9月8日は二日前の6日もそうだったが、この日も独り入浴。
今夜も入浴は独りで入れるようになったから入らせてと云いだして入浴する。
痛みがなければここまえ復活することができた。
嬉しいのは私たちであるが、おふくろはもっと嬉しい。
そのおふくろ、入浴あがりに洗濯機の上に置いた眼鏡がないという。
洗濯機の蓋に置いた眼鏡はふとした拍子に壁際に落ちたのかもしれない。
そう思って洗濯機を前方に傾けて斜めにする。
壁やら床の隙間にあったのは、昔しに落としたと思われるモノが出てきた。
タオル、履物などなどだが、眼鏡はない。
蓋を開けた際だ。
どういう具合になってそうなるのかわからないが、洗濯槽の内部に落ちた可能性も否定できない。
そう思って洗った着衣やタオルなどを槽から引き上げる。
眼鏡が紛れ込んでいないかどうか、一つずつ解くように広げる。
それでも見つからない眼鏡はどこに行ったのだ。
空中に消えたのかもしれない。
そんなことはあり得ない。
マジックが我が家で発生することはない。
それぞれ2回ずつ探してみるが、ない。
半ば諦めていたおふくろは思い出した。
おふくろが持参してきた袋を探してみれば、あったという。
マジックでもなんでもなかった。
認知症のたぐいかと思うが、前回に置いたことのある洗濯機の蓋。
そのときの印象が混同、それとも強い印象が記憶の断片に残った。
記憶に印象付けられたようであるが、探しても見つからない最中に私は云った。
眼鏡ぐらいなら買ったら良い。
失くしたものは買えば良い。
そう云っていたが、実際は記憶間違いであって、袋の中に存在していた。
再びこの世に出現したおふくろの眼鏡はオール金フレーム。
純金で作られた眼鏡フレームを買うときのことを思い出した。
買った眼鏡は60万円。
20年ほど前、保証人になってくれとおふくろは私に頼んだが、断った。
金のフレームにする必要性はない。
ない上に金額の高さに唖然として断固として断ったことを思い出した。
それが今回の大騒動になった金フレーム眼鏡。
結局は月賦で買ったという眼鏡。
生年月日から、本日の日にち、時間、食事、行動もきっちり云えるおふくろ。
二日前の介護認定調査員も驚かれた認知度あい、いや違った、記憶。
断片的でもなく脈々と話せる記憶であるが、つい最近の記憶の勘違いなんて誰しもあると思っている。
翌日の9日の朝。
起床したおふくろは腰辺りが痛くて歩きは不自由であったが、なんとかトイレに行く。
何故にそうなったのか、考えられるのは痛み止めの薬の服用である。
本人の意思で服用を停めていたというのだ。
それも期間が1日半。
我慢できると思って、そう判断したらしい。
薬を飲めば、それから数時間後には効き目を発揮する。
そうであれば、記録してはどうかと勧めた。
痛みが出たときの時間。服用したときの時間。
再び痛みが発症したときの時間。
我慢できる、できないではなく、発症した時間を記録することで、薬の効き目がどれぐらいあったのかが、わかる。
なぜにそうするのか、といえば良好に向かっていると感じられたからだ。
痛み止めの薬は毎日飲む。
或いは一日3回も飲むというような処方がある。
服用量はそれで良いのか。
むしろ飲み過ぎると身体によくないと云われているロキソニン錠。
痛みは人それぞれである。
錠剤の量も人それぞれである。
にも拘わらず・・・というような医師もあるやに聞く。
で、あれば、当初は必要事項であっても経過する状態によって換えることも考えないといけない。
それが傷みの間隔である。
発症する、服用する、その間隔を計測する。
決して感覚ではなく、間隔を実測する。
長ければ長いほど良好に向かっているということだ。
一時的に我が家で介助していたおふくろが希望を申し出る。
昨夜に三日前も我が家のお風呂は独りで入浴できるようになった。
髪の毛も洗うし身体も洗うが、身だしなみはそれだけでは済まない。
気持ちも新たに美容室に出かけて装いしたいと云う。
我が家の近くにも美容室はあるが、やはり馴染みのある美容師さんにお願いしたい、ということで住み慣れた住之江の美容室ノア。
美容してもらう日も決まった。
一時的都合で我が家にきていたおふくろは4日ぶりに居住地に戻った。
その晩に痛みが出てきた。
当然ながら痛み止めは飲んだ。
きっちりメモも書いておいた。
それから何日経ったのだろうか。
毎日、毎日が痛みのない生活におふくろはしゃんとしだした。
メモした10日から6日経った16日になっても痛みはない。
嬉しいが、また、いつ痛みが出るのか、いらん心配をしてしまうのが怖い。
(H29. 9.10 SB932SH撮影)
今夜も入浴は独りで入れるようになったから入らせてと云いだして入浴する。
痛みがなければここまえ復活することができた。
嬉しいのは私たちであるが、おふくろはもっと嬉しい。
そのおふくろ、入浴あがりに洗濯機の上に置いた眼鏡がないという。
洗濯機の蓋に置いた眼鏡はふとした拍子に壁際に落ちたのかもしれない。
そう思って洗濯機を前方に傾けて斜めにする。
壁やら床の隙間にあったのは、昔しに落としたと思われるモノが出てきた。
タオル、履物などなどだが、眼鏡はない。
蓋を開けた際だ。
どういう具合になってそうなるのかわからないが、洗濯槽の内部に落ちた可能性も否定できない。
そう思って洗った着衣やタオルなどを槽から引き上げる。
眼鏡が紛れ込んでいないかどうか、一つずつ解くように広げる。
それでも見つからない眼鏡はどこに行ったのだ。
空中に消えたのかもしれない。
そんなことはあり得ない。
マジックが我が家で発生することはない。
それぞれ2回ずつ探してみるが、ない。
半ば諦めていたおふくろは思い出した。
おふくろが持参してきた袋を探してみれば、あったという。
マジックでもなんでもなかった。
認知症のたぐいかと思うが、前回に置いたことのある洗濯機の蓋。
そのときの印象が混同、それとも強い印象が記憶の断片に残った。
記憶に印象付けられたようであるが、探しても見つからない最中に私は云った。
眼鏡ぐらいなら買ったら良い。
失くしたものは買えば良い。
そう云っていたが、実際は記憶間違いであって、袋の中に存在していた。
再びこの世に出現したおふくろの眼鏡はオール金フレーム。
純金で作られた眼鏡フレームを買うときのことを思い出した。
買った眼鏡は60万円。
20年ほど前、保証人になってくれとおふくろは私に頼んだが、断った。
金のフレームにする必要性はない。
ない上に金額の高さに唖然として断固として断ったことを思い出した。
それが今回の大騒動になった金フレーム眼鏡。
結局は月賦で買ったという眼鏡。
生年月日から、本日の日にち、時間、食事、行動もきっちり云えるおふくろ。
二日前の介護認定調査員も驚かれた認知度あい、いや違った、記憶。
断片的でもなく脈々と話せる記憶であるが、つい最近の記憶の勘違いなんて誰しもあると思っている。
翌日の9日の朝。
起床したおふくろは腰辺りが痛くて歩きは不自由であったが、なんとかトイレに行く。
何故にそうなったのか、考えられるのは痛み止めの薬の服用である。
本人の意思で服用を停めていたというのだ。
それも期間が1日半。
我慢できると思って、そう判断したらしい。
薬を飲めば、それから数時間後には効き目を発揮する。
そうであれば、記録してはどうかと勧めた。
痛みが出たときの時間。服用したときの時間。
再び痛みが発症したときの時間。
我慢できる、できないではなく、発症した時間を記録することで、薬の効き目がどれぐらいあったのかが、わかる。
なぜにそうするのか、といえば良好に向かっていると感じられたからだ。
痛み止めの薬は毎日飲む。
或いは一日3回も飲むというような処方がある。
服用量はそれで良いのか。
むしろ飲み過ぎると身体によくないと云われているロキソニン錠。
痛みは人それぞれである。
錠剤の量も人それぞれである。
にも拘わらず・・・というような医師もあるやに聞く。
で、あれば、当初は必要事項であっても経過する状態によって換えることも考えないといけない。
それが傷みの間隔である。
発症する、服用する、その間隔を計測する。
決して感覚ではなく、間隔を実測する。
長ければ長いほど良好に向かっているということだ。
一時的に我が家で介助していたおふくろが希望を申し出る。
昨夜に三日前も我が家のお風呂は独りで入浴できるようになった。
髪の毛も洗うし身体も洗うが、身だしなみはそれだけでは済まない。
気持ちも新たに美容室に出かけて装いしたいと云う。
我が家の近くにも美容室はあるが、やはり馴染みのある美容師さんにお願いしたい、ということで住み慣れた住之江の美容室ノア。
美容してもらう日も決まった。
一時的都合で我が家にきていたおふくろは4日ぶりに居住地に戻った。
その晩に痛みが出てきた。
当然ながら痛み止めは飲んだ。
きっちりメモも書いておいた。
それから何日経ったのだろうか。
毎日、毎日が痛みのない生活におふくろはしゃんとしだした。
メモした10日から6日経った16日になっても痛みはない。
嬉しいが、また、いつ痛みが出るのか、いらん心配をしてしまうのが怖い。
(H29. 9.10 SB932SH撮影)