宇陀市榛原の笠間に鎮座する桜実神社を初めて訪れたのは平成18年の3月16日、17日だった。
ひょんなことの出会いがあって御田植祭の在り方がわかってきた。
再訪したのはそれから9年後の平成27年6月14日。
その翌年の平成28年3月19日も訪れて行事情報などを教えてもらった。
御田植祭は前週に終わっていたが10月1日の座や第三週目の土曜、日曜にヨイミヤ、マツリがあることを教えてもらった。
座とはどういう行事なのであろうか。
一般的に「座」と言えば宮座の寄り合いで座会食をともに喰する行事である。
お聞きした話によれば宮座の集まりでもなさそうだったが、東・中・西垣内、それぞれの垣内から代表を選出するトーヤ決めコヨリクジがあると聞いていた。
昭和四年調の『大和国神宮神社宮座調査資料』によれば、榛原の笠間には三つの宮座があったようだ。
江戸時代は少人数の座であったが、明治初年に全戸対象とする村座に転換されて3組になったと書かれていたのは東・中・西垣内の三垣内に違いない。
そう判断してやってきた榛原笠間。
何人かの人たちが忙しく動き回っていた。
取材の主旨を伝えて氏子総代長・宮総代のKさんを紹介してもらった。
笠間桜実神社は春日神社。
古いお宮さんと聞いている。
平安神宮の蔵書の中に桜実神社のことが書かれており由緒ある神社と話される。
ここ笠間でできる米は美味しい。
笠間に隣村の安田は朝倉村。
柳本藩の所領だったという。
東大寺、興福寺、談山神社に収穫した米を寄進していた。
そういう記録もあるらしい。
40年前は屋根の葺き替え。
檜皮から銅板に葺き替えたのは23年前の事業だそうだ。
その後の平成25年10月にゾーク(造営事業)をされて本殿、二社末社殿は美しくなった。
朱塗りの社殿は鮮やか。
これも撮っておいて欲しいと云われてシャッターを押す社殿は欅材で土台は栗の木を用いたそうだ。
榛原笠間は平成元年度から7年度にかけて発掘された古墳がある。
埋葬施設は削平されてはいるものの、周辺から出土した大量の翡翠の勾玉。
数えてみれば25個にもなったという昭和7年生まれの氏子総代長。
画文帯神獣鏡の破片も出土したという古墳は澤ノ坊2号墳。
盗掘があったが周辺で見つかったという。
ちなみに詳しい調査報告書は発掘にあたった橿考研が平成3年に刊行した『宇陀を掘る』に纏めているそうだ。
笠間は東・中・西垣内の三垣内からなる。
それぞれの垣内に「オスヤ」と呼んでいる分霊を祀っている。
「オスヤ」は屋根がある家型ヤカタ。
「オスヤ」を祀る家がトーヤ家。
その家に子供も寄ってきて、トーヤ祝いの伊勢音頭を唄っていた。
「ゆうとり」と呼ぶのは湯取り。
それがなんだかはわからない。
さまざまな笠間の在り方を教えてくださるが、話しは突然に飛んでいくので纏まらない。
マツリにヨミヤがある。
ナワカケやオンダもある桜実神社の年中行事であるが、10年ほど前から毎年の日程が替わるようにしたということはこの日も同じの日曜日。
本来はこの日の行事は10月1日。
一日であるからツイタチ座である。
ツイタチ座を充てる漢字はたぶんに朔日座であろう。
ちなみに御田祭に奉られる杉の実の模擬苗は2束。
4月初旬のころにその模擬苗とともに花を立て、アラレを供えてミナクチマツリをしていた。
昔はどこの家でもしていたが、今はごく数軒になるそうだ。
さて、ツイタチ座の神事であるが、神職は登場しない。
氏子たちだけで斎行される。
この日の目的は三垣内それぞれのトーヤを決めることである。
垣内単位で準備されたコヨリ籤がある。
これらは三方に載せて神社拝殿下の階段に置かれる。
横にお神酒を供える。
仕切りの氏子総代長が前に進み出て一同は揃って拝礼する。
神さんに供えたコヨリ籤であるということであることから引いた籤は神意がくだったということになる。
ちなみにこの日に参集する村の人は3人の氏子総代に笠間を八つの組みに分けた8人総代が行事を進行する。
この日の参拝者は多いという。
神意がくだったコヨリ籤に当たりの印がある。
当たるか当たらないか・・・。
既に籤に当たってトーヤを務めた人はコヨリを引かない。
まだ当たってない人が引くのである。
そういうことでいずれは当たるのである。
供えた三方を抱える氏子総代長。
それぞれの垣内の氏子総代が該当する垣内の束を手にする。
それに群がるように集まってきた氏子たちが籤を引く。
特に引く順番は決まっていない。
先であろうが、後であろうが当たる人が選んだ籤に当たりの印がある。
印は「当」の一文字。
それを引いた人がトーヤになる。
万が一のことであるが、当たりの籤を引いたトーヤに不幸ごとなどが発生すれば替わりの人が務めなければならない。
それを決めるのは「ヒカエ」の籤である。
「ヒカエ」はトーヤの控えである。
当確したトーヤにヒカエは名前を氏子総代長に告げて決定される。
こうしてマツリのトーヤが決まれば道路向かい側の小学校跡地に建つ公民館で直会となる。
指名された自治会長が乾杯の音頭をとって始まった。
(H28.10. 2 EOS40D撮影)
ひょんなことの出会いがあって御田植祭の在り方がわかってきた。
再訪したのはそれから9年後の平成27年6月14日。
その翌年の平成28年3月19日も訪れて行事情報などを教えてもらった。
御田植祭は前週に終わっていたが10月1日の座や第三週目の土曜、日曜にヨイミヤ、マツリがあることを教えてもらった。
座とはどういう行事なのであろうか。
一般的に「座」と言えば宮座の寄り合いで座会食をともに喰する行事である。
お聞きした話によれば宮座の集まりでもなさそうだったが、東・中・西垣内、それぞれの垣内から代表を選出するトーヤ決めコヨリクジがあると聞いていた。
昭和四年調の『大和国神宮神社宮座調査資料』によれば、榛原の笠間には三つの宮座があったようだ。
江戸時代は少人数の座であったが、明治初年に全戸対象とする村座に転換されて3組になったと書かれていたのは東・中・西垣内の三垣内に違いない。
そう判断してやってきた榛原笠間。
何人かの人たちが忙しく動き回っていた。
取材の主旨を伝えて氏子総代長・宮総代のKさんを紹介してもらった。
笠間桜実神社は春日神社。
古いお宮さんと聞いている。
平安神宮の蔵書の中に桜実神社のことが書かれており由緒ある神社と話される。
ここ笠間でできる米は美味しい。
笠間に隣村の安田は朝倉村。
柳本藩の所領だったという。
東大寺、興福寺、談山神社に収穫した米を寄進していた。
そういう記録もあるらしい。
40年前は屋根の葺き替え。
檜皮から銅板に葺き替えたのは23年前の事業だそうだ。
その後の平成25年10月にゾーク(造営事業)をされて本殿、二社末社殿は美しくなった。
朱塗りの社殿は鮮やか。
これも撮っておいて欲しいと云われてシャッターを押す社殿は欅材で土台は栗の木を用いたそうだ。
榛原笠間は平成元年度から7年度にかけて発掘された古墳がある。
埋葬施設は削平されてはいるものの、周辺から出土した大量の翡翠の勾玉。
数えてみれば25個にもなったという昭和7年生まれの氏子総代長。
画文帯神獣鏡の破片も出土したという古墳は澤ノ坊2号墳。
盗掘があったが周辺で見つかったという。
ちなみに詳しい調査報告書は発掘にあたった橿考研が平成3年に刊行した『宇陀を掘る』に纏めているそうだ。
笠間は東・中・西垣内の三垣内からなる。
それぞれの垣内に「オスヤ」と呼んでいる分霊を祀っている。
「オスヤ」は屋根がある家型ヤカタ。
「オスヤ」を祀る家がトーヤ家。
その家に子供も寄ってきて、トーヤ祝いの伊勢音頭を唄っていた。
「ゆうとり」と呼ぶのは湯取り。
それがなんだかはわからない。
さまざまな笠間の在り方を教えてくださるが、話しは突然に飛んでいくので纏まらない。
マツリにヨミヤがある。
ナワカケやオンダもある桜実神社の年中行事であるが、10年ほど前から毎年の日程が替わるようにしたということはこの日も同じの日曜日。
本来はこの日の行事は10月1日。
一日であるからツイタチ座である。
ツイタチ座を充てる漢字はたぶんに朔日座であろう。
ちなみに御田祭に奉られる杉の実の模擬苗は2束。
4月初旬のころにその模擬苗とともに花を立て、アラレを供えてミナクチマツリをしていた。
昔はどこの家でもしていたが、今はごく数軒になるそうだ。
さて、ツイタチ座の神事であるが、神職は登場しない。
氏子たちだけで斎行される。
この日の目的は三垣内それぞれのトーヤを決めることである。
垣内単位で準備されたコヨリ籤がある。
これらは三方に載せて神社拝殿下の階段に置かれる。
横にお神酒を供える。
仕切りの氏子総代長が前に進み出て一同は揃って拝礼する。
神さんに供えたコヨリ籤であるということであることから引いた籤は神意がくだったということになる。
ちなみにこの日に参集する村の人は3人の氏子総代に笠間を八つの組みに分けた8人総代が行事を進行する。
この日の参拝者は多いという。
神意がくだったコヨリ籤に当たりの印がある。
当たるか当たらないか・・・。
既に籤に当たってトーヤを務めた人はコヨリを引かない。
まだ当たってない人が引くのである。
そういうことでいずれは当たるのである。
供えた三方を抱える氏子総代長。
それぞれの垣内の氏子総代が該当する垣内の束を手にする。
それに群がるように集まってきた氏子たちが籤を引く。
特に引く順番は決まっていない。
先であろうが、後であろうが当たる人が選んだ籤に当たりの印がある。
印は「当」の一文字。
それを引いた人がトーヤになる。
万が一のことであるが、当たりの籤を引いたトーヤに不幸ごとなどが発生すれば替わりの人が務めなければならない。
それを決めるのは「ヒカエ」の籤である。
「ヒカエ」はトーヤの控えである。
当確したトーヤにヒカエは名前を氏子総代長に告げて決定される。
こうしてマツリのトーヤが決まれば道路向かい側の小学校跡地に建つ公民館で直会となる。
指名された自治会長が乾杯の音頭をとって始まった。
(H28.10. 2 EOS40D撮影)