マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

米谷町白山比咩神社の宵宮祭

2017年05月31日 02時19分48秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
旧五ケ谷村の一つに米谷町がある。

明治22年に成立した五ケ谷村は先に挙げた先に挙げた米谷町の他、中畑町、興隆寺町、高樋町、虚空蔵町、菩提山町、北椿尾町、南椿尾町の8町からなる。

現町名の奈良市編入は昭和30年の戦後間もないころ。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』がある。

その村史を初めて拝見したのは平成26年1月26日である。

その日の取材地は北椿尾町。

大寒のころに北椿尾稲荷講の講中が山の獣に食べ物を施行する寒施行行事を取材していた。

講中のお一人は大久保垣内に住んでいるⅠさん。

お礼に立ち寄ったお家に村史があると見せてくださった。

その村史はしばらく借りてスキャンコピーしておいた。

旧五ケ谷村のそれぞれの地区ごとで行われている伝統行事を詳細に調査され纏めた記事が載っている。

執筆者は奈良市教育委員会の岩坂七雄氏だけに内容は詳しい。

秋祭りは各大字のトウヤ制度や神饌、座、千本搗きを中心にした報告がある。

中でも年中行事の詳細が書かれている大字は古文書などの紹介もある高樋町と米谷町である。

年中行事の一覧表も参考になる。

また、菩提山町民家の薬師寺花会式の花造りや北椿尾の六斎念仏、米谷町などかつてあった雨乞い行事の太鼓踊り、北椿尾の御陰萬覚帳・米谷町のおかげ踊歌詞章、弘仁寺十三参りのレンゾ、中畑町の勧請縄掛けなども大いに参照できる村史である。

その村史の調査・編纂に関わった人が今年度に村神主として斎主されている九老のNさんであった。

初めてお会いしたのは麦初穂の日。

行事は終わっていたが当月村神主手伝いの佐多人(助侈人とも)のNさんとともにマツリの件を聞かせてもらっていた。

佐多人(さたにん)は毎月に交替する当番の二人。

神社行事に供え物の準備や搬出入、給仕などをお世話する役目をもつ。

米谷町に鎮座する白山比咩神社を訪ねた日は平成27年の10月10日だった。

斎主を務める神職の新谷宮司に聞いて訪れたが、宵宮祭の最中であったことから挨拶は出来ずじまいだった。

だが、先に自宅へ戻られるO婦人に宵宮祭のマメドーヤなどを教えてもらっていた。

宵宮行事のお渡りが出発する場がある。

米谷町精米所利用もある米谷町協同出荷場(郷倉)の2階にある公民館である。

宵宮祭のお渡りは午後4時であるが、午前中にその公民館に立ち寄った。

1階に数人の方がおられた。

挨拶をすれば大唐屋家の方だった。

宵宮祭に明日のお渡りを務めるのは大唐屋家の孫男児。

跡取りである長男児はトウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)を務める。

小唐屋の人とともに先頭を行くそうだ。

村史によれば、昭和初期までの唐屋務めは15歳以上。

村神主より各戸の長男が生まれた順に大唐屋・小唐屋を言い渡したとある。

現在は3月1日の祈年祭の際に行われるフリアゲ(振り上げ)によって大唐屋(年長)・小唐屋(若年)の二人を選んでいるそうだ。

唐屋を務めるのは村で生まれ育った人たちであるが、養子の場合はイリクを認められた人である。

9月7日は唐指し(とうさし)の名がある唐屋受け(とうやうけ)。

十一人衆、3人の氏子総代、トウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)、トウニンゴヒカエ(控え)が神社に参拝される。

両唐屋は10月1日に龍田川に出かけて精進潔斎する龍田垢離(たつたこうり)をする。

昔は斑鳩の龍田川に出かけて潔斎をしていたが、現在は地区の上流にある不動山の清流に、である。

その川で水垢離をされたようだ。

旧五ケ谷村の米谷、北椿尾、高樋のトウニンンゴは菩提山川に出かけて潔斎に水垢離をしていた。

高樋では川の小石を拾って帰ることになっている。

そう書いていたのが『五ケ谷村史』である。

代理でも構わないが予め村神主に伝えて承諾を得ておくらしい。

10月4日はマツリの一週間前。

長老の十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)らの呼び遣いがある。

そのような話しをしてくれた場にこの日に作ったと思われるマツリの道具がある。

伐採した青竹中央に白い布を巻いている。

厚みがあることから肩当てであろう。

両端に裾をカマで伐ったと思われる新穀がある。

稔りの穂がある稲を収穫して氏神さんに奉納するこの名は何であるか、とお聞きしたがわからないようだ。

県内事例の多くにあるこの形。

収穫した稲穂を担ぐことからイネカツギとかイネニナイの呼び名が見られる。

村史にお渡りの行列順が書いてあった。

先頭は村神主、次が御幣持ちの大唐屋。

次に続く小唐屋、前年村神主が担うイネイ(ニ)ナイ(稲担い)、十一人衆、氏子総代。お渡り道中の途中に「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」と叫びながら行くとあった。

イネニナイを置いてある所に2本の葉付きのトウノイモ(唐ノ芋)があった。

これもまた氏神さんへのお供えであろう。

その場には根洗いしたたくさんのゴボウがある。

また、トウノイモに軸のズイキも大量にある。

これらは翌日のマツリに料理されるもの。

収穫したトウノイモはカシライモ(頭芋)と呼んでいた。

それらはニンジンやダイコンとともに煮る。

イモダイコンと呼ばれる料理は2階の公民館で行われる接待招きに来られる宮座十一人衆がよばれる。

接待料理の内容は多いらしい。

大唐屋の親戚も来てもらって料理を作ると話していた。

マツリの日の料理は小唐屋が担うが、宵宮祭は大唐屋。

この日は大量のエダマメを調達・調理される。

氏神さんにも供えるエダマメがあることからマメドウヤの呼び名がある。

それに対してマツリはイモドウヤの名がある。

こうした話を聞いて午後4時から行われる宵宮祭に到着する。

お渡りまでは公民館で宮座を招待した接待料理をいただいていたそうだ。

焼き物は焼鯛。料理は寿司盛り合わせにサトイモ、ダイコン味付け煮込み、サバのキズシ、タコス。

突き出しにブリの照り焼きに野菜類等の三品。

汁椀は豆腐にチクワ若しくはカマボコである。

この場で搗いた粳米四升の鏡餅に手祝餅があるが、拝見はしていない。

到着した時間は午後4時過ぎ。

お渡りはすでに始まっていたが、「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和は聞こえない。

発声はしていないように思えた。

この「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和をする県内事例はままある。

私が取材した範囲内の行事であるが、18事例もある。

地域によってはやや詞章が異なるところもあるが、まだまだ知られていない地域もあるように思えてならない。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身に纏う。

大御幣を持つのは大唐屋であるが、事情によってトウニンゴ(唐人子)代わりの親が持つ。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装はそれぞれの和装姿である。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も・・。

うちお一人がイネニナイ(稲担い)である。

かつては十一人衆を接待していた大唐屋家から出発していたが、現在は公民館から出発する。

そこからは下り道。



道路いっぱいに広がって渡っていた。

その形態は参道に入っても崩さずに渡っていた。



到着すると同時に神社に参拝する。

そのころには予め出仕されていた丹生町在住の新谷宮司と出会う。

祭り始めに一枚の祈年写真を撮って本社殿、拝殿に上がる。

宮司、両唐屋は社殿前。

十一人衆は拝殿の左で右は3人の氏子総代と自治会長役員が就く。

米谷町の戸数は47戸。

後続についていた村の人たちもやってきて参拝する。

本社殿に向かって拝礼。



そして右奥のチンジサンと呼ばれている鎮守社に遥拝所も参拝する。

その間に神饌を供える村神主は忙しく動き回る。

神事は宮司一拝より始まって修祓。



社殿前に並んだ村人に祓いをする。

幼児にとっては感心のないことである。



大唐屋の大御幣は社殿に立てかける。

担いできたイネニナイや3本の葉付きトウノイモも奉納していた社殿前に座る宮司。



祝詞を奏上される。



拝殿中央におられるのは和装大島に袴姿の責任氏子総代。

神事の進行役を務める。

先に玉串を奉奠する宮司。

続いて両唐屋も奉奠される。

その際には十一人衆は頭を下げる。

右にちらりと見えるモノがある。

両唐屋と村神主が座る位置であるが隠れて見えない。

続いての玉串奉奠は氏子代表の村役である。



神事の進行を見守る婦人たちは参籠所でもある直会殿前に座って拝観していた。

直会殿には大量のエダマメが置いてある。

テーブルいっぱいに広げたエダマメは収穫時期を考慮して2カ所で栽培した。



場所も違うし時期も異なるから二種類の味わいがあったようだ。

そのエダマメを食べ始めるのは拝殿におられた十一人衆である。

佐多人は酒の給仕をする。



酒の肴のエダマメを喰う。

これを一献と呼ぶ。

酒はお神酒。

神さんの前で神さんとともに食するのである。

氏子たちは一献が始まる前に直会殿に座っていた。

十一人衆の一献が終われば氏子たちも一献。

給仕の佐多人が「一献 いきまーす」の声が聞こえたら直会殿に居る佐多人が給仕をする。



そして肴のエダマメを食べる。

村人一人、一人に酒を注ぎ回っていく佐多人。

注いでもらってエダマメを食べる。

人数が多いから酒の廻りも時間がかかる。

そのうち「ニ献 いきまーす」の声が聞こえる。



そうすれば佐多人が動いて酒を注ぎ回る。

これを7回も繰り返す呼びつけ七献の酒杯エダマメ喰い。

社殿側も給仕が忙しく七献する。

神主、唐屋、十一人衆の廻りで白いカワラケに酒を注ぐ佐多人は休む間もなく動き回る重要な役割を担う。



午後7時過ぎの3献目のころ、宮司は次の斎主に就く村へ急がねばならない。

頭を下げて先に退席された宮司は「また、山の方へも来てください」と伝えてくれた。

山の方とは山添村の何カ所かである。

何カ所かで行事取材をさせてもらっている。

5時20分は五献。

「五献 いきまーす」の声が聞こえたら「ハーイ」の返事で返す。

それから5分後の25分は六献。

「オーイ」と声があがる。

30分は七献。

「へーい」と応えた。

その間はずっと座していた両唐屋と村神主。

まるで神の遣いのように思えた。

これでやっと終わった米谷町の宵宮祭。

『五ケ谷村史』に、終わりは十一人衆が「トウニン トウニン ワハハイ」を叫んで終えると書いてあったが、私の耳には届かなかったようだ。



こうして解散した時間帯は午後5時半。



村の人たちは残ったエダマメを手にして帰路につくが、十一人衆は拝殿で歓談していた。



まだまだ飲み足らないように思えた宵宮祭に提灯を掲げる家もある。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)