昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。
編纂は飛鳥民俗調査会だ。
その中に明日香村大字檜前(ひのくま)にある於美阿志(おみあし)神社の行事が書いてあった。
「座は大講・新講・戦後組織されたおみあし講、大講の座の営みは一週間前に吉野川水垢離小石3個。9月5日米洗い・6日餅搗き(塩餡餅)・7日餅座・8日本座を8日に一本化、頭屋床の間オカリヤ、葦編み菰敷き・高杯盛り・御供下げ一升餅切りは髪の元結切り→現在は糸切り、杉板御供48枚(餅2個・餅3個・餅4個・餅6個を置く杉板はそれぞれ12枚)。8日は宵宮座の馳走(揚げ物多種類・底に油揚げ二枚敷いた平椀・汁椀・テショ皿盛り・クズシつくね薯)。9日は宮送り、午後1時頭屋女児正装板御供頭上にいただき作法、宮参り後に頭屋受け渡し、三献の酒宴(牛蒡のハリハリ・蒟蒻のピンピラ・蓮根・汁椀、一巡後に取り盃・飯椀を客前に進めおく・〆の当主口上に客人が詞返し)、神官祝詞奏上経て御幣納め、頭屋は月に3回が宮参り<三日(さんじつ)>・灯籠火点け」である。
宵宮に祭りは10月の7日、8日にあったが、今は集まりやすい土曜、日曜に移った。
神社前に御輿蔵がある。
まま高い蔵であるから御輿はそんじょそこらのようなものではないらしい。
昔は子どもが御輿に乗って村内を巡行していたが、今は少子化。
仕方なく、子ども不在の神輿であるが巡行しているという。
当家のK夫妻は昔から当村に住んでいたわけではなかった。
少し離れた隣村(大根田)で生まれ育った旦那さん。
一時は大阪市内の福島に住んでいたそうだ。
現在の屋敷は夫妻が建てたものではなく、明日香村に出仕する宮司家が住んでいたそうであるが、諸事情で家屋敷を手放すことになった。
不動産屋が売りにだしていたのを買い付けて住むようになったが、元々の住民でないから村行事を詳しく説明することはできないという。
ただ、9月の8日、9日にしていた神社行事の宵宮座、宮送りは記憶にあるようだ。
トーヤ(頭屋)制度もあった講中は三つの組があった。
いずれもご馳走を振る舞うなど、トーヤ渡しの引継ぎもあったが、何らかの理由で途絶えた。
9月の行事はなくなったが、10月のマツリはしている。
かつては10月の7日、8日であったが、現在は土曜、日曜。
サラリーマンの人が多くなり、行事日を替えたそうだ。
檜前は60戸ほどの集落。
うち20軒は祭りに来られて神事をしているようだ。
於美阿志(おみあし)神社は歴史ある神社。
この日も勉強されている団体が奥の神社前で何やら解説をされていた。
歴史ウォークの人たちであろう。
平成13年4月8日に拝殿を竣工された。
そのときの宮司、3人の神社役員、総代、副総代、4人の評議員が名を連ねている。
境内には稲荷神社などもあるが、祠もある。
格子扉の向こうにある石仏は紛れもない庚申さん。
青面金剛の立ち姿である。
庚申さんの周りには木の棒がいっぱいある。
目を凝らしてみれば文字が見える。
おそらく旧暦閏年に行われてきた閏庚申の塔婆である。
手前にある塔婆の願文は「干時 昭和参年閏弐月当ル今年閏弐月六日修之 上垣内講中当宿」。
その向こうにある塔婆は「干時 昭和四十六年閏三月 当ル 四月十一日 云々・・」。
その隣は「干時 昭和四十七年五月二十七日・・・」。
左に目を移したところにも立てている閏庚申の塔婆の願文は「・・云々青面金剛大童士天下泰平家内安全・・云々」とか「奉 祈南無青面金・・」とあることから繋ぎ合わせてみれば「奉 祈南無青面大童士天下泰平家内安全・・」であろう。
下部にも墨書が書かれているが、煤けているから判読不可。
埃に塗れているわけではないが、古くもない。
また、新しい年号ものの塔婆がないことから庚申講は廃れた模様である。
念のためにKさんに尋ねた結果は、40年も前に廃れたらしい。
塔婆の年号が一番近いのは昭和47年。
云われるとおりの40年ほど前になるから証言は正確だ。
ただ、祠は近年において新築したという。
その際にどっさりあった閏庚申塔婆を庚申石仏の周囲に並べることにしたらしい。
年号などの確認もなく並べたものだから、バラバラである。
里道を隔てた向こう側にも祠がある。
そこの格子扉から覗いてみたら、美しいお姿の坐像石仏がある。
これもまたKさんに尋ねたら薬師さんだという。
檜前の地は渡来した機織りが住み着いた処である。
そういうことで於美阿志(おみあし)神社は機織りの神さんを祀っている。
その神さんの関係で薬師さんを祀るようになったらしい。
そこらへんについては歴史研究家が詳しいであろう。
帰り際、ふと思い出された畑に立てていたお札。
施餓鬼のようなヒラヒラではないが、なんとなくのお札は竹に挟んでいた。
そこには松苗も立てたという。
ずいぶん前のことのようで、いつのまにか届けられなくなったと云う。
若干のお話しか聞けなかった檜前を離れて大字冬野に鎮座する波多神社を探す。
上(かむら)にあがる手前の大字細川の対岸に右折れするアスファルト舗装道がある。
カーナビゲーションが示す冬野は遠い。
緩いカーブもあれば急カーブもある登り全力の道にローリング走行。
どこまで行っても集落は出てこない。
途中に下る道はあるが、登りを目指す。
帰宅してから調べてみれば大字畑(上畑)と冬野の集会所があるようだ。
とにかくローリングが繰り返すアスファルト舗装道に右や左にひっきりなしにハンドルをさばく。
右手に見える明日香村のクリーンセンターごみ焼却施設も通り抜けて大字の畑。
眼下に見えたが先を急ぐ。
しばらく走っていけば数人の姿。左側には車が数台。
なにかがあるような感じであったので尋ねてみればこの先で撮影が始まるという。
撮影の邪魔になるからすべての車を移動させという。
そこより少し行ったところに三叉路がある。
右や左も行き止まり。
集落はどこにあるのだ。
その撮影隊の男性に聞けば、木村家に向かわれるのかと云われるが、私の目的地は神社である。
木村家とどういう関係にあるのか存じないが、鬱陶しい聞き方である。
こちらから木村家とは一切伝えていない。
まるで木村家には行ってはならない様子。
何様のつもりなのか。
鬱陶しい撮影隊に関係したくないと思った。
目指す波多神社は左の筋にあるという。
登って下っていけるが、車は通れない人道。
先にある談山神社から下った方が無難だという。
もうすぐ撮影が始まるというから遠慮して下った。
監督はあの有名な女流監督と云えば、そうだという。
撮影隊の男性がいうには右に数軒。
左も数軒の集落のようだ。
だいたいの場所がわかっただけでも御の字。
再訪するしかないと思ったが、神社名はよく読めば波多。
冬野の下にある大字も畑。
つまりは機織りの「機」ではないだろうか。
(H29. 9. 9 SB932SH撮影)
編纂は飛鳥民俗調査会だ。
その中に明日香村大字檜前(ひのくま)にある於美阿志(おみあし)神社の行事が書いてあった。
「座は大講・新講・戦後組織されたおみあし講、大講の座の営みは一週間前に吉野川水垢離小石3個。9月5日米洗い・6日餅搗き(塩餡餅)・7日餅座・8日本座を8日に一本化、頭屋床の間オカリヤ、葦編み菰敷き・高杯盛り・御供下げ一升餅切りは髪の元結切り→現在は糸切り、杉板御供48枚(餅2個・餅3個・餅4個・餅6個を置く杉板はそれぞれ12枚)。8日は宵宮座の馳走(揚げ物多種類・底に油揚げ二枚敷いた平椀・汁椀・テショ皿盛り・クズシつくね薯)。9日は宮送り、午後1時頭屋女児正装板御供頭上にいただき作法、宮参り後に頭屋受け渡し、三献の酒宴(牛蒡のハリハリ・蒟蒻のピンピラ・蓮根・汁椀、一巡後に取り盃・飯椀を客前に進めおく・〆の当主口上に客人が詞返し)、神官祝詞奏上経て御幣納め、頭屋は月に3回が宮参り<三日(さんじつ)>・灯籠火点け」である。
宵宮に祭りは10月の7日、8日にあったが、今は集まりやすい土曜、日曜に移った。
神社前に御輿蔵がある。
まま高い蔵であるから御輿はそんじょそこらのようなものではないらしい。
昔は子どもが御輿に乗って村内を巡行していたが、今は少子化。
仕方なく、子ども不在の神輿であるが巡行しているという。
当家のK夫妻は昔から当村に住んでいたわけではなかった。
少し離れた隣村(大根田)で生まれ育った旦那さん。
一時は大阪市内の福島に住んでいたそうだ。
現在の屋敷は夫妻が建てたものではなく、明日香村に出仕する宮司家が住んでいたそうであるが、諸事情で家屋敷を手放すことになった。
不動産屋が売りにだしていたのを買い付けて住むようになったが、元々の住民でないから村行事を詳しく説明することはできないという。
ただ、9月の8日、9日にしていた神社行事の宵宮座、宮送りは記憶にあるようだ。
トーヤ(頭屋)制度もあった講中は三つの組があった。
いずれもご馳走を振る舞うなど、トーヤ渡しの引継ぎもあったが、何らかの理由で途絶えた。
9月の行事はなくなったが、10月のマツリはしている。
かつては10月の7日、8日であったが、現在は土曜、日曜。
サラリーマンの人が多くなり、行事日を替えたそうだ。
檜前は60戸ほどの集落。
うち20軒は祭りに来られて神事をしているようだ。
於美阿志(おみあし)神社は歴史ある神社。
この日も勉強されている団体が奥の神社前で何やら解説をされていた。
歴史ウォークの人たちであろう。
平成13年4月8日に拝殿を竣工された。
そのときの宮司、3人の神社役員、総代、副総代、4人の評議員が名を連ねている。
境内には稲荷神社などもあるが、祠もある。
格子扉の向こうにある石仏は紛れもない庚申さん。
青面金剛の立ち姿である。
庚申さんの周りには木の棒がいっぱいある。
目を凝らしてみれば文字が見える。
おそらく旧暦閏年に行われてきた閏庚申の塔婆である。
手前にある塔婆の願文は「干時 昭和参年閏弐月当ル今年閏弐月六日修之 上垣内講中当宿」。
その向こうにある塔婆は「干時 昭和四十六年閏三月 当ル 四月十一日 云々・・」。
その隣は「干時 昭和四十七年五月二十七日・・・」。
左に目を移したところにも立てている閏庚申の塔婆の願文は「・・云々青面金剛大童士天下泰平家内安全・・云々」とか「奉 祈南無青面金・・」とあることから繋ぎ合わせてみれば「奉 祈南無青面大童士天下泰平家内安全・・」であろう。
下部にも墨書が書かれているが、煤けているから判読不可。
埃に塗れているわけではないが、古くもない。
また、新しい年号ものの塔婆がないことから庚申講は廃れた模様である。
念のためにKさんに尋ねた結果は、40年も前に廃れたらしい。
塔婆の年号が一番近いのは昭和47年。
云われるとおりの40年ほど前になるから証言は正確だ。
ただ、祠は近年において新築したという。
その際にどっさりあった閏庚申塔婆を庚申石仏の周囲に並べることにしたらしい。
年号などの確認もなく並べたものだから、バラバラである。
里道を隔てた向こう側にも祠がある。
そこの格子扉から覗いてみたら、美しいお姿の坐像石仏がある。
これもまたKさんに尋ねたら薬師さんだという。
檜前の地は渡来した機織りが住み着いた処である。
そういうことで於美阿志(おみあし)神社は機織りの神さんを祀っている。
その神さんの関係で薬師さんを祀るようになったらしい。
そこらへんについては歴史研究家が詳しいであろう。
帰り際、ふと思い出された畑に立てていたお札。
施餓鬼のようなヒラヒラではないが、なんとなくのお札は竹に挟んでいた。
そこには松苗も立てたという。
ずいぶん前のことのようで、いつのまにか届けられなくなったと云う。
若干のお話しか聞けなかった檜前を離れて大字冬野に鎮座する波多神社を探す。
上(かむら)にあがる手前の大字細川の対岸に右折れするアスファルト舗装道がある。
カーナビゲーションが示す冬野は遠い。
緩いカーブもあれば急カーブもある登り全力の道にローリング走行。
どこまで行っても集落は出てこない。
途中に下る道はあるが、登りを目指す。
帰宅してから調べてみれば大字畑(上畑)と冬野の集会所があるようだ。
とにかくローリングが繰り返すアスファルト舗装道に右や左にひっきりなしにハンドルをさばく。
右手に見える明日香村のクリーンセンターごみ焼却施設も通り抜けて大字の畑。
眼下に見えたが先を急ぐ。
しばらく走っていけば数人の姿。左側には車が数台。
なにかがあるような感じであったので尋ねてみればこの先で撮影が始まるという。
撮影の邪魔になるからすべての車を移動させという。
そこより少し行ったところに三叉路がある。
右や左も行き止まり。
集落はどこにあるのだ。
その撮影隊の男性に聞けば、木村家に向かわれるのかと云われるが、私の目的地は神社である。
木村家とどういう関係にあるのか存じないが、鬱陶しい聞き方である。
こちらから木村家とは一切伝えていない。
まるで木村家には行ってはならない様子。
何様のつもりなのか。
鬱陶しい撮影隊に関係したくないと思った。
目指す波多神社は左の筋にあるという。
登って下っていけるが、車は通れない人道。
先にある談山神社から下った方が無難だという。
もうすぐ撮影が始まるというから遠慮して下った。
監督はあの有名な女流監督と云えば、そうだという。
撮影隊の男性がいうには右に数軒。
左も数軒の集落のようだ。
だいたいの場所がわかっただけでも御の字。
再訪するしかないと思ったが、神社名はよく読めば波多。
冬野の下にある大字も畑。
つまりは機織りの「機」ではないだろうか。
(H29. 9. 9 SB932SH撮影)