石売りをする子どもたちは3歳児から小学生まで。
今年は4人になると聞いた1カ月前。
立ち寄った山添村の吉田。
岩尾神社で行われる石売り行事の取材願いであったが、当日はどうしても都合がつかなくなった。
お詫びを申し上げるついでといえば叱られるが、祭りの前日の宵宮に伺った。
岩尾神社の石売り行事は平成24年10月21日に取材したことがある。
この日に石を売っていた子どもたちは5人だった。
同日、石売り行事を終えたら場を替えて座の饗膳が行われる。
それも取材させてもらった。
ところが前日に行われる宵宮は伺うことができずに数年経っていた。
座の料理は簡略化され、かつての面影もないと話していた。
こうして訪れた吉田は明日の祭りの場を調えていた。
神社に登る参道道には屋根付きの提灯立てに提灯を架けていた。
座の饗応の場になる会所の前に幕を張っていた。
昭和48年3月に寄進された白幕は岩尾大明神の御紋を染めている。
その場は外に設えた仮宮。
女性が座って膳をよばれる場である。
この日は宵宮。
会所の外では婦人たちが翌日の饗膳の汁椀に入れるサトイモを茹でていた。
プロパンの火力が弱いからなのか、それとも買ってきた冷凍のサトイモだからなかなか煮たらないのか時間がかかる。
もっと柔らかな感じにならんと云いながら火の番をしていた。
定刻時間ともなれば男の人たちは座に上がる。
本尊を安置する自作寺でもある会所の床の間は岩尾大明神。
正面に掲げる掛軸は天照皇大神。
お伊勢さんであるが、両側の神さんのうち左側が岩尾大明神のようで「岩尾大御神」が名号。
床の間に当屋の御幣を祭ってお神酒を供えた。
本殿に登ることなくこの場で祭典が行われる宵宮の日。
実は午前10時は宵宮。
次年度の当屋決めをしていたそうだ。
詳しくはお聞きしていないが、『やまぞえ双書』によれば、帳箱を開き、故人となった祭中の帳消しや新氏子の帳付けならびに次年度の当屋決めである。
今は会所になっているが、かつては大当屋の家で座をしていた。
当屋は長老というか年齢順に下っていた。
戸数が少なくなり、いつしか家並びの順になった。
婿入りの人も当屋になれば御幣を奉げる。
引き渡しの箱の中にはそういったことを書いている帳面があるらしい。
この場に集まった人たちは老大人(おとな)衆に一老の村神主、当屋である。
今年は服忌が多くて欠席の人が多いらしい。
石売りに登場する子どもの家も服忌で参列できない。
対象の子どもは13歳の小学生まで。
その家の49日も済んでおれば参列できるが、明日のことでは到底無理である。
参拝者は少なくなったが祭典が始まった。
特に拝礼もなく座中に差し出されるアゼマメ。
塩茹でした枝豆である。
膳に載った枝豆が廻ってくれば枝から千切って半紙を広げた我が席の場に置く。
そうすれば一献。
簡略化するまでは献に口上を述べていた。
これもまた『やまぞえ双書』の引用であるが、月番が「例年のとおり、お神酒をいただきましたので、回りましたらお上がりください」と述べる始まりの口儀であった。
が、これもまた改正されて口儀も廃止された。
廃止されるまでの饗膳料理は枝豆と塩漬けした大根青葉の重箱であった。
平成24年に訪れた祭りの日に塩漬けの大根青菜は辞めたと聞いていたから枝豆だけである。
その昔の平成4年当時の宵宮饗膳は小皿に盛った大根青葉に鰯の昆布巻きもあった。
牛蒡に芋、大根の煮しめもあったし、高盛りの蒸しあげ餅米のつくねに茄子の汁椀もあった。
手間のかかる膳料理は大幅に改正されたのである。
冷酒の一献が一回りすれば枝豆を食べる。
二献目は冷酒から熱燗に移る。
これは祭りと同じである。
そして、三献はとりあえずのダメ酒だと云って「あとはご自由に」の声に酒杯は延々と続く。
吉田の当屋は6人もいる。
当屋は寺行事も務める交替制の月当番当屋である。
昔は子供ができたときに村入り・氏子入りとなり祭帳に記帳される。
大字で生まれた子ども、婿入り養子も村入り・氏子になる。
その入り順に従う年齢順に3人の本当屋が決まる。
そのうちの年長一人が大当屋を務めていたそうだ。
大字吉田は40戸もあったが今は32戸。
春の3月に田楽講がある。
秋の11月はホンコ(本講)がある。
60歳の還暦を迎えた人は老大人(おとな)入りする。
老大人はおとな講がある。
うち一人が宮守を務める。
宮守はおとな講のなかでも最長老の神主となる。
その下に氏子総代が続くという。
床の間に奉った御幣は大当屋が祭りに渡るときにもつ。
会所に集まって9時半には岩尾神社を目指して出発する。
昔は大当屋の家からであったから遠い、近いで渡りの時間に左右する。
今は会所が大当屋の家に見立てているからすぐそこだ。
神社の裏手にあった道は伊勢街道であった。
山ももっていたし伊勢講もあった。
お伊勢さんに参って吉田に戻ってきたときは「オドリコミ」もしていた。
かれこれ20年前のことである。
その当時の伊勢講のヤドは家であった。
伊勢講は7、8軒が組んで一組の伊勢講を営んでいた。
講組織は吉田に3、4組もあったという。
今だからこそ言えるが昔は「どぶ」を作って飲んでいた。
「どぶ」はどぶろくの酒である。
そんな話題を提供してくれた宵宮の座もそろそろお開きである。
1カ月前に応対してくれたOさんは服忌で来られなかったが、4年前に務めた前区長のYさんや老大人、氏子総代、大当屋たちが温かくもてなししてくださった。
(H28.10.15 EOS40D撮影)
今年は4人になると聞いた1カ月前。
立ち寄った山添村の吉田。
岩尾神社で行われる石売り行事の取材願いであったが、当日はどうしても都合がつかなくなった。
お詫びを申し上げるついでといえば叱られるが、祭りの前日の宵宮に伺った。
岩尾神社の石売り行事は平成24年10月21日に取材したことがある。
この日に石を売っていた子どもたちは5人だった。
同日、石売り行事を終えたら場を替えて座の饗膳が行われる。
それも取材させてもらった。
ところが前日に行われる宵宮は伺うことができずに数年経っていた。
座の料理は簡略化され、かつての面影もないと話していた。
こうして訪れた吉田は明日の祭りの場を調えていた。
神社に登る参道道には屋根付きの提灯立てに提灯を架けていた。
座の饗応の場になる会所の前に幕を張っていた。
昭和48年3月に寄進された白幕は岩尾大明神の御紋を染めている。
その場は外に設えた仮宮。
女性が座って膳をよばれる場である。
この日は宵宮。
会所の外では婦人たちが翌日の饗膳の汁椀に入れるサトイモを茹でていた。
プロパンの火力が弱いからなのか、それとも買ってきた冷凍のサトイモだからなかなか煮たらないのか時間がかかる。
もっと柔らかな感じにならんと云いながら火の番をしていた。
定刻時間ともなれば男の人たちは座に上がる。
本尊を安置する自作寺でもある会所の床の間は岩尾大明神。
正面に掲げる掛軸は天照皇大神。
お伊勢さんであるが、両側の神さんのうち左側が岩尾大明神のようで「岩尾大御神」が名号。
床の間に当屋の御幣を祭ってお神酒を供えた。
本殿に登ることなくこの場で祭典が行われる宵宮の日。
実は午前10時は宵宮。
次年度の当屋決めをしていたそうだ。
詳しくはお聞きしていないが、『やまぞえ双書』によれば、帳箱を開き、故人となった祭中の帳消しや新氏子の帳付けならびに次年度の当屋決めである。
今は会所になっているが、かつては大当屋の家で座をしていた。
当屋は長老というか年齢順に下っていた。
戸数が少なくなり、いつしか家並びの順になった。
婿入りの人も当屋になれば御幣を奉げる。
引き渡しの箱の中にはそういったことを書いている帳面があるらしい。
この場に集まった人たちは老大人(おとな)衆に一老の村神主、当屋である。
今年は服忌が多くて欠席の人が多いらしい。
石売りに登場する子どもの家も服忌で参列できない。
対象の子どもは13歳の小学生まで。
その家の49日も済んでおれば参列できるが、明日のことでは到底無理である。
参拝者は少なくなったが祭典が始まった。
特に拝礼もなく座中に差し出されるアゼマメ。
塩茹でした枝豆である。
膳に載った枝豆が廻ってくれば枝から千切って半紙を広げた我が席の場に置く。
そうすれば一献。
簡略化するまでは献に口上を述べていた。
これもまた『やまぞえ双書』の引用であるが、月番が「例年のとおり、お神酒をいただきましたので、回りましたらお上がりください」と述べる始まりの口儀であった。
が、これもまた改正されて口儀も廃止された。
廃止されるまでの饗膳料理は枝豆と塩漬けした大根青葉の重箱であった。
平成24年に訪れた祭りの日に塩漬けの大根青菜は辞めたと聞いていたから枝豆だけである。
その昔の平成4年当時の宵宮饗膳は小皿に盛った大根青葉に鰯の昆布巻きもあった。
牛蒡に芋、大根の煮しめもあったし、高盛りの蒸しあげ餅米のつくねに茄子の汁椀もあった。
手間のかかる膳料理は大幅に改正されたのである。
冷酒の一献が一回りすれば枝豆を食べる。
二献目は冷酒から熱燗に移る。
これは祭りと同じである。
そして、三献はとりあえずのダメ酒だと云って「あとはご自由に」の声に酒杯は延々と続く。
吉田の当屋は6人もいる。
当屋は寺行事も務める交替制の月当番当屋である。
昔は子供ができたときに村入り・氏子入りとなり祭帳に記帳される。
大字で生まれた子ども、婿入り養子も村入り・氏子になる。
その入り順に従う年齢順に3人の本当屋が決まる。
そのうちの年長一人が大当屋を務めていたそうだ。
大字吉田は40戸もあったが今は32戸。
春の3月に田楽講がある。
秋の11月はホンコ(本講)がある。
60歳の還暦を迎えた人は老大人(おとな)入りする。
老大人はおとな講がある。
うち一人が宮守を務める。
宮守はおとな講のなかでも最長老の神主となる。
その下に氏子総代が続くという。
床の間に奉った御幣は大当屋が祭りに渡るときにもつ。
会所に集まって9時半には岩尾神社を目指して出発する。
昔は大当屋の家からであったから遠い、近いで渡りの時間に左右する。
今は会所が大当屋の家に見立てているからすぐそこだ。
神社の裏手にあった道は伊勢街道であった。
山ももっていたし伊勢講もあった。
お伊勢さんに参って吉田に戻ってきたときは「オドリコミ」もしていた。
かれこれ20年前のことである。
その当時の伊勢講のヤドは家であった。
伊勢講は7、8軒が組んで一組の伊勢講を営んでいた。
講組織は吉田に3、4組もあったという。
今だからこそ言えるが昔は「どぶ」を作って飲んでいた。
「どぶ」はどぶろくの酒である。
そんな話題を提供してくれた宵宮の座もそろそろお開きである。
1カ月前に応対してくれたOさんは服忌で来られなかったが、4年前に務めた前区長のYさんや老大人、氏子総代、大当屋たちが温かくもてなししてくださった。
(H28.10.15 EOS40D撮影)