それぞれがそれぞれに奇遇な出会い。
関係者は仮にAさん、Bさん、Cさんとしよう。
AさんとBさんは同郷であるが年齢は離れていた。
Aさんは生まれ育ちも、今も高取町住まい。
Bさんの現在のお住まいは東京・川崎市であるが、故郷は同町で生まれて育った。
年の差は云十歳。
年齢的に離れている関係で遊ぶこともなかったし、つきあいもなかった。
Bさんの故郷は高取町。
生まれ育った地域の歴史文化を知り、記録したいと考えて訪れた。
特に意識されていたのは「大和の清九郎」である。
清九郎が生まれたのは矢田(谷田)。
その後に移り住んだのが故郷の丹生谷であった。
その直前の3年間は鉾立住まいだった。
それを以って文政元年に僧・仰誓(ごうせい)が書き記した著『妙好人傳』に「大和國吉野郡鉾立村に清九郎と云ふ人あり云々・・・」とあることから、後年もなお、清九郎と云えば“鉾立”が成立したようだ。
Bさんが先代から聞いていたのは丹生谷。
そうであるならば一村を尊重するのではなく大きくとらえて“大和”の清九郎とされたのは先々代の喜多村得身氏。
地元から輩出された偉人・清九郎を誇りに郷土史として清九郎の事跡を纏められた。
清九郎に関係する道具などは寄進されて保存されている。
清九郎のことを調べるとともに丹生谷の史跡、歴史、文化など故郷を知る案内人がAさんだった。
CさんがAさんと出会ったのは大和郡山市の施設であった。
そのときの出会いはブログにしたためた。
その記事にも書いたが、AさんがBさんの関係をCさんに伝えたのは年賀状である。
3人のそれぞれの関係が輪になって繋がったのである。
その後はFBやメール等で情報交換していた。
Bさんが奈良に訪れる。
Cさんにその件を伝えたのはAさん。
日にちは限定されたこの日である。
3人揃って会えることになった。
わざわざ足を運んでくれた近鉄郡山駅に大集合。
二人は電車でやってきた。
駅舎内を渡る踏切がある。
走り去った急行は西大寺に向かった。
通過すれば遮断機があがる。
そこに立っていた二人の顔が見える。
Aさんとは平成27年5月以来。
その後は電話等で情報連携していた。
Bさんとは・・・実に30云年ぶり。
ビジネスマン時代の会社の東京支店長だったころにお会いしている。
それ以来だけに私の現状顔は認知されていない。
FBに貼ってあったプロフィール写真では判らないと云っていたBさんのために公開した写真は30歳代のビジネスマン姿。
これなら判ると伝えていた。
奇遇な出会いを経た3人が初めて揃う場は近鉄郡山駅からJR郡山駅まで続く商店街の一角。
かーさんが推奨した喫茶店はaran cafe(アランカフェ)。
かつては画廊だった。
喫茶店であっても入ることはない。
入店して時間を過ごすのがもったいないのである。
もったいないのは金額ではなく時間である。
たとえ1分でも5分間であってももったいない。
その時間は有効に使いたい。
金にならない今の仕事は先を急ぐ。
取材したものは写真だけでなく文章起こしがある。
これに時間を割きたい。
自宅でどっぷりつかって執筆したい。
そう、思うからなおさら時間が欲しいのである。
二人が寛いでいただける喫茶店はどこにするか。
Bさんは午後6時までに奈良市内に向かわねばならない。
近鉄郡山駅で迎えてウロウロするわけにはいかない。
観光案内する時間もない。
そう、考えて駅に最も近い喫茶店がaran caféである。
積もる話しもあるが、第一に聞きたい病後の状況。
それぞれがそれぞれに具合は良くなかった。
今では元気になったが、病は年相応にやってくる。
生前にやるべきことはそれぞれある。
話題が尽きない短時間の出合いに感謝して二人を見送った。
お土産に持ってきてくださっていた川崎大師名物の堂本製菓㈱の大師巻。
かーさんは一口を食べるなり、美味しいを連発する。
すぐさま私もよばれていたが、ほんまに美味しい煎餅に感動する。
そのありがたいお土産を持ってきてくださったBさんと関係があったのがかーさんと呼んでいる家内である。
親会社に勤めていた二人は同じ職場だった。
かーさんが持っている写真に若かりし頃のBさんが写っている。
もちろんであるが、かーさんも若い。
その話しもしたかったが、会社時代のことはAさんと関係がない。
いつか再びお会いしたときには昔の会社員時代の話しもしてみようか。
(H28. 9.27 SB932SH撮影)
関係者は仮にAさん、Bさん、Cさんとしよう。
AさんとBさんは同郷であるが年齢は離れていた。
Aさんは生まれ育ちも、今も高取町住まい。
Bさんの現在のお住まいは東京・川崎市であるが、故郷は同町で生まれて育った。
年の差は云十歳。
年齢的に離れている関係で遊ぶこともなかったし、つきあいもなかった。
Bさんの故郷は高取町。
生まれ育った地域の歴史文化を知り、記録したいと考えて訪れた。
特に意識されていたのは「大和の清九郎」である。
清九郎が生まれたのは矢田(谷田)。
その後に移り住んだのが故郷の丹生谷であった。
その直前の3年間は鉾立住まいだった。
それを以って文政元年に僧・仰誓(ごうせい)が書き記した著『妙好人傳』に「大和國吉野郡鉾立村に清九郎と云ふ人あり云々・・・」とあることから、後年もなお、清九郎と云えば“鉾立”が成立したようだ。
Bさんが先代から聞いていたのは丹生谷。
そうであるならば一村を尊重するのではなく大きくとらえて“大和”の清九郎とされたのは先々代の喜多村得身氏。
地元から輩出された偉人・清九郎を誇りに郷土史として清九郎の事跡を纏められた。
清九郎に関係する道具などは寄進されて保存されている。
清九郎のことを調べるとともに丹生谷の史跡、歴史、文化など故郷を知る案内人がAさんだった。
CさんがAさんと出会ったのは大和郡山市の施設であった。
そのときの出会いはブログにしたためた。
その記事にも書いたが、AさんがBさんの関係をCさんに伝えたのは年賀状である。
3人のそれぞれの関係が輪になって繋がったのである。
その後はFBやメール等で情報交換していた。
Bさんが奈良に訪れる。
Cさんにその件を伝えたのはAさん。
日にちは限定されたこの日である。
3人揃って会えることになった。
わざわざ足を運んでくれた近鉄郡山駅に大集合。
二人は電車でやってきた。
駅舎内を渡る踏切がある。
走り去った急行は西大寺に向かった。
通過すれば遮断機があがる。
そこに立っていた二人の顔が見える。
Aさんとは平成27年5月以来。
その後は電話等で情報連携していた。
Bさんとは・・・実に30云年ぶり。
ビジネスマン時代の会社の東京支店長だったころにお会いしている。
それ以来だけに私の現状顔は認知されていない。
FBに貼ってあったプロフィール写真では判らないと云っていたBさんのために公開した写真は30歳代のビジネスマン姿。
これなら判ると伝えていた。
奇遇な出会いを経た3人が初めて揃う場は近鉄郡山駅からJR郡山駅まで続く商店街の一角。
かーさんが推奨した喫茶店はaran cafe(アランカフェ)。
かつては画廊だった。
喫茶店であっても入ることはない。
入店して時間を過ごすのがもったいないのである。
もったいないのは金額ではなく時間である。
たとえ1分でも5分間であってももったいない。
その時間は有効に使いたい。
金にならない今の仕事は先を急ぐ。
取材したものは写真だけでなく文章起こしがある。
これに時間を割きたい。
自宅でどっぷりつかって執筆したい。
そう、思うからなおさら時間が欲しいのである。
二人が寛いでいただける喫茶店はどこにするか。
Bさんは午後6時までに奈良市内に向かわねばならない。
近鉄郡山駅で迎えてウロウロするわけにはいかない。
観光案内する時間もない。
そう、考えて駅に最も近い喫茶店がaran caféである。
積もる話しもあるが、第一に聞きたい病後の状況。
それぞれがそれぞれに具合は良くなかった。
今では元気になったが、病は年相応にやってくる。
生前にやるべきことはそれぞれある。
話題が尽きない短時間の出合いに感謝して二人を見送った。
お土産に持ってきてくださっていた川崎大師名物の堂本製菓㈱の大師巻。
かーさんは一口を食べるなり、美味しいを連発する。
すぐさま私もよばれていたが、ほんまに美味しい煎餅に感動する。
そのありがたいお土産を持ってきてくださったBさんと関係があったのがかーさんと呼んでいる家内である。
親会社に勤めていた二人は同じ職場だった。
かーさんが持っている写真に若かりし頃のBさんが写っている。
もちろんであるが、かーさんも若い。
その話しもしたかったが、会社時代のことはAさんと関係がない。
いつか再びお会いしたときには昔の会社員時代の話しもしてみようか。
(H28. 9.27 SB932SH撮影)