マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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米谷町白山比咩神社の祭り

2017年06月05日 10時00分26秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
前日に">宵宮を祭事された奈良市米谷町・白山比咩神社の行事はこの日がマツリになる。

白山比咩神社の年中行事は実に多彩で行事数は他の地区と比べてとにかく多い。

毎月1日は宮座十一人衆が寄り合う例祭がある。

1月2日は歳旦祭・四方拝も兼ねる新年祭(◇・☆)。

2月1日は小正月(☆)、3日は節分、4日は寺行事の薬師の行い(☆)、8日は神主渡し、9日は百座(☆)、22日は田楽飯(※)、3月1日は祈年祭(◇・☆)、5月は筍飯(※)、7月1日は農休みの麦初穂(◇・☆)、8月18日は風の祈祷(☆)、9月1日は八朔籠り、7日はトウヤ受けの唐指し、10月1日は龍田垢離、第二土曜日は宵宮祭り、第二日曜日は祭りや松茸飯(※)がある。

11月1日は例祭、12月1日はあから頭の名もある新嘗祭(◇)、15日はチンジサンの呼び名がある鎮守祭、22日はくるみ餅(※)である。

うち、田楽飯、筍飯、松茸飯、くるみ餅は宮座の四大行事(※)。

また、新年祭、祈年祭、麦初穂、新嘗祭は四大節(◇)。

麦初穂を除く三行事は宮司の参詣を得て式典を斎行される。

また、寺行事の薬師の行いはもとより、上ノ坊寿福寺住職(☆)は五穀豊穣、家内安全の祈祷のため一年に6回の神社行事に参列される。

その行事は新年祭、小正月、百座、祈年祭、麦初穂、風の祈祷である。

これら行事について詳しく調査・報告された史料がある。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』である。

村史によればかつては4月3日の神武祭、6月5日の節句にチマキ、8月7日は七月七日之事とする七日盆もあったそうだ。

前日の宵宮はお渡りの出発直後からの取材であったが、本祭はお渡りに間に合った。

集会所でお渡り前によばれていた数々の食事料理を拝見する。

ズイキの煮ものにサバのキズシ、タコの酢もの。

ダイコンとニンジンにドロイモと牛蒡のさつま揚げを煮たもの。

ほうれん草の和え物に豆の甘煮や香物である。

出発直前に記念の写真を撮ってから白山比咩神社に向かうお渡り。

宵宮は大唐屋のトウニンゴ(唐人子)が先頭に就いていたが、本祭は小唐屋が大きな御幣を抱えて神社に向かう。



後続に村神主、十一人衆、氏子総代が就いて平服の氏子たちも村道を下っていく。

出発食後に発声した「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」の唱和。

その1回だけであったような気がするが、どうやら数回は発声したようで声が聞こえなかったようだ。

大、小の両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身にまとう。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装は紋付き袴にそれぞれ風合いのある和装姿。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も。

うちお一人がイネニナイ(稲担い)である。

イネニナイ(稲担い)が担ぐ稲束は前方が一束で後方は二束だった。

鳥居は2カ所。



石の鳥居に朱塗りの鳥居を潜って神社に着く。

着いたら直ちに御幣とイネニナイを供える。



鎮守さんの名がある社殿や遥拝所に神饌を供えるのは村神主の役目。

サイラのサンマや小豆入り洗米、栗の実、コーヤドーフ、梨、パンに別皿に盛った3個のサトイモもある。



本祭の神事に神職は登場しない。

参拝を済ませて十一人衆は宵宮同様に拝殿に着座、ではなく、本祭は村神主に両唐屋が座る。

十一人衆のこの日は参籠所の間である。

隣の間に座ったのは氏子たち。

宵宮と同様に男性も女性も並んで座っている。

これより始まるのは七献である。

供えたお神酒を下げて酒を飲む。

宵宮同様に酒を注ぐのは佐多人だ。



まずは拝殿に居る村神主と唐屋に注ぐ。

給仕の佐多人が「一献 まいりまーす」の声を揚げる。



その声が届いたら参籠所に居る十一人衆に酒を注いで飲む。



それを済ましてから氏子に酒を注ぐ。



そのときに食べる肴が味付けした半切り牛蒡と煮物のカシライモ。

形は三角形である。

『五ケ谷村史』によれば米谷では宵宮に枝豆を。

本祭はドロイモに牛蒡のクルミ和えや里芋の子芋を楊枝で3個つないだものを供えるとある。

直会にはいずれもこれらを食することから宵宮をマメドウヤ、本祭をイモドウヤと呼んでいると書いてあったが、直会の場に出された料理は若干の変化があったように思える。

しばらくしてから二献目。

またもや大声で「二献 まいりまーす」が参籠所に届く。

「献」が届けば肴をアテに酒を飲む。

そのころだったか時間を氏子総代が動いた。



たくさんの子芋を盛ったお重を抱えていた。

神さんに供えた御供を下げて参籠所に運ぶ。

見てはいないが先に拝殿に居る村神主と唐屋が食べる分は取り分けていたと思う。

三献、四献・・・とだいたいが5分おきに注がれるようだ。

献は七献で終える。

さて、七献の七つはどういう意味であろうか。

話しによれば米谷の神さんは七柱であるからという。

その間はずっと献の接待に忙しく動き回っていたのが世話人の佐多人。

休む間もなく動き回る重要な役割を担っていた。

「あんたも食べてみやんと味がわからんだろう。座に上がって食べてください」と氏子総代に云われて七献の肴をよばれる。



牛蒡はクルミ和えでなく煮物。

楊枝でつなぐこともない三角形に包丁を入れたカシライモ。

別皿に盛ったのが丸い3個の子芋である。

形はどうであれ、カシライモはやや甘。

シンプルな味付けだと思った。

一方の牛蒡は薄味醤油で煮たもの。

柔らかく煮ているので食べやすい。

牛蒡そのもの味がする。

別皿の子芋はぬるぬる。

柔らかくてとろけるような舌触り。

モチっとした食感にお味は好みの味。

懐かしいではなく我が家で食べている味と同じようだと思った。



『五ケ谷村史』に安政六年(1859)十一月、それ以前の宝暦六年(1756)書写本があると書いている。

上之坊の僧の荻英記す「宮本定式之事 米谷村 社入中」の翻刻はたいへん貴重な史料となるだけに以下に記しておく。

当時の行事日は旧暦九月九日と十日。

宵宮に本祭であるが、当時は三日間。

八日の調達より始まっていた。

一.九月八日之定、頭屋買物覚

先上延紙壱束 上半紙壱帖赤土器大六まい 小五拾まい 

杉箸百膳白箸三拾膳 酒宮樽壱荷石の買物両頭屋立会調べし

一.八日 三社の御供餅米京ばんに三升つき壱升の御膳に 小餅八ツ大餅壱ツかさ餅と云て壱ツ上二おく 大小合九ツ也又水神の餅壱膳二七ツヅヽ添備べし 合小餅四拾五大餅三ツ調 都合よし但シ 豆粉少々入用

一.白餅 馬草いね大たば三把 肴の枝 なずび 豆用意有べし右ハ大頭屋の仕立なり

一.幣ふぐり京ばん壱升 みゆの布施七合三升 生初穂 京ばんに六升両頭屋添備べし 但し片頭屋二三升ヅヽ也 右之三口ハ両頭屋より出すべし

一.八日 朝飯献立之事

△汁二 いも たうふ(※豆腐) 大根

△坪(※ひら)二 八切のたうふ二切もり

△壺二 いも ごぼう こんにやく

△生酢 だいこん にんじん こんにやく はす しやうが

引たり はす ごうぼう こんにやく

右の三重の肴出置べし

一.夕飯献立の事

△汁 ざくざくに たうふ入べし

△菜ハ 大根葉のあゑ(※え)もの斗

三重の肴あるべし 以上

一.九月九日之事

三社鎮守御供赤飯斗り備べし神主仕立にて候

一.十日神事之事

先三社の御供二うる米三升白餅 豆五合<こんにやく三丁> かます四枚 生ノいも拾五つぼ

馬草いね大たば三把右小頭屋の仕立なり

又三社江牛蒡のくる(※みは加筆)あゑ(※え)三ばい此たけ四寸二切高さも四寸二盛べし

いものくるみあゑ(※え)三ばいも是も高さ四寸二もるべし

次二下座ノ人之立候ハヽ社人拾壱人の衆江酒二献出へし

三重肴出すべし外二やき物壱ツ引出す

一.次夕食之献立之事

△箸ハ 壱尺二寸の白はしなり

△汁ハ 鯛のしる

△焼物ハ 壱尺弐寸の鮧(※えそ)なり

△壺ハ 五色此内へ魚るい壱色入べし

△引たり牛蒡 たうふ たこ也

△酒三献三重の肴有べし 以上

△次二平座茶のミ飯汁わん二一杯」茶斗

一.入酒之定
  先頭人壱人の時ハ味噌代ハ其時の相場にて宮本評儀二任出べき事

  但シ頭人弐人是有年ハ座衆壱人前に黒米宮本の京ばん五合飯の会大頭人の所にて勤申べき事五合ヅヽの都合二たらず候ヘバ宮本方 たし可申候頭人数多ある時ハ その出シ米残りし年ハ宮本江請取社人預り置べき事

  次に献立之事

  △汁ハ ざくざくに たうふ入べし

  <菜ハ ねりみそ いわし一引 しゃうじん人二こんにゃく半丁こうのもの二切そゑ(※え)べし>

  <一 社僧座人の定>

  <先 座衆壱人に三合飯壱杯>

  <汁ハ ざくざくにたうふ入べし>

  △菜ハ ねりみそ こんにやく半丁 こう物二切そゑ(※え)る 酒なし

  次二平茶のミ汁わん二飯一杯茶斗也 以上   であった。

宝暦、安政年間における米谷の社僧や社人こと十一人衆が食事する献立がよくわかる史料である。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)