平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。
村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。
「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。
奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。
8月27日に行われた風の祈祷の日である。
その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。
「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。
座の料理はどのようにして作られるのか。
興味は謡いの盃もある。
取材したいと申し出てこの日も訪れた。
村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。
当家は2軒。
本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。
かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。
4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。
昔の嵩の戸数は30戸。
今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。
当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。
戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。
この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。
与力制度がある嵩の村組織。
明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。
旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。
旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。
制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。
この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。
長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。
神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。
まずは大祓詞の唱和。
そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。
大祭の宵宮に直会膳がある。
この日の午前中から作っていた膳の料理。
神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。
一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。
二品にオタフクマメの甘煮。
三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。
この三品を肴にお神酒をよばれる。
座が終わってからよばれた三品のお味。
薄味であるがとても美味しい。
サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。
まずは二人の当家が並んで下座に正座。
挨拶、口上を述べて直会が始まる。
「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。
一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。
空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。
明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。
実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。
宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。
宵宮の座は一時間ばかり。
座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。
枝豆は茎から外して大釜で茹でる。
茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。
明日は朝から豆を潰してクルミにする。
クルミはクルミという実ではない。
当村では青豆を潰してイモにのせる。
のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。
「包む」は「包み」。
こうしてクルミのイモ料理にするが、東山間では亥の日に食べるクルミモチがある。
字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。
潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。
味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。
嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。
村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。
赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。
弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。
縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。
おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。
月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。
三角切りコンニャクは明日に最終調理。
もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・
豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。
ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。
昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。
(H28.10.22 EOS40D撮影)
村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。
「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。
奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。
8月27日に行われた風の祈祷の日である。
その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。
「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。
座の料理はどのようにして作られるのか。
興味は謡いの盃もある。
取材したいと申し出てこの日も訪れた。
村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。
当家は2軒。
本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。
かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。
4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。
昔の嵩の戸数は30戸。
今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。
当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。
戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。
この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。
与力制度がある嵩の村組織。
明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。
旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。
旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。
制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。
この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。
長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。
神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。
まずは大祓詞の唱和。
そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。
大祭の宵宮に直会膳がある。
この日の午前中から作っていた膳の料理。
神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。
一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。
二品にオタフクマメの甘煮。
三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。
この三品を肴にお神酒をよばれる。
座が終わってからよばれた三品のお味。
薄味であるがとても美味しい。
サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。
まずは二人の当家が並んで下座に正座。
挨拶、口上を述べて直会が始まる。
「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。
一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。
空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。
明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。
実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。
宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。
宵宮の座は一時間ばかり。
座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。
枝豆は茎から外して大釜で茹でる。
茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。
明日は朝から豆を潰してクルミにする。
クルミはクルミという実ではない。
当村では青豆を潰してイモにのせる。
のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。
「包む」は「包み」。
こうしてクルミのイモ料理にするが、東山間では亥の日に食べるクルミモチがある。
字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。
潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。
味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。
嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。
村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。
赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。
弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。
縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。
おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。
月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。
三角切りコンニャクは明日に最終調理。
もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・
豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。
ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。
昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。
(H28.10.22 EOS40D撮影)