古くは葛大明神の名で呼ばれていた山添村室津の戸隠神社の境内社は九社ある。
本社殿、戸隠神社がある二ノ鳥居内にもう一社ある。
それは春日神社である。
本社殿に上り下りする階段左右にそれぞれ4社。
右端から金毘羅神社、杵築神社、五穀神社、春日神社があり、階段を挟んで宗像神社、山神社、水神社、二柱神社の並びである。
拝殿は舞殿のような形式であるが拝殿である。
室津の祭りの神歌(ウタヨミ)を奉納する場は本社殿の前であるから階段下の建物が拝殿であることがよくわかる。
ただ、雨天の場合は本社殿ではなく拝殿で行われる。
そういうこともあって舞殿でもあるわけだ。
山添村室津と奈良市北野山町の戸隠神社は、戦国期の一六世紀初めに山添村桐山の戸隠神社から分祀された伝えがある。
大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「往古本社ハ桐山村に鎮座シ、室津・北野山ノ三ヶ村共社タリシニ、永正五年間(1508~)に現在ノ社地に分離セシ事、口碑ニ伝ハル」とある。
元々は山添村桐山に鎮座する戸隠神社は室津と北野山町も関係する三村共同体の神社であった。
村別れするまでは桐山を中心に桐山はもちろん、室津、北野山の三カ大字が一年交替に桐山の戸隠神社に奉納する「神歌」であった。
その三村が交替奉納する形態は隣村の峰寺、松尾、的野も同じである。
峰寺に鎮座する六所神社の祭りに峰寺はもちろん、松尾、的野の三カ大字が一年交替に、今もなお峰寺の六所神社に「ジンパイ(神拝)或は豊田楽」奉納しているのだ。
桐山から別れた室津、北野山の「神歌」の謡いの詞章がよく似ている。
詞章は長い年月を経て変化してきたと考えられる。
所作もそうだが、詞章に多少の違いがみえる。
それぞれが独自に発展した可能性もあるだろう。
平成26年3月、奈良県教育委員会が編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』にある青盛透氏の「奈良県の翁舞・田楽・相撲―東山中の秋祭りに伝承される中世的芸能の緒相―」、藤田隆則氏の「民俗芸能保存の仕組み―奈良県の民俗芸能から―」の各論が参考になる。
室津は19戸の集落。
南出、北出、下出の三垣内からなる。
村にはオトナと呼ばれる年長者が居る。昔は四人だったというオトナは氏子総代役目を終えて引退する。
引退した者の中から76歳までの上の者がオトナになる。
現在のオトナは5人。
「今日は滞りなく云々・・」と挨拶されるのがオトナ。
昔は一老が神主を務めていた。
そして、3人の氏子総代が宮さん関係の奉仕活動をする。
大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「本村ニテハ一老ヨリ四老迄アリテ是レヲ俗ニ「オトナ」ト名ケ、各四老ハ壱年交代ヲ以テ三大祭、毎月々並祭ノ神饌物及御供物ヲ献納スル慣例ニシテ、神職ノ接待、渡式ニ列スル者ノ斡旋指揮ヲナス・・・中略・・・神社事務ニ付キテハ余リ四老ハ関渉セズ」である。
早朝に当屋家に集まった渡り衆は大御幣など祭り道具を作っている間、神社ではオトナや神社総代が忙しく動いていた。
オトナが作る御供にモッソがある。
蒸しご飯は五つ。
三升の餅米を二度も蒸したご飯を提供したのは村人の御供当番のモッソ当番。
一方、一年に5回も御供する白餅を提供する餅当番もいる。
いずれも一回辺りが三升になるという御供当番の役目。
前夜の宵宮に白餅を提供していたのは餅当番であった。
なだらかな山を想定できる円錐形に調えるモッソ作りに藁の紐でモッソ周りを締めてできあがる。
結び藁は七段、五段(2個)、三段(2個)とそれぞれ。
これを七・五・三と呼んでいた。
このモッソの形は桐山の祭りとほとんど同型である。
拝殿に並べたモッソ御供は左から7本、5本、3本、3本、5本。
違いがわかりにくいが、藁の先をピンと伸ばしたところに特徴がある。
モッソ状況を確認して当屋家に向かう。
それほど遠くではないが、お家に向かう道は急坂だ。
心臓リハビリの運動と思って力を込めて登った。
当屋家では神歌(ウタヨミ)の稽古を終えて祭り道具を作っていた。
当屋持ちの大御幣と渡り衆の一人が持つ中幣はできあがっていた。
テーブルを囲んで幣切り作業をしていた渡り衆。
緑色、黄色、赤色、白色、紫色の幣は5枚重ね。
すべて同じサイズに切る。
錐で穴を開けて通した紅白の水引で結ぶ。
これを渡り衆に当屋も被る。
形を調えてできあがり。
後ろから拝見するとこのように揺らいでいることがわかる。
この形式は峰寺の六所神社に参詣する峰寺、松尾、的野と同じように侍烏帽子(つば黒烏帽子)に付けるが、幣は赤紙一枚にそれを取り外せるようにピン止めしていた。
こうした作業を終えて祭り道具が揃ったら出発だ。
お渡りは始めに当屋家の玄関前に並んで楽奏する。
音色は「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
これを3度繰り返す。
宵宮のときとの違いは御幣である。
当屋主人の息子さんが持つ御幣は大御幣。
渡り衆の一人は大御幣よりやや小型の中幣。
その次に並ぶのは擦り鉦、締太鼓、ササラ(※ビンザサラ)に横笛である。
御幣持ちは手前にやや下げて傾けるような角度で支えながら先頭を行く。
御幣の持ち方は捧持(ほうじ)。
高く奉げて持つことをそういう。
一同は下駄履き。
カランコロンとお渡りの音がする。
実はここでは映っていないが、実際は当屋主人の子供さんがついていた。
宵宮もそうした子供さんは正装である。
当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回打ち鳴らして囃す。
幾たびかの間を開けて楽奏する。
稲刈りを終えていた田園景観に祭りの音色が広がった。
当屋家は宵宮のときも映っていたが、辺りは真っ暗。
窓明かりだけが輝いていたが、この日は快晴。
美しい室津の山間の田園風景を写し込んで撮っていた。
石垣の上に鎮座する神社境内には村の人たちが待っている。
戸隠神社の鳥居下の階段前に着けば整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
階段を登って朱の鳥居も潜る。
参進はあっという間に着く拝殿前。
小社が並ぶ位置に並んでここでも3回打ち鳴らす「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
この日の祭り御供はモッソと白餅である。
拝殿にもモッソ御供がある。
本社の神饌御供に献ずるモッソにコイモが三つ。
サイラ(開き)の生干しカマスが一尾。
一膳の箸を添えている。
かつてはカエデの木で作っていた箸であるが、今は市販品に替わったようだ。
ちなみに『添上郡東山村役場 神社調査書』には「十月十五日ハ毎年例祭ニテ當日ハ午前中ヨリ当屋ニ集リ御幣二本ヲ造リ午前十一時ヨリ神社ニ渡式スルモノトス。其儀式ハ宵宮祭りト同様ナリ。サレド当屋主人ト楽人最年長者ハ御幣ヲ捧持シテ渡ルモノナリ。式了ヘ皈(※帰)路左ノ歌ヲ繰返シ謡フ」と書かれていた。
下駄から草履に履き替えた渡り衆と当屋は本社に向かうために石段を上がる。
下からでは一切が見えないが、本社に捧持した大御幣と中幣は左右に振って高く突きあげたようだ。
この作法は神さんに御幣を奉げる奉幣振りの作法であろう。
宵宮と同様に神饌御供。
村神主によって献酒されたようだ。
それから始まる渡り衆による神歌奉納。
宵宮と同様に壱番、“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>を謡う。
弐番は“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ” (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり” <住吉のまつや入道>だ。
参番は“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし” <住吉のまつや入道>。
この参番の所作だけが神前より右に廻りつつ四方に礼拝される。
神前に神歌を奉納し終えた一行は下って横一列に並び一礼して終える。
本殿にある当屋の御幣に向けてだろうか、拝礼して下がる。
そして、宵宮同様に公民館に移動する。
公民館の前に並んで囃す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
この作法を済ませてから公民館に上がる。
上がるのは玄関からではなく縁からである。
後に行われる当屋家に上がるときも同じく縁からである。
こうした在り方は近隣の桐山、峰寺、松尾、的野も同じである。
尤も当屋家を公民館に移した大字もあるが、いずれも縁から上がるのである。
御供下げしたモッソ御供は公民館に運んで調理される。
生干しカマスはコンロで焼いて直会の肴にだす。
上座の席についた一行を迎えるのはオトナや氏子総代、氏子たち。
女性はこの場に上がることはない。
白餅は高坏ごと下げて目の前に並べた。
一行が侍烏帽子(つば黒烏帽子)につけていた五色の幣を外して座に置いている。
この五色幣は参拝していた子どもたちに配られる。
実際は取りにくる子どももなく代理の者が受け取って直会が終わってから配るらしい。
オトナが一同を迎えて、「おめでとうございます」と口上を述べる。
それからよばれるモッソ御供。
手伝い役は御供台ごと持って酒を注ぎ回る。
その際にいただくモッソはカエデで作った箸摘まみ。
尤も現在はカエデで作ることもなく市販品の箸になったが、席についた村の人たちは手で受けていただいていた。
焼いたカマスは手で摘まむわけにはいかず用意された一般的な箸でいただいていた。
直会の肴はそれだけでなく宵宮と同様にジャコもある。
神さんに神歌をもって奉げてもらった渡り衆を慰労する直会である。
直会はおよそ20分間。
退座された一行は上がるときと同じ縁から下りる。
そしてお礼に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
神社鳥居下に並んで「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
こうして村の祭りを終えて当屋家に戻っていった。
(H28.10.16 EOS40D撮影)
本社殿、戸隠神社がある二ノ鳥居内にもう一社ある。
それは春日神社である。
本社殿に上り下りする階段左右にそれぞれ4社。
右端から金毘羅神社、杵築神社、五穀神社、春日神社があり、階段を挟んで宗像神社、山神社、水神社、二柱神社の並びである。
拝殿は舞殿のような形式であるが拝殿である。
室津の祭りの神歌(ウタヨミ)を奉納する場は本社殿の前であるから階段下の建物が拝殿であることがよくわかる。
ただ、雨天の場合は本社殿ではなく拝殿で行われる。
そういうこともあって舞殿でもあるわけだ。
山添村室津と奈良市北野山町の戸隠神社は、戦国期の一六世紀初めに山添村桐山の戸隠神社から分祀された伝えがある。
大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「往古本社ハ桐山村に鎮座シ、室津・北野山ノ三ヶ村共社タリシニ、永正五年間(1508~)に現在ノ社地に分離セシ事、口碑ニ伝ハル」とある。
元々は山添村桐山に鎮座する戸隠神社は室津と北野山町も関係する三村共同体の神社であった。
村別れするまでは桐山を中心に桐山はもちろん、室津、北野山の三カ大字が一年交替に桐山の戸隠神社に奉納する「神歌」であった。
その三村が交替奉納する形態は隣村の峰寺、松尾、的野も同じである。
峰寺に鎮座する六所神社の祭りに峰寺はもちろん、松尾、的野の三カ大字が一年交替に、今もなお峰寺の六所神社に「ジンパイ(神拝)或は豊田楽」奉納しているのだ。
桐山から別れた室津、北野山の「神歌」の謡いの詞章がよく似ている。
詞章は長い年月を経て変化してきたと考えられる。
所作もそうだが、詞章に多少の違いがみえる。
それぞれが独自に発展した可能性もあるだろう。
平成26年3月、奈良県教育委員会が編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』にある青盛透氏の「奈良県の翁舞・田楽・相撲―東山中の秋祭りに伝承される中世的芸能の緒相―」、藤田隆則氏の「民俗芸能保存の仕組み―奈良県の民俗芸能から―」の各論が参考になる。
室津は19戸の集落。
南出、北出、下出の三垣内からなる。
村にはオトナと呼ばれる年長者が居る。昔は四人だったというオトナは氏子総代役目を終えて引退する。
引退した者の中から76歳までの上の者がオトナになる。
現在のオトナは5人。
「今日は滞りなく云々・・」と挨拶されるのがオトナ。
昔は一老が神主を務めていた。
そして、3人の氏子総代が宮さん関係の奉仕活動をする。
大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「本村ニテハ一老ヨリ四老迄アリテ是レヲ俗ニ「オトナ」ト名ケ、各四老ハ壱年交代ヲ以テ三大祭、毎月々並祭ノ神饌物及御供物ヲ献納スル慣例ニシテ、神職ノ接待、渡式ニ列スル者ノ斡旋指揮ヲナス・・・中略・・・神社事務ニ付キテハ余リ四老ハ関渉セズ」である。
早朝に当屋家に集まった渡り衆は大御幣など祭り道具を作っている間、神社ではオトナや神社総代が忙しく動いていた。
オトナが作る御供にモッソがある。
蒸しご飯は五つ。
三升の餅米を二度も蒸したご飯を提供したのは村人の御供当番のモッソ当番。
一方、一年に5回も御供する白餅を提供する餅当番もいる。
いずれも一回辺りが三升になるという御供当番の役目。
前夜の宵宮に白餅を提供していたのは餅当番であった。
なだらかな山を想定できる円錐形に調えるモッソ作りに藁の紐でモッソ周りを締めてできあがる。
結び藁は七段、五段(2個)、三段(2個)とそれぞれ。
これを七・五・三と呼んでいた。
このモッソの形は桐山の祭りとほとんど同型である。
拝殿に並べたモッソ御供は左から7本、5本、3本、3本、5本。
違いがわかりにくいが、藁の先をピンと伸ばしたところに特徴がある。
モッソ状況を確認して当屋家に向かう。
それほど遠くではないが、お家に向かう道は急坂だ。
心臓リハビリの運動と思って力を込めて登った。
当屋家では神歌(ウタヨミ)の稽古を終えて祭り道具を作っていた。
当屋持ちの大御幣と渡り衆の一人が持つ中幣はできあがっていた。
テーブルを囲んで幣切り作業をしていた渡り衆。
緑色、黄色、赤色、白色、紫色の幣は5枚重ね。
すべて同じサイズに切る。
錐で穴を開けて通した紅白の水引で結ぶ。
これを渡り衆に当屋も被る。
形を調えてできあがり。
後ろから拝見するとこのように揺らいでいることがわかる。
この形式は峰寺の六所神社に参詣する峰寺、松尾、的野と同じように侍烏帽子(つば黒烏帽子)に付けるが、幣は赤紙一枚にそれを取り外せるようにピン止めしていた。
こうした作業を終えて祭り道具が揃ったら出発だ。
お渡りは始めに当屋家の玄関前に並んで楽奏する。
音色は「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
これを3度繰り返す。
宵宮のときとの違いは御幣である。
当屋主人の息子さんが持つ御幣は大御幣。
渡り衆の一人は大御幣よりやや小型の中幣。
その次に並ぶのは擦り鉦、締太鼓、ササラ(※ビンザサラ)に横笛である。
御幣持ちは手前にやや下げて傾けるような角度で支えながら先頭を行く。
御幣の持ち方は捧持(ほうじ)。
高く奉げて持つことをそういう。
一同は下駄履き。
カランコロンとお渡りの音がする。
実はここでは映っていないが、実際は当屋主人の子供さんがついていた。
宵宮もそうした子供さんは正装である。
当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回打ち鳴らして囃す。
幾たびかの間を開けて楽奏する。
稲刈りを終えていた田園景観に祭りの音色が広がった。
当屋家は宵宮のときも映っていたが、辺りは真っ暗。
窓明かりだけが輝いていたが、この日は快晴。
美しい室津の山間の田園風景を写し込んで撮っていた。
石垣の上に鎮座する神社境内には村の人たちが待っている。
戸隠神社の鳥居下の階段前に着けば整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
階段を登って朱の鳥居も潜る。
参進はあっという間に着く拝殿前。
小社が並ぶ位置に並んでここでも3回打ち鳴らす「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
この日の祭り御供はモッソと白餅である。
拝殿にもモッソ御供がある。
本社の神饌御供に献ずるモッソにコイモが三つ。
サイラ(開き)の生干しカマスが一尾。
一膳の箸を添えている。
かつてはカエデの木で作っていた箸であるが、今は市販品に替わったようだ。
ちなみに『添上郡東山村役場 神社調査書』には「十月十五日ハ毎年例祭ニテ當日ハ午前中ヨリ当屋ニ集リ御幣二本ヲ造リ午前十一時ヨリ神社ニ渡式スルモノトス。其儀式ハ宵宮祭りト同様ナリ。サレド当屋主人ト楽人最年長者ハ御幣ヲ捧持シテ渡ルモノナリ。式了ヘ皈(※帰)路左ノ歌ヲ繰返シ謡フ」と書かれていた。
下駄から草履に履き替えた渡り衆と当屋は本社に向かうために石段を上がる。
下からでは一切が見えないが、本社に捧持した大御幣と中幣は左右に振って高く突きあげたようだ。
この作法は神さんに御幣を奉げる奉幣振りの作法であろう。
宵宮と同様に神饌御供。
村神主によって献酒されたようだ。
それから始まる渡り衆による神歌奉納。
宵宮と同様に壱番、“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>を謡う。
弐番は“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ” (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり” <住吉のまつや入道>だ。
参番は“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし” <住吉のまつや入道>。
この参番の所作だけが神前より右に廻りつつ四方に礼拝される。
神前に神歌を奉納し終えた一行は下って横一列に並び一礼して終える。
本殿にある当屋の御幣に向けてだろうか、拝礼して下がる。
そして、宵宮同様に公民館に移動する。
公民館の前に並んで囃す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
この作法を済ませてから公民館に上がる。
上がるのは玄関からではなく縁からである。
後に行われる当屋家に上がるときも同じく縁からである。
こうした在り方は近隣の桐山、峰寺、松尾、的野も同じである。
尤も当屋家を公民館に移した大字もあるが、いずれも縁から上がるのである。
御供下げしたモッソ御供は公民館に運んで調理される。
生干しカマスはコンロで焼いて直会の肴にだす。
上座の席についた一行を迎えるのはオトナや氏子総代、氏子たち。
女性はこの場に上がることはない。
白餅は高坏ごと下げて目の前に並べた。
一行が侍烏帽子(つば黒烏帽子)につけていた五色の幣を外して座に置いている。
この五色幣は参拝していた子どもたちに配られる。
実際は取りにくる子どももなく代理の者が受け取って直会が終わってから配るらしい。
オトナが一同を迎えて、「おめでとうございます」と口上を述べる。
それからよばれるモッソ御供。
手伝い役は御供台ごと持って酒を注ぎ回る。
その際にいただくモッソはカエデで作った箸摘まみ。
尤も現在はカエデで作ることもなく市販品の箸になったが、席についた村の人たちは手で受けていただいていた。
焼いたカマスは手で摘まむわけにはいかず用意された一般的な箸でいただいていた。
直会の肴はそれだけでなく宵宮と同様にジャコもある。
神さんに神歌をもって奉げてもらった渡り衆を慰労する直会である。
直会はおよそ20分間。
退座された一行は上がるときと同じ縁から下りる。
そしてお礼に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
神社鳥居下に並んで「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。
こうして村の祭りを終えて当屋家に戻っていった。
(H28.10.16 EOS40D撮影)