7月10日、倭恩智神社で行われていた祇園祭の中日の際にお願いしていた天理市海知町の庚申さんの行事。
3軒の営みをようやく拝見することになった。
2年前に聞いていた実施月は9月だった。
元来の庚申さん行事は60日おきに出現する「庚申」の日に行われる。
つまりは2カ月単位で巡ってくる「庚申」日であるが、徐々にズレが生じていく。
今年というか、ここ何年かは初庚申の日が2月になっていた。
1月に初庚申であれば、それから2カ月後は3月。
次は5月、次は7月。
その次が9月である。
しばらくはずっと9月であったが、初庚申が2月になるようになって10年余りの今は10月である。
そういうことで元来の今年は10月5日であるが、海知町の庚申講の人たちはだいたいが9月にしていると話していた。
平成26年の実施日は9月27日の土曜日。
3人が揃う日がそれでいいと決められた行事の日。
今年もそうであるのかと尋ねてみればまだ決まっていないと云う。
10月に食い込む可能性もあると思っていたが電話で伝えられた行事日は今夜。
ヤドになる家が2軒の講中らと相談して決める。
予め何日も前からは決めない。
微妙な言い方であるが、決まる直前になって決める。
特に百姓もんを栽培しているから出荷作業がある。
その関係もあって出荷の休みの日になる土曜日が多い。
必然的にそうなるようだ。
取材をお願いしていた電話がそういうことで27日に鳴った。
日程が決まれば廻りをするヤドが預かっている庚申さんの掛軸をもらいに行く。
そういう具合にしているそうだ。
元来の「庚申」の日にできない場合は宵を避ける。
宵とは前日の夜。
その日を避けるには3日以前となる。
宵の日にしてはならないと云っているのは今夜のヤドになるNさんの94歳の母親だった。
今夜の行事は西の庚申講であるが、海知町にはもう一つの庚申講がある。
東の講は4軒。
西の講はかつて7軒だったが、ここ4、5年の間に講を抜ける家があり、現在は3軒になったそうだ。
庚申さんは百姓の神さんと云って掛図を掲げて崇める。
何年か一度の旧暦閏年にあたる年はトアゲ(塔上)をしている。
トアゲのときにはお寺に植えているカシの木を伐りとって準備する。
木肌を斜めに削って墨書する。
願文は「奉 為金剛童子 家内安全 身体堅固 ・・・」。
もう一本は「奉 青面金剛童子 五穀成就 ・・・」である。
これまでヤドを務めたときに授かったカシの木の塔婆を玄関際に置いて残している。
ずっと旧暦閏年の営みであったが、近年になって新暦に移した。
新暦の閏といえばオリピックが開催される年。
それであれば忘れずに済む。
旧暦であれば2年、或は3年後にやってくる。
定期的でないからつい忘れてしまう。
そういうことにならないように新暦に移した。
海知町の閏年の庚申トアゲはだいたいが2月に行っている。
場は海知町に建つ長谷寺(ちょうこくじ)境内の庚申石である。
現在は西と東の2組が揃ってそれぞれの塔婆を立てる。
塔婆の願文は長谷寺(ちょうこくじ)住職に書いてもらう。
現在の長谷寺は融通念仏宗派だが、かつては真言宗だったように思える。
その証に寺に安置されている十一面観音菩薩立像は桜井市初瀬・真言宗豊山派総本山の長谷寺の十一面観音菩薩立像の余木を以って造仏したと伝わる。
改訂『大和高田市史』に大和高田市の民話・伝説が載っているそうだ。
そこに「楠の霊木」が伝わる。
本文に「むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという」が記載されている。
この文にあるように、霊木の末木は初瀬の長谷寺。
本木は大和高田市南本町の長谷本寺。
中木は葛城市旧新庄村北花内の観音寺。
残り木が天理市海知町の長谷寺(ちょうこくじ)と関東鎌倉の長谷寺に行き渡ったと伝えていた。
境内の庚申石に餅を供えて般若心経を唱える。
昔は子供がようけ(大勢)おって餅を貰いにやってきた。
だいたいが中学生までの子どもたちだ。
少子化の現在は子どもがおられる家に持っていってあげているという。
それはともかく県内で行われている庚申講は数多い。
海知町と同じように新暦に移した地域はままある。
Nさんの話しによれば天理市の檜垣町もそうであるようだ。
他にも武蔵町や遠田町にも講中がある。
遠田町は2組。海知町も4組あったが、14、15年前に2組が解散した。
東の講中は2組の14、15軒だった。
脱会されるなど徐々に減った講中は1組に。
やがてさらに減少して現在は4軒の講中になった。
お話を伺っておれば講中が一人、また一人とヤド家に集まってきた。
ヤドの床の間に掲げていた庚申さんの掛図の裏面にもしかと思って講中が来られる前に拝見していた。
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貼ってあった書は2枚。
一枚は昭和二十七年三月の塔上(とあげ)。
庚申講の名は7人。
うち一人は今夜のヤド家のN家。
現当主が生まれた6年後の期日であったから当主のお爺さん。
今夜に集まった昭和10年生まれのMさんのお爺さん。
もう一人の76歳のOさんのお爺さんだった。
その書には「塔上箱桝貳杯 酒壱桝盛物 右之通り決定」とあった。
もう一枚の書には「庚申講塔上 米 箱桝貳杯集メ其御飯トス 酒 壱汁 折詰 八百円 茶菓子 二百円各人袋入 右ノ通り決定ス 昭和四十六年一月」であった。
その庚申掛図下に御膳(おぜんと呼ぶ)を供える。
庚申さんに食べてもらうように箸を置いた膳だ。
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左手前の椀はセキハン。
忙しいときはイロゴハンにしますというのはヤド家の奥さんだ。
右下はアゲ、シイタケ、ゼンマイの煮た精進料理。
半切りのニヌキ玉子を添えている。
中央の椀はお水ではなくお酒である。
右向こうは黒豆のたいたん。
左向こうはカニカマボコとキュウリの酢の物。
豆腐の白和えも供えて今夜はほぼ同じような5品の料理で酒を飲む。
そう話していた。
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以前はこうした料理を寄ってきた講中とともに会食をしていた。
茶碗に椀、箸も載せた家のお盆を風呂敷に包んで寄っていた。
持参した椀に料理をよそってもらう。
季節に応じてアブラゲやシイタケはタケノコとかゼンマイになる。
また、ズイキやドロイモのたいたんもあった。
今ではそうすることもなくローソクを灯した座敷でお茶と茶菓子で時を過ごす。
時間経過に沿ってコーヒーも。
つつましい今夜のお勤めに話題はさまざまである。
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子どものころは自転車に乗って駆けまわっていた。
そのときの服装は着物。
足は靴でもなく草鞋だったというから随分前の体験談に氏神さんの倭恩智神社行事のことも。
かつて神社は村の北方にあった。
宮さんは日裏にあった。
青年団は寒の入りからハダカ祭りをしていた。
ホッショイ、ホッッショイと掛け声をかけて、3人ずつの組になって走っていた。
その姿はふんどし一つ。
風呂に入ってふんどしを締めた。
宮さんに参って一目散に帰った。
帰って家に着くなり湯船に浸かっていた。
寒のハダカ祭りは一週間の毎日。
その毎日が違う家の風呂に浸かって身体を温めていた。
寒の禊ぎは井戸水。
桶に汲んだ水は「だー」と大声をかけながら被った。
そういう記憶譚を話すのは昭和10年生まれのMさん。
寒の入りから大寒までの期間の毎日である。
そのころしていた年代は13歳からの中学生までの男の子。
旧制中学ではなく新制中学の時代。
戦後の時代の青年団である。
日裏にあった宮さんは戦争によって移転せざるを得なかった。
宮さんの跡地は「みやあと」。
略して「みやと」で呼んでいる。
そこに「シンカン」の宮田があったそうだ。
「シンカン」とは9月初めの3日間に亘っておこなれている「シンカン祭り」のことであるが、「昔は子どもの相撲もあった」というのはハダカ祭りだったのか、それともシンカン祭りであったのか聞きそびれた。
なお、前述した寒中の水垢離は昭和14年10月15日に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第5號の「創刊一周年記念號」に詳しい。
「海知の垢離とり行事」に書いてあった記述を要約する。
毎年、大寒の入りから一週間。
村内の安全祈願のために“垢離とり”の荒行をしていた。
これを行っていたのは大字の妻帯者を除いた15歳から25歳までの青年。
行事の期間中は精進潔斎して、肴、肉類など生臭いものは一切を食べない。
この行事には風呂焚きだしとも呼ばれる風呂當家があり、内風呂を有する家は輪番で青年たちのヤド(宿)を務めたが、忌中の家は除かれた。
門口に御神燈を灯して風呂を沸かして青年たちを待つ。
二人ずつ浸かって身体を温めてから、井戸水を幾杯となく浴びて垢離とりをする。
それから六尺の褌を締めて角結びの草履を履く二人。
二人一組で當家を飛び出し大字集落を3周する。
そのときに発する台詞がある。
前を駆ける青年が「ホイ」と言えば、後者は「ショ」で応じる。
二人合わせて「ホイ ショ ホイ ショ ・・・」である。
先に講中が話していた通りの掛け声であった。
3周してヤド家に戻って湯に浸かる。
次々と二人一組になって垢離とりをするのだが、3周する前にしなければならないのは氏神参りだ。
柏手を打って村内の安全を祈る。
さらには宗派の長谷寺(ちょうこくじ)および集落中央の辻にある太神宮の石塔にも参拝していた時間帯は夜である。
昭和14年にその様相を拝見していた「海知の垢離とり行事」著者の辻本好孝氏は、寒風に向かって駆け回る裸褌姿の若者の姿に深く胸を打たれたと書いてあった。
(H28. 9.29 EOS40D撮影)
3軒の営みをようやく拝見することになった。
2年前に聞いていた実施月は9月だった。
元来の庚申さん行事は60日おきに出現する「庚申」の日に行われる。
つまりは2カ月単位で巡ってくる「庚申」日であるが、徐々にズレが生じていく。
今年というか、ここ何年かは初庚申の日が2月になっていた。
1月に初庚申であれば、それから2カ月後は3月。
次は5月、次は7月。
その次が9月である。
しばらくはずっと9月であったが、初庚申が2月になるようになって10年余りの今は10月である。
そういうことで元来の今年は10月5日であるが、海知町の庚申講の人たちはだいたいが9月にしていると話していた。
平成26年の実施日は9月27日の土曜日。
3人が揃う日がそれでいいと決められた行事の日。
今年もそうであるのかと尋ねてみればまだ決まっていないと云う。
10月に食い込む可能性もあると思っていたが電話で伝えられた行事日は今夜。
ヤドになる家が2軒の講中らと相談して決める。
予め何日も前からは決めない。
微妙な言い方であるが、決まる直前になって決める。
特に百姓もんを栽培しているから出荷作業がある。
その関係もあって出荷の休みの日になる土曜日が多い。
必然的にそうなるようだ。
取材をお願いしていた電話がそういうことで27日に鳴った。
日程が決まれば廻りをするヤドが預かっている庚申さんの掛軸をもらいに行く。
そういう具合にしているそうだ。
元来の「庚申」の日にできない場合は宵を避ける。
宵とは前日の夜。
その日を避けるには3日以前となる。
宵の日にしてはならないと云っているのは今夜のヤドになるNさんの94歳の母親だった。
今夜の行事は西の庚申講であるが、海知町にはもう一つの庚申講がある。
東の講は4軒。
西の講はかつて7軒だったが、ここ4、5年の間に講を抜ける家があり、現在は3軒になったそうだ。
庚申さんは百姓の神さんと云って掛図を掲げて崇める。
何年か一度の旧暦閏年にあたる年はトアゲ(塔上)をしている。
トアゲのときにはお寺に植えているカシの木を伐りとって準備する。
木肌を斜めに削って墨書する。
願文は「奉 為金剛童子 家内安全 身体堅固 ・・・」。
もう一本は「奉 青面金剛童子 五穀成就 ・・・」である。
これまでヤドを務めたときに授かったカシの木の塔婆を玄関際に置いて残している。
ずっと旧暦閏年の営みであったが、近年になって新暦に移した。
新暦の閏といえばオリピックが開催される年。
それであれば忘れずに済む。
旧暦であれば2年、或は3年後にやってくる。
定期的でないからつい忘れてしまう。
そういうことにならないように新暦に移した。
海知町の閏年の庚申トアゲはだいたいが2月に行っている。
場は海知町に建つ長谷寺(ちょうこくじ)境内の庚申石である。
現在は西と東の2組が揃ってそれぞれの塔婆を立てる。
塔婆の願文は長谷寺(ちょうこくじ)住職に書いてもらう。
現在の長谷寺は融通念仏宗派だが、かつては真言宗だったように思える。
その証に寺に安置されている十一面観音菩薩立像は桜井市初瀬・真言宗豊山派総本山の長谷寺の十一面観音菩薩立像の余木を以って造仏したと伝わる。
改訂『大和高田市史』に大和高田市の民話・伝説が載っているそうだ。
そこに「楠の霊木」が伝わる。
本文に「むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという」が記載されている。
この文にあるように、霊木の末木は初瀬の長谷寺。
本木は大和高田市南本町の長谷本寺。
中木は葛城市旧新庄村北花内の観音寺。
残り木が天理市海知町の長谷寺(ちょうこくじ)と関東鎌倉の長谷寺に行き渡ったと伝えていた。
境内の庚申石に餅を供えて般若心経を唱える。
昔は子供がようけ(大勢)おって餅を貰いにやってきた。
だいたいが中学生までの子どもたちだ。
少子化の現在は子どもがおられる家に持っていってあげているという。
それはともかく県内で行われている庚申講は数多い。
海知町と同じように新暦に移した地域はままある。
Nさんの話しによれば天理市の檜垣町もそうであるようだ。
他にも武蔵町や遠田町にも講中がある。
遠田町は2組。海知町も4組あったが、14、15年前に2組が解散した。
東の講中は2組の14、15軒だった。
脱会されるなど徐々に減った講中は1組に。
やがてさらに減少して現在は4軒の講中になった。
お話を伺っておれば講中が一人、また一人とヤド家に集まってきた。
ヤドの床の間に掲げていた庚申さんの掛図の裏面にもしかと思って講中が来られる前に拝見していた。
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貼ってあった書は2枚。
一枚は昭和二十七年三月の塔上(とあげ)。
庚申講の名は7人。
うち一人は今夜のヤド家のN家。
現当主が生まれた6年後の期日であったから当主のお爺さん。
今夜に集まった昭和10年生まれのMさんのお爺さん。
もう一人の76歳のOさんのお爺さんだった。
その書には「塔上箱桝貳杯 酒壱桝盛物 右之通り決定」とあった。
もう一枚の書には「庚申講塔上 米 箱桝貳杯集メ其御飯トス 酒 壱汁 折詰 八百円 茶菓子 二百円各人袋入 右ノ通り決定ス 昭和四十六年一月」であった。
その庚申掛図下に御膳(おぜんと呼ぶ)を供える。
庚申さんに食べてもらうように箸を置いた膳だ。
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左手前の椀はセキハン。
忙しいときはイロゴハンにしますというのはヤド家の奥さんだ。
右下はアゲ、シイタケ、ゼンマイの煮た精進料理。
半切りのニヌキ玉子を添えている。
中央の椀はお水ではなくお酒である。
右向こうは黒豆のたいたん。
左向こうはカニカマボコとキュウリの酢の物。
豆腐の白和えも供えて今夜はほぼ同じような5品の料理で酒を飲む。
そう話していた。
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以前はこうした料理を寄ってきた講中とともに会食をしていた。
茶碗に椀、箸も載せた家のお盆を風呂敷に包んで寄っていた。
持参した椀に料理をよそってもらう。
季節に応じてアブラゲやシイタケはタケノコとかゼンマイになる。
また、ズイキやドロイモのたいたんもあった。
今ではそうすることもなくローソクを灯した座敷でお茶と茶菓子で時を過ごす。
時間経過に沿ってコーヒーも。
つつましい今夜のお勤めに話題はさまざまである。
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子どものころは自転車に乗って駆けまわっていた。
そのときの服装は着物。
足は靴でもなく草鞋だったというから随分前の体験談に氏神さんの倭恩智神社行事のことも。
かつて神社は村の北方にあった。
宮さんは日裏にあった。
青年団は寒の入りからハダカ祭りをしていた。
ホッショイ、ホッッショイと掛け声をかけて、3人ずつの組になって走っていた。
その姿はふんどし一つ。
風呂に入ってふんどしを締めた。
宮さんに参って一目散に帰った。
帰って家に着くなり湯船に浸かっていた。
寒のハダカ祭りは一週間の毎日。
その毎日が違う家の風呂に浸かって身体を温めていた。
寒の禊ぎは井戸水。
桶に汲んだ水は「だー」と大声をかけながら被った。
そういう記憶譚を話すのは昭和10年生まれのMさん。
寒の入りから大寒までの期間の毎日である。
そのころしていた年代は13歳からの中学生までの男の子。
旧制中学ではなく新制中学の時代。
戦後の時代の青年団である。
日裏にあった宮さんは戦争によって移転せざるを得なかった。
宮さんの跡地は「みやあと」。
略して「みやと」で呼んでいる。
そこに「シンカン」の宮田があったそうだ。
「シンカン」とは9月初めの3日間に亘っておこなれている「シンカン祭り」のことであるが、「昔は子どもの相撲もあった」というのはハダカ祭りだったのか、それともシンカン祭りであったのか聞きそびれた。
なお、前述した寒中の水垢離は昭和14年10月15日に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第5號の「創刊一周年記念號」に詳しい。
「海知の垢離とり行事」に書いてあった記述を要約する。
毎年、大寒の入りから一週間。
村内の安全祈願のために“垢離とり”の荒行をしていた。
これを行っていたのは大字の妻帯者を除いた15歳から25歳までの青年。
行事の期間中は精進潔斎して、肴、肉類など生臭いものは一切を食べない。
この行事には風呂焚きだしとも呼ばれる風呂當家があり、内風呂を有する家は輪番で青年たちのヤド(宿)を務めたが、忌中の家は除かれた。
門口に御神燈を灯して風呂を沸かして青年たちを待つ。
二人ずつ浸かって身体を温めてから、井戸水を幾杯となく浴びて垢離とりをする。
それから六尺の褌を締めて角結びの草履を履く二人。
二人一組で當家を飛び出し大字集落を3周する。
そのときに発する台詞がある。
前を駆ける青年が「ホイ」と言えば、後者は「ショ」で応じる。
二人合わせて「ホイ ショ ホイ ショ ・・・」である。
先に講中が話していた通りの掛け声であった。
3周してヤド家に戻って湯に浸かる。
次々と二人一組になって垢離とりをするのだが、3周する前にしなければならないのは氏神参りだ。
柏手を打って村内の安全を祈る。
さらには宗派の長谷寺(ちょうこくじ)および集落中央の辻にある太神宮の石塔にも参拝していた時間帯は夜である。
昭和14年にその様相を拝見していた「海知の垢離とり行事」著者の辻本好孝氏は、寒風に向かって駆け回る裸褌姿の若者の姿に深く胸を打たれたと書いてあった。
(H28. 9.29 EOS40D撮影)