バランの葉にシトギを載せて供える行事がある奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。
氏子たちは鎮座地の佐紀町ではなく二条町になる。
シトギを供える年中行事は一年に3回。
十月の宵宮に翌日のマツリや11月に行われる新嘗祭である。
供えたシトギを御供下げして座小屋でよばれる。
氏子座中はそのシトギをヒトギと呼んでいる。
県内事例においては数少ないシトギを供えると知った写真家Kさんに是非見ていただきたく誘っていた。
年中行事を務める年番当役のトーヤは3軒。
二条町は30戸であることから6~7年に一度の廻りのトーヤ勤めになる。
座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。
白抜き染めの紋は下がり藤。
春日大社と同じような形式をもつ紋であるが、一昨年の平成27年11月23日に行われていた新嘗祭のときに聞いていた幕の新調。
この日の宵宮祭に初張りをすることから3人のトーヤが参集してお祓いをしてもらっていた。
そのつもりで朝にお祓いをしてもらっていたが、今夜の天候は危ぶまれる予報。
折角新調したのに汚れては申しわけないとやむなく復活出番。
それこそ最後のお役目に幕を張った。
その旧幕に「式内佐紀神社 氏子婦人一同」の白抜き文字がある。
寄進者は氏子のご婦人方だった。
氏子一同とか座中、或は大人衆などのようにたいがいは男性であるが、当地では婦人方。
あまり見ることのない、珍しい寄進者である。
亀畑佐紀神社行事のお供えを調えるのは神職である。
材などはトーヤが準備しておく。
それらの御供は座小屋で調整する。
高坏に載せた神饌のなかにシトギがある。
バランの葉の上に乗せて供えるシトギはお店で購入した上新粉をトーヤが加工したもの。
ボールに入れた上新粉に沸かしたお湯を注ぐ。
温度はお風呂と同じぐらい。
かき混ぜた上新粉は手でこねる。
耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。
長老たちが話したかつての作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」である。
秋のマツリは宵宮、本祭の両日に亘って拝殿前に屋根付き提灯立てを設える。
屋根付き提灯立てを倒れないように土中に埋め込んだ支柱で支える。
固定するのはボルト・ナットではなく木片である。
ホゾ穴に木片を通して固定する。
四つの提灯を吊るす枠は紐を操作して上下に稼動できる仕組みだ。
神職に祓ってもらったトーヤの御幣と神酒口をそこに揚げる。
そのために一旦は紐を降ろして下げる。
梯子を遣えばいいものだと思ったが当地ではこうした作業で調えていた。
神酒口もそうするのかと思えば違った。
神酒口を載せる台がある。
背を伸ばせばそこに届く範囲内。
いとも簡単に載せていく。
丁度、調えたころに参られる人もいる。
正装のスーツ姿の氏子たち。
座入りした男性は拝殿に上がることができるが、トーヤ家の婦人であっても拝殿下で見守る。
いつもそうされている。
かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。
座小屋に一枚の記念写真がある。
「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真である。
当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。
神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠などである。
始めに神職が幣をもって移動した。
座小屋の裏にある祓戸社に参って修祓をされる。
その場は清めの塩を撒いていた。
神聖な場であるが、氏子たちはその場に並ばない。
戻ってきて社殿前の境内に集まっていた氏子に修祓。
神々しくも祓えの幣に光があたる場であった。
次が献饌。
座小屋に納めていた神饌を手渡しで本殿に移していく。
シトギの杯もこうして渡される。
祝詞奏上、長老の玉串奉奠に撤饌などを見守る婦人たちは座小屋の扉辺りに並んで見ていた。
亀畑佐紀神社の神事はこれで終わりではない。
一同は揃って場を移すのである。
神饌ものを抱える氏子たちの先頭を行くのは神職。
向かう先は階段を下りた鳥居の真ん前。
弁財天社に於いても神事が行われる。
神饌を献じて祝詞奏上、玉串奉奠。
そして、神社に戻るかと思えば、そうではなく。
北に数百メートルを歩く。
隊列を組むことなく歩く。
その場は森の中。
内部に佇む場に社殿がある。
その社殿は「ゴマンドウ」。
充てる漢字は護摩堂である。
平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。
境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。
前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構の護摩堂であるが、社殿造りで建てられた。
この場に於いても神饌を供えて神事を行う。
こうした一連の参拝を済ませて直会の座小屋に場を移す。
場を調えるまでの間である。
拝殿に置いてあったお供え物に目がいった。
相当古いと思える年代物の桶にいっぱいのリンゴがある。
桶には蓋もないし、年代を示す文字も見当たらないが、黒光りから想定するに相当な年代物だと推定する。
担ぐようなこともなかった桶に盛っている真っ赤なリンゴである。
重さがあったことからなのか聞いていないが、先に本殿に供えていたのである。
シトギなどの神饌ものは手渡しの献饌、撤饌であったが、このリンゴは扱いが違った。
現在はリンゴであるが、かつては柿であったと云う。
その時代は二老のKさんの親父さんのころにあったという。
マツリが終われば1軒に2個ずつ配るリンゴは座受けのリンゴ。
昔は男の数だけ貰っていたという。
男の子ができたときは「子酒料(こしゅりょう)」を納める。
納めることで座受けされる。
神事を終えた氏子たちは昭和41年10月12日に竣工した座小屋にあがる。
座は西の座、東の座に分かれて座る。
初めに年番の人が折敷を席に置く。
お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた氏子一人ずつにお神酒を注ぐ。
乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。
まずは一献ということである。
熱燗の二献、ヒトギ(シトギ)喰い、お重詰めの酒の肴などの作法もあるが、次の取材に間に合わせなくてはならない。
申しわけないが、この時点で失礼させてもらった。
(H28.10. 8 EOS40D撮影)
氏子たちは鎮座地の佐紀町ではなく二条町になる。
シトギを供える年中行事は一年に3回。
十月の宵宮に翌日のマツリや11月に行われる新嘗祭である。
供えたシトギを御供下げして座小屋でよばれる。
氏子座中はそのシトギをヒトギと呼んでいる。
県内事例においては数少ないシトギを供えると知った写真家Kさんに是非見ていただきたく誘っていた。
年中行事を務める年番当役のトーヤは3軒。
二条町は30戸であることから6~7年に一度の廻りのトーヤ勤めになる。
座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。
白抜き染めの紋は下がり藤。
春日大社と同じような形式をもつ紋であるが、一昨年の平成27年11月23日に行われていた新嘗祭のときに聞いていた幕の新調。
この日の宵宮祭に初張りをすることから3人のトーヤが参集してお祓いをしてもらっていた。
そのつもりで朝にお祓いをしてもらっていたが、今夜の天候は危ぶまれる予報。
折角新調したのに汚れては申しわけないとやむなく復活出番。
それこそ最後のお役目に幕を張った。
その旧幕に「式内佐紀神社 氏子婦人一同」の白抜き文字がある。
寄進者は氏子のご婦人方だった。
氏子一同とか座中、或は大人衆などのようにたいがいは男性であるが、当地では婦人方。
あまり見ることのない、珍しい寄進者である。
亀畑佐紀神社行事のお供えを調えるのは神職である。
材などはトーヤが準備しておく。
それらの御供は座小屋で調整する。
高坏に載せた神饌のなかにシトギがある。
バランの葉の上に乗せて供えるシトギはお店で購入した上新粉をトーヤが加工したもの。
ボールに入れた上新粉に沸かしたお湯を注ぐ。
温度はお風呂と同じぐらい。
かき混ぜた上新粉は手でこねる。
耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。
長老たちが話したかつての作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」である。
秋のマツリは宵宮、本祭の両日に亘って拝殿前に屋根付き提灯立てを設える。
屋根付き提灯立てを倒れないように土中に埋め込んだ支柱で支える。
固定するのはボルト・ナットではなく木片である。
ホゾ穴に木片を通して固定する。
四つの提灯を吊るす枠は紐を操作して上下に稼動できる仕組みだ。
神職に祓ってもらったトーヤの御幣と神酒口をそこに揚げる。
そのために一旦は紐を降ろして下げる。
梯子を遣えばいいものだと思ったが当地ではこうした作業で調えていた。
神酒口もそうするのかと思えば違った。
神酒口を載せる台がある。
背を伸ばせばそこに届く範囲内。
いとも簡単に載せていく。
丁度、調えたころに参られる人もいる。
正装のスーツ姿の氏子たち。
座入りした男性は拝殿に上がることができるが、トーヤ家の婦人であっても拝殿下で見守る。
いつもそうされている。
かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。
座小屋に一枚の記念写真がある。
「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真である。
当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。
神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠などである。
始めに神職が幣をもって移動した。
座小屋の裏にある祓戸社に参って修祓をされる。
その場は清めの塩を撒いていた。
神聖な場であるが、氏子たちはその場に並ばない。
戻ってきて社殿前の境内に集まっていた氏子に修祓。
神々しくも祓えの幣に光があたる場であった。
次が献饌。
座小屋に納めていた神饌を手渡しで本殿に移していく。
シトギの杯もこうして渡される。
祝詞奏上、長老の玉串奉奠に撤饌などを見守る婦人たちは座小屋の扉辺りに並んで見ていた。
亀畑佐紀神社の神事はこれで終わりではない。
一同は揃って場を移すのである。
神饌ものを抱える氏子たちの先頭を行くのは神職。
向かう先は階段を下りた鳥居の真ん前。
弁財天社に於いても神事が行われる。
神饌を献じて祝詞奏上、玉串奉奠。
そして、神社に戻るかと思えば、そうではなく。
北に数百メートルを歩く。
隊列を組むことなく歩く。
その場は森の中。
内部に佇む場に社殿がある。
その社殿は「ゴマンドウ」。
充てる漢字は護摩堂である。
平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。
境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。
前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構の護摩堂であるが、社殿造りで建てられた。
この場に於いても神饌を供えて神事を行う。
こうした一連の参拝を済ませて直会の座小屋に場を移す。
場を調えるまでの間である。
拝殿に置いてあったお供え物に目がいった。
相当古いと思える年代物の桶にいっぱいのリンゴがある。
桶には蓋もないし、年代を示す文字も見当たらないが、黒光りから想定するに相当な年代物だと推定する。
担ぐようなこともなかった桶に盛っている真っ赤なリンゴである。
重さがあったことからなのか聞いていないが、先に本殿に供えていたのである。
シトギなどの神饌ものは手渡しの献饌、撤饌であったが、このリンゴは扱いが違った。
現在はリンゴであるが、かつては柿であったと云う。
その時代は二老のKさんの親父さんのころにあったという。
マツリが終われば1軒に2個ずつ配るリンゴは座受けのリンゴ。
昔は男の数だけ貰っていたという。
男の子ができたときは「子酒料(こしゅりょう)」を納める。
納めることで座受けされる。
神事を終えた氏子たちは昭和41年10月12日に竣工した座小屋にあがる。
座は西の座、東の座に分かれて座る。
初めに年番の人が折敷を席に置く。
お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた氏子一人ずつにお神酒を注ぐ。
乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。
まずは一献ということである。
熱燗の二献、ヒトギ(シトギ)喰い、お重詰めの酒の肴などの作法もあるが、次の取材に間に合わせなくてはならない。
申しわけないが、この時点で失礼させてもらった。
(H28.10. 8 EOS40D撮影)