マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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なら・アチックフォーラムin八百屋ろ・つづきの村

2018年11月01日 10時08分29秒 | 民俗を観る
主催者の高橋秀夫さんは民俗文化映像研究所が所蔵する民俗記録映画の「映画を観る会」の代表世話人。

これまで、略、民映研の映画をみる会が上映してきた民俗記録は4回。

5回目となった今回の上映テーマは「秩父の通過儀礼その1」だ。

作品は1979年に製作された45分もの。

「なら・アチックフォーラム」上映会のお知らせと称して案内状が届いた。

「人はどう生きてきたのか。そのことを考える、それは人はどう生きていくのか」という問いになります、とあった。

難しいテーマに上映会後に解説があるのか、それとも座談会であるのか。

重苦しいテーマは私の範疇ではないが、上映する民俗記録映画は「秩父の通過儀礼」。

サブタイトルに「安産祈願から帯解きまで」とある。

記録映画の1シーンは「出産後、7日目に行われるアカダキ。赤ちゃんに名前がつけられ、親戚や近所の人に披露される」のキャプションがあった。

民俗行事というか、習俗を記録した映画は観てみたくなる。

その下にもキャプションがあった。

「人には一個の生命体としての、また社会的な存在としての成長段階がある。その段階を無事に通過し、健やかな人間に成長していくように、多くの通過儀礼を生みだしてきた」である。

地域は関東地方の秩父であっても上映記録は観てみたい。

私は奈良県内の伝統的行事や今も続けられている民間信仰や家の祭り方の習俗も記録してきた。

何らかの関連性があるのなら、また、類事例として知っておくと後々役に立つかもと思ってみたものの、会費は1500円。

ドリンクか何かがついているのだろうか。

とにかく私にとっては高額な上映会は二の足を踏む。

価値観は人それぞれであるようにさまざまである。

だが、私にとっては1500円を支払ってまで学びを必要とするテーマであるのか、葛藤の毎日。

しかも、おふくろの介助支援に家を空けるのも困難になってきた日々に出歩くのが辛い。

ここらは思い切るしかないと思って、おふくろの身体状況、短時間で戻れると判断して車を走らせた。

所在地をカーナビゲーションにセットしておけば難なく会場に誘導してくれたのがありがたい。

会場に着いてどこに車を停めていいのか指定場所を教えてもらって格納する。

受付会場は併設する八百屋ろ。

自家栽培の野菜などが並んでいる。

価格帯は私が買っている価格の2倍くらいか。

とてもじゃないが貧困生活に相応しくない価格帯に、いくら良い商品であっても我が生活には無理がある。

もうしわけないが遠慮させていただく。

参加費1500円を支払って受付帳に名を書く。

その受付帳には知り合いの名前もある。

案内が届いたので行って、観てみようということになったそうだ。

感覚的には私と同様。

開演が始まるまでは近況を伝え合う。

そうこうしているうちに室内の照明を落とされてスクーリンに映像が映し出された。

NHKが収録したアーカイブ映像。

民俗学者の宮本常一氏に師事した姫田忠義氏を物語る短編映画のようだ。

名前はうっすらと記憶にあるぐらい、どこで耳にしたのかさっぱり覚えていない。

詳しくは姫田忠義氏を師事した高橋秀夫さんが纏めたPDFがあるので、そちらを参照されたい。

短編映像を観て思い出した。

たしか4年間だったか、毎年の焼き畑耕作をとらえた映像だ。

そこがどこだったか覚えてないが、映像は椿山と伝えていた。

現地はどこなのか。調べてみれば高知県だった。

さて、本題の「秩父の通過儀礼―安産祈願から帯解きまで―」である。

秩父に赤ちゃんが生まれる前からの祈りに、ご加護を受けて誕生した赤ちゃんが帯解きを迎える7歳までの記録映像である。

収録は昭和53年から54年にかけて。

文化庁の記録映像として撮影・編集された作品のようだ。

今回の上映作品はその1。

秩父の通過儀礼」はシリーズでその5まであるようだ。

秩父地方は秩父山地に囲まれた埼玉県であるが、山梨県に長野県、群馬県、東京都に接している。

東京都に流れる荒川の上流部になる。

そこにある山間集落の民俗を紹介される。

町名はどこであろうか。

3町に関わるイワナイ神社の春。

安全祈願に参る村人の映像。

オイヌさま(神犬)のオオカミ信仰。

岩根大神(埼玉県長瀞町井戸)の幟が見える。

安産の願掛けに奉納する祭具は底抜けの柄杓。

無事に生まれてほしい産道(通道)を意味しているのだろうか。

その柄杓映像にふと思い出した大和郡山市田中町の住民が作っていた竹製の柄杓である。

東京にある神社からの依頼で作っていた柄杓は2種類。

一つは一般的な形の柄杓。

すぐにでも使える形良い柄杓。

もう1種の柄杓に特徴がある。

柄杓には底が無いのである。

2種の柄杓は子授けの願掛け。

底無しの場合は子どもを願わない。

子どもを願うのは底有りである。

岩根神社・安産堂は安産の願掛け。

願いは子授けに安産を願うための柄杓であるが、地域によってとらえ方が違うのが面白い。

それこそが民俗であると思うのである。

ちなみにネット調べであるが、埼玉県長瀞町の瀧野神社にも岩根神社同様に安産祈願に底抜け柄杓を奉納している事例を紹介していた。

ちなみに岩根神社の願掛けに洗米が登場する。

赤い帯のような布切れ腹帯であろうか。

それを祈祷に(藤原)安産堂に布団を持ちこんでお籠りするのは4月。

映像に語られるものを耳聞きしてメモっているが、上映会場は暗い。

何を書いているのかわからないし、断片的な表現にならざるを得ない。

聞き間違いもあれば勘違いしてメモっている可能性もあるから、ご容赦願いたい。

さて、臨月を乗り越えて子どもが生まれそうになる。

登場するのはトリアゲバアサン(取り上げ婆さん)である。

安産堂には絵馬があるらしい。

赤い帯はさらしに縫い付ける。

5カ月目の戌の日は腹帯の着帯。

昭和35年はこうだったという再現映像に産湯の井戸の水を桶に汲んで沸かしていた。

その湯が取り出した赤ちゃんが浸かる産湯。

湯は竃で沸かしていた。

産湯は畳のない板間に置いた。

浸かった産湯を捨てる場所を確保する。

その板間にある板一枚を外した。

空間ができた。

そこから流し捨てる産湯は床下に沈めて始末したのである。

後産の場合は生まれた子どもが男の子であればスミ(炭)とツギ。

女の子はハリ(針)とイト(糸)。

これらは奉書で包む。

玄関敷居前の地面に穴を掘って、それを埋める。

なるべく多くの人に踏みつけてもらうということだが、意味の解説はなかったように思える。

この件については後述参照する桐原嗣雄著書の『秩父の民俗―山里の祭りと暮らし―』に載っていた。

それによれば「堅く、賢くなる」とか「愛嬌がよくなる」ということだった。

神棚の神さんに炊きたてのご飯を供える。

別の竃でオカイサンを炊く。

安産堂でもらったオセンマイ(洗米)を入れて炊く。

お産の七日間は「チブク」。

お産を穢れとして忌み嫌うのであるが、充てる漢字は何であろう。

たぶんに「血忌」であろう。

生まれた子どもが男の子であればカマでへその緒を切る。

女の子であればハサミで切る解説していた。

脱脂綿にガーゼでくるむ。

砂糖水を含ませて赤ちゃんに吸わせる。

赤ちゃんの胎毒を除去する手段である。

また、貰い乳の風習も取りあげていた。

7日のオヒチヤ(お七夜)までは赤ちゃんを取り上げた(トリアゲバアサン)も来ていた。

産着を作るのに真綿からオマモリサンの糸取りをしていた。

襟の部分の三角部に赤い襟を縫い付けた。

そこにお守りを付けた。

七・五・三の段というか、波のように折りこんで縫い付けた。

そして、額に「犬」の文字を書く。

幹書房発刊の桐原嗣雄著書の『秩父の民俗―山里の祭りと暮らし―』の「第六章 人の人生の儀礼」が詳しいのでそちらを参照願いたい。

やがて参る「セチエマイリ」。

「セチエマイリ」は節会のお参りではなく、「セッチン」が訛ったと想定される「セチエ」である。

「セチエマイリ」の「セッチン」とは「雪隠」。

つまり便所である。

集落民家の便所は屋外にある。

地域によっては七日目に参る所もあるらしい。

「雪隠参り」は集落民家を巡って、その家の外便所参り。

お米を包んだオヒネリを便所内に置いて手を合わす雪隠の神さんを拝む雪隠参り。

その間の母親は赤ちゃんをずっと抱いたままだ。

外の便所の神さんに参ってもらったお家の人はお返しに大豆を渡す。

参った赤ちゃんが「豆に暮らせるように」という願いで返すのだ。

地区、或いは家にもよるが、細く長くということで、糸を渡す家もあるようだ。

そのころともなれば、へその緒がポロリと落ちる。

生まれて七日目はオヒチヤ(お七夜)。

その日に名前を命名する。

命名した書は神棚の産土神に奉る。

親類縁者に近隣の家の人にトリアゲバアサンなど大勢の人たちが祝いに駆けつける。

この場で初めて祝いに来られた人たちの前に連れてきて顔見世お披露目である。

そして順番に替わりばんこ、に抱っこする。

「アカダキ」の名がある替わりばんこ、にしてあげる赤ちゃん抱きである。

奇数の日にお宮参り。

南天の葉を添えた赤飯盛り重箱を氏神さんに供える。

このときは母親も姑さんも晴れ着姿。

関西では晴れ着姿の姑さんが抱く赤ちゃんに「ヒモセン」を吊るした。

我が家の子どもたちの宮参りもそうしていたが、秩父ではヒモセンの風習はないようだ。

お宮参りの道中に出合うことがある。

待ち構えていたのは近所の子ども。

出合えば箸で摘まんだ赤飯を子どもの手に入れてあげる。

祝いのおすそ分けである。

もらった子どもは箸も使わずにそのまま口に放り込んで食べる。

いわゆるテゴク(手御供)の形である。

お宮さんに着いたら鎮守の森にあるカシの枝を折って箸に。

葉は赤飯を盛る小皿にする。

それを氏神さんに供えるお宮参りである。

生後百日目はオクイゾメ(お喰い初め)。

川原にある丸い石、或いはカドニワにある丸い石を拾ってきてオクイゾメに食べる白米(赤飯や小豆飯の場合もある)盛りの茶碗に並べるおかずの小皿に盛る。

石がおかずになるというのだが、食べることはないだろう。

何故に石であるのか。

オクイゾメはハガタメ(歯固め)でもある。

歯が丈夫になるようにという願いである。

なお、丸い石は一年間に亘って神棚に奉られる。

満一歳になった子どもはタンジョウモチ(誕生餅)を布に包んで背負う。

満一歳ともなれば多少は前後するが、だいたいの子どもは立って歩けるようにある。

歩けると云ってもよちよち歩きに重たい餅を背負って皆から祝福される。

秩父での映像では三輪車につかまり立ちしていた子どもがよちよち歩きしていたが、奈良県内事例とは若干の違いがある。

秩父の餅の量はわからないが、県内事例では初誕生の一升餅

けっこう重たくてたいがいの子どもはひっくり返りそうになる。

よちよち歩きでもハイハイでも良いが、子どもの眼の先には道具を並べる。

算盤でも良いし、鉛筆などの文具に野球のグローブ・バットでも。

親の願いは道具にある。算盤であれば経理マン。

鉛筆・文具であれば総務マン。

グローブ・バットは誰が考えてもプロ野球。

そういったものを子どもの前に並べてどれを手にするのか・・・はいはい、こちらと云って方向先を誘導する。

また、子どもが初めに座らせている道具は箕である。

こうした在り方は秩父には見られなかった。

場面は転じて「ホウソ」の祝い。

桑の木の蔦に麦を鍋に入れて煮立つ。

竹柄杓でその汁をとる。

鍋の蓋は赤ちゃんの頭の上に被せるような恰好をつけている。

その汁は赤ちゃんの頭に落して「ホウソ」するという。

特徴的なのは「ホウソ」に藁で作った馬がある。

大型ではなく小型の「ウマワラ」である。

ワラウマは両肩に荷物を載せるような形にしている。

そこに赤飯を積む。

積むといっても盛るという感じである。

これを「ホウソ神」を立てたという。

背中に幣を立てた「ホウソ神」で「ホウソ送り」をする。

昔はサンダワラにもしていたが、映像に出てくるサカウエ家独自の風習だったようだ。

夜泣き封じにニワトリ(鶏)の絵を描いて神棚に貼るが、それは逆さであった。

お地蔵さんに涎掛けを新調する。

これもまた願掛けで涎をしなくなるように、という願いである。

アライ家は初節句にヨモギの草餅を作る。

4月3日の雛祭りに祝いの人形を贈ってもらう。

餅つきは摘んできたヨモギも入れて搗いたヨモギの草餅も神棚に供える。

これを雛祭りの餅と云って、ヒシ型に整えていた。

ヨモギモチを上に下は白餅。

同じ大きさの二つの餅は長めの長方形。

それを包丁で斜めに切ってヒシ型にする。

これもまた神棚に供えた。

ヒシモチは割り合い大きい。

底辺が20cmくらいと思われる。

5月の節句は男の子の祭り。

「秩父のヒョウグ」と云って、勇ましい武者絵の幟を立てる。

女の子であれば高砂のようだ。

青竹を伐って幟立てに加工する。

そこに家紋も染めた武者絵幟などをカドニワに立てる。

映像で紹介されていたのはその場にコイノボリもあった。

コイノボリも竹であるが、先っぽには竹の葉がある。

私はこれまで奈良県内の初男児誕生年のコイノボリを記録してきた。

地域、家によっても支柱の材は異なるが初年度は葉付きの木材である。

だいたいが杉、桧であった葉付きコイノボリ支柱は翌年に揚げるときは風車に取り換える。

映像にあったコイノボリの支柱の材は竹であったが葉付きであった。

2年目はどうしていたのか映像にはない。

その解説によれば、昔は幟だけであった。

いつしか年代が経つにつれてコイノボリも同居するようになった。

それから何年か経てば幟は消えたと伝えていた。

奈良県内の聞取りでも同じような状況であるが、映し出す映像に幟、コイノボリの支柱は数本も並んでいた。

「秩父のヒョウグ」の表現が気にかかる。

幟もコイノボリも販売していたのは表具屋さんだったのでは、と思った次第だ。

ちなみに映像は転じて、お参りする安産堂に幟を奉っていた。

瞬間しか映らなかったのでよく見えなかったが、奉納する幟は染め文字だけだったような気がする。

節句につきものと云えばショウブにヨモギである。

幟を立てた家は、この日が端午の節句のフキゴモリ。

ショウブにヨモギで屋根を葺くからフキゴモリと云うのだが、籠りがどこでするのか名言化していないが、調べてみれば端午の節句にショウブにヨモギを屋根と軒下の間に挟むことを「屋根葺き」と呼んでいたのである。

この「屋根葺き」を終えたら籠りをしているらしい。

詳しくは平成11年に発刊された『長瀞町史』に「第四章 年中行事と食べ物」の「第六節 五月の行事」に「八十八夜 道普請・堀普請 フキゴモリ 端午の節句 花まつり ホウソウ儀礼」があるので参考にされたいが、デジタル大辞泉によれば「フキゴモリ」の場は自宅になるようだ。

神社行事でもなく寺行事でもない民間習俗であった。

なお、「フキゴモリ」をキーワードに検索してみれば愛知県瀬戸市においても同じ習俗が見つかった。

また、屋根葺きが終わった家ではフキゴモリ、或いはフキアゲイワイと称して酒宴をいていたのは東京都の離島になる新島。

ショウブとヨモギではないが、フキゴモリ習俗が同じような形態であったことも付記しておく。

小豆米をホウノハ(朴の葉)などの葉に包んで藁紐で括る。

これを茹でる。炊きあがったあがった小豆米は包みを広げて食べる。

よばれるのは子どもたちだ。

その子どもたちはいずれも額にショウブを鉢巻きのようにして縛っている。

11月の七五三を秩父ではオビトキ(帯解き)と呼ぶ。

奇麗なおべべを着て宮さんに参るのはどこでも同じだ。

参拝の際、摘み取ったサカキの葉を皿代わりにして赤飯を盛って供える。

七五三を迎えた子どもは精神的にも肉体的にも体力が良くなって、村の一員として認められる。

七五三祝いは無事に成長したことへの感謝する日。

七五三歳の節目に子どもの将来を祝い、長寿を願う習俗である。

なるほどと思う「帯解き」は着物姿の帯を解いて元服するということだろうか。

奈良県内の行事をみるかぎりであるが、元服なら15、6歳。晴れて村入りする年齢になったということで認められるのであるが、秩父はもっと早い段階であることが特徴的だと思った。

取材地は埼玉県秩父郡長瀞町井戸の他、皆野町三沢・藤原・立沢/吉田町下吉田だった。

45分間の民俗映像を堪能させていただいた。

事例を知る上ではとても役に立つであろう。

視聴参加者は11人。

同じような感覚をお持ちになられたかどうかは知る由もない。

上映が終わってからは高橋氏がコントロールする座談会のようだが、知り合いの人ら同士の会話に集中していた。

私はその会話についていけない。

尤もついていこうとは思わないどちらかといえば、スピリチュア観の話しのようで重苦しい。

差別とか、区別とか、本能とか・・。

これからどうしていくのか・・・とか。

映像を通じて民俗事例を研究、考察すると思っていたが、それは違った方向性であった。

上映していた内容から徐々にどころか、まったくもって違う世界に。

事例であれば見聞き取材しているのでそれなりの事例については発言できるが、スピリチュアの世界は馴染んでいない。

霊魂でなくとも、精神面での思いを伝えられても私はしんどい。

特定の人たちが会話する内容には口を挟む余地はまったくなかった。

※ 参考-民映研フイルム作品・上映5分間<雪隠参り>映像

(H29. 8.19 SB932SH撮影)