今夜は十三夜。
聞きなれない名であるが暦をみればよくわかるし、昨今は天気予報士が季節の情報として紹介することが多い。
十三夜は十五夜の中秋の名月に対してこの夜は旧暦の九月十三日。
「後(のち)の月」とも呼ばれる月夜である。
十五夜に次いで美しい月と云われる今夜は昔から月見をして楽しんでいた。
十五夜は中国から伝わった風習であるが、十三夜は日本古来から伝わる風習の一つ。
秋の収穫を祝う。
収穫は秋の稔り。
お米もあるが十三夜のお供えは豆や栗である。
その豆や栗にちなんでこの夜の月を「豆名月」とか「栗名月」と呼ぶようになった。
この頃の天候はといえば晴天が続く日。
「十三夜に曇りなし」という詞もある。
かつては旧暦の九月十三日だったという山添村切幡の豆たわり。
現在は新暦に移って10月13日。
13日という人もおれば「十三夜」の日にしているという人もいる。
今年は旧暦の十三夜にあたる10月13日。
いずれであっても合致した日になった。
尤も「豆たわり」とはどういう行事なのであろう。
「豆たわり」の「たわり」は賜るということだ。
各家が収穫した枝豆は茹でて家の玄関土間とか玄関前とかに置いておく。
暗くなれば村の子どもたちがその豆を一軒、一軒巡って貰いに来る。
「貰う」を敬語でいえば「賜る」である。
この「賜る」の詞が縮まって「たわる」になった。
やがてそれも濁り詞になって「たばる」になった。
「おばちゃんマメダワリしてや」と云って豆貰いに村の各戸を巡る
山添村の切幡の豆貰いの行事名は動詞連用形の「たばる」が名詞化した「豆たばり」である。
この行事をしていると知ったのは平成22年の10月16日、17日に訪れた宵宮祭、本祭のときだったと思う。
旧暦九月十三日の十三夜に村の各家が塩ゆでした枝豆や蒸した栗を十三夜の名月に供える。
切幡はかつて60戸の集落であったが現在は40戸。
その各家を上出、中出、下出と順番に巡る。
うち何軒かは稲刈りを終えて「カリシマイ」をしたという。
カリシマイ(刈り仕舞い)は平成24年9月25日にO家を訪れてその在り方を取材させてもらったことがある。
山添村など東山間の稲刈りは早い。
田植えもそうだが平坦よりも1カ月も早いから時期は必然的に稲刈りもそうなるのだ。
皆で決めていた集合場所にこれもまた決めていた集合時間に遅れることなく集まった子供たちは男女8人。
年長の子が下の子たちの面倒をみながら巡っていく。
ちなみに年長の子を子どもたちは「分団長」と呼んでいる。
いわゆる大将格になる子をそう呼んでいるが強面ではなく可愛い子たちだ。
行先、巡る順は分団長が決める。
その指示通りについていく下の子どもたち。
真っ暗な情景の村を巡る。
あっちの道の方が近いでと云いながら先の見えない里道に懐中電灯を照らして歩いていく。
集合場所から道路を隔てた北側を一歩、奥に入れば急な坂道に遭遇する。
右や左に点在する民家を巡っては「おばちゃんマメたわらしてー」と大声をあげる。
玄関土間に灯りが点いている家は屋内から家人の声が反応して顔をだしてきた。
用意していた枝豆や栗はお盆に盛っていた。
手が伸びる子どもたちにあっという間に消えてなくなる。
お家の人はすかさずこれもまた用意していたお菓子を手渡す。
すぐさま消えるのは子どもたちがもってきた袋に入れていくからだ。
枝豆や栗がお気に召さない子どもはお菓子に手が動く。
逆に枝豆や栗が好きな子どももいる。
その場で枝豆を食べる子どももいる。
それぞれがそれなりの嗜好に合わせて手や口が動く。
そうこうしているうちに子どもたちの姿が見えなくなった。
村の人たちに昔の様相などを聞いている間に見失ったのだ。
追っかけをするにも村内は真っ暗。
どこをどう行ったのかさっぱり掴めない。
もしかとしたら南の方に行ったのではと思ってそっちに行ったが声は聞こえず。
はぐれた処で時間を過ごしていたら声が聞こえてきた。
どうやらもっと奥の方まで巡っていたようだ。
見失ってからあっちこちの玄関辺りを見ていた。
何軒かは子どもたちがすぐに見つけられるよう玄関前に出していた家があった。
屋内の灯りがそれを照らしていた。
枝豆や栗は秋の味覚の収穫物。
床の間に置くことはない。
十三夜を愛でるお供えである。
中秋の名月の十五夜さんのようなススキやハギは見られない。
枝豆や栗は十三夜のお供えもの。
お盆に供えた枝豆や栗の名をとって、十三夜の夜は豆名月とか栗名月の行事名で呼ぶ地域もある。
ちなみに十五夜は芋名月。
収穫物は十三夜と異なるのである。
かつては男の子だけで巡っていた切幡の豆たばり。
家で供えた枝豆や栗を食べていた。
枝豆はクルミにして搗きたての餅にくるんで食べたという人もあれば、サツマイモを蒸して食べていたという人もいる。
40年前のことを思い出される村の人たちの記憶の証言であった。
そんな昔の体験談を伝えながらも今の子どもたちにはお菓子も袋に入れてやる。
かつては大勢いた子どもたち。
揃っていく場合もあれば人数を分けて巡っていたこともあったそうだ。
平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に切幡の豆たわりのことが掲載されている。
調査ならびに編集は山添村年中行事編集委員会・同村教育委員会である。
切幡の氏神祭りを目前に控えた旧暦九月十三日の十三夜にしていると書いてあった。
当時の人数は20から30人の子どもたち。
この日の2倍、3倍にもなる人数だけに相当な量を準備していたことだろう。
各家では外庭に供える台を持ち出して、ススキなど秋の草花に蒸した栗に枝豆を供えたとある。
最近は子どもが喜ぶお菓子も供えるというから昔はなかったようだ。
やがて4、5人の小児グループが一団となってやってくる。
子どもたちは保育所園児から小学生まで。
年長の統領株を先頭に門口にやってきて「おばちゃん、豆たわらしてー」と声を揃えていうとある。
昔も今もかわらない呼び出し台詞である。
「何人や」と家人が尋ねる人数を返す。
聞いてからその人数に見合ったお供えをすれば、神妙に手を合わす。
そして統領が下の子どもたちに分けると書いてあった。
午後6時より始まった切幡の豆たばり行事。
すべての家を廻りきって終えた時間は夜の9時を過ぎていた。
途中ではぐれたが、およそ1万歩の行程を行く子どもたちは元気度が満ち溢れて笑顔は全開だった。
行き先々でお会いする村の人たちが作った枝豆に栗がとても美味しかったことを付記しておく。
(H28.10.13 EOS40D撮影)
聞きなれない名であるが暦をみればよくわかるし、昨今は天気予報士が季節の情報として紹介することが多い。
十三夜は十五夜の中秋の名月に対してこの夜は旧暦の九月十三日。
「後(のち)の月」とも呼ばれる月夜である。
十五夜に次いで美しい月と云われる今夜は昔から月見をして楽しんでいた。
十五夜は中国から伝わった風習であるが、十三夜は日本古来から伝わる風習の一つ。
秋の収穫を祝う。
収穫は秋の稔り。
お米もあるが十三夜のお供えは豆や栗である。
その豆や栗にちなんでこの夜の月を「豆名月」とか「栗名月」と呼ぶようになった。
この頃の天候はといえば晴天が続く日。
「十三夜に曇りなし」という詞もある。
かつては旧暦の九月十三日だったという山添村切幡の豆たわり。
現在は新暦に移って10月13日。
13日という人もおれば「十三夜」の日にしているという人もいる。
今年は旧暦の十三夜にあたる10月13日。
いずれであっても合致した日になった。
尤も「豆たわり」とはどういう行事なのであろう。
「豆たわり」の「たわり」は賜るということだ。
各家が収穫した枝豆は茹でて家の玄関土間とか玄関前とかに置いておく。
暗くなれば村の子どもたちがその豆を一軒、一軒巡って貰いに来る。
「貰う」を敬語でいえば「賜る」である。
この「賜る」の詞が縮まって「たわる」になった。
やがてそれも濁り詞になって「たばる」になった。
「おばちゃんマメダワリしてや」と云って豆貰いに村の各戸を巡る
山添村の切幡の豆貰いの行事名は動詞連用形の「たばる」が名詞化した「豆たばり」である。
この行事をしていると知ったのは平成22年の10月16日、17日に訪れた宵宮祭、本祭のときだったと思う。
旧暦九月十三日の十三夜に村の各家が塩ゆでした枝豆や蒸した栗を十三夜の名月に供える。
切幡はかつて60戸の集落であったが現在は40戸。
その各家を上出、中出、下出と順番に巡る。
うち何軒かは稲刈りを終えて「カリシマイ」をしたという。
カリシマイ(刈り仕舞い)は平成24年9月25日にO家を訪れてその在り方を取材させてもらったことがある。
山添村など東山間の稲刈りは早い。
田植えもそうだが平坦よりも1カ月も早いから時期は必然的に稲刈りもそうなるのだ。
皆で決めていた集合場所にこれもまた決めていた集合時間に遅れることなく集まった子供たちは男女8人。
年長の子が下の子たちの面倒をみながら巡っていく。
ちなみに年長の子を子どもたちは「分団長」と呼んでいる。
いわゆる大将格になる子をそう呼んでいるが強面ではなく可愛い子たちだ。
行先、巡る順は分団長が決める。
その指示通りについていく下の子どもたち。
真っ暗な情景の村を巡る。
あっちの道の方が近いでと云いながら先の見えない里道に懐中電灯を照らして歩いていく。
集合場所から道路を隔てた北側を一歩、奥に入れば急な坂道に遭遇する。
右や左に点在する民家を巡っては「おばちゃんマメたわらしてー」と大声をあげる。
玄関土間に灯りが点いている家は屋内から家人の声が反応して顔をだしてきた。
用意していた枝豆や栗はお盆に盛っていた。
手が伸びる子どもたちにあっという間に消えてなくなる。
お家の人はすかさずこれもまた用意していたお菓子を手渡す。
すぐさま消えるのは子どもたちがもってきた袋に入れていくからだ。
枝豆や栗がお気に召さない子どもはお菓子に手が動く。
逆に枝豆や栗が好きな子どももいる。
その場で枝豆を食べる子どももいる。
それぞれがそれなりの嗜好に合わせて手や口が動く。
そうこうしているうちに子どもたちの姿が見えなくなった。
村の人たちに昔の様相などを聞いている間に見失ったのだ。
追っかけをするにも村内は真っ暗。
どこをどう行ったのかさっぱり掴めない。
もしかとしたら南の方に行ったのではと思ってそっちに行ったが声は聞こえず。
はぐれた処で時間を過ごしていたら声が聞こえてきた。
どうやらもっと奥の方まで巡っていたようだ。
見失ってからあっちこちの玄関辺りを見ていた。
何軒かは子どもたちがすぐに見つけられるよう玄関前に出していた家があった。
屋内の灯りがそれを照らしていた。
枝豆や栗は秋の味覚の収穫物。
床の間に置くことはない。
十三夜を愛でるお供えである。
中秋の名月の十五夜さんのようなススキやハギは見られない。
枝豆や栗は十三夜のお供えもの。
お盆に供えた枝豆や栗の名をとって、十三夜の夜は豆名月とか栗名月の行事名で呼ぶ地域もある。
ちなみに十五夜は芋名月。
収穫物は十三夜と異なるのである。
かつては男の子だけで巡っていた切幡の豆たばり。
家で供えた枝豆や栗を食べていた。
枝豆はクルミにして搗きたての餅にくるんで食べたという人もあれば、サツマイモを蒸して食べていたという人もいる。
40年前のことを思い出される村の人たちの記憶の証言であった。
そんな昔の体験談を伝えながらも今の子どもたちにはお菓子も袋に入れてやる。
かつては大勢いた子どもたち。
揃っていく場合もあれば人数を分けて巡っていたこともあったそうだ。
平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に切幡の豆たわりのことが掲載されている。
調査ならびに編集は山添村年中行事編集委員会・同村教育委員会である。
切幡の氏神祭りを目前に控えた旧暦九月十三日の十三夜にしていると書いてあった。
当時の人数は20から30人の子どもたち。
この日の2倍、3倍にもなる人数だけに相当な量を準備していたことだろう。
各家では外庭に供える台を持ち出して、ススキなど秋の草花に蒸した栗に枝豆を供えたとある。
最近は子どもが喜ぶお菓子も供えるというから昔はなかったようだ。
やがて4、5人の小児グループが一団となってやってくる。
子どもたちは保育所園児から小学生まで。
年長の統領株を先頭に門口にやってきて「おばちゃん、豆たわらしてー」と声を揃えていうとある。
昔も今もかわらない呼び出し台詞である。
「何人や」と家人が尋ねる人数を返す。
聞いてからその人数に見合ったお供えをすれば、神妙に手を合わす。
そして統領が下の子どもたちに分けると書いてあった。
午後6時より始まった切幡の豆たばり行事。
すべての家を廻りきって終えた時間は夜の9時を過ぎていた。
途中ではぐれたが、およそ1万歩の行程を行く子どもたちは元気度が満ち溢れて笑顔は全開だった。
行き先々でお会いする村の人たちが作った枝豆に栗がとても美味しかったことを付記しておく。
(H28.10.13 EOS40D撮影)