしれない。
荒蒔の4月3日は神武さん。
昔は採ってきたヨモギで餅を搗いていた。
神さんに参って供えることもなく家で搗いて食べていた。
家の風習だったという。
ちなみに境内には何らかを祀っている建物がある。
その建物を「ジュラクサン」と呼んでいる。
「ジュラクサン」は「じゅうらせつにょ」であるかもしれないが、神社衆はどなたも存知しないようだ。
(H27. 4.21 EOS40D撮影)